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逃げた男がぬけぬけと

 家族は疎開先を長野に決めた。一家の長、父が頼りにしたい人がそこにいるからである。

 家族は電車に揺られていた。下の娘はすっかり疲れて眠ってしまっていたが、上の男の子は元気で母と会話をしていた。父はそれを聞き流しながら窓の外を眺め、これからの展望を算用し、これまでを振り返っていた。



「お父さんがこれから会う偉い人の奥さんは、かつてお父さんと結婚しようとしていた人だったのよ」

「結婚?」

 父は母と結婚しているのに? と男の子は首をかしげる。母親がとんでもないことを息子に教えているのに、父の方はすっかり聞き流してしまっていて気づいていなかった。


「その人と一緒になれなかったらお父さんは一緒に心中しようとしてたんですって」

「心中ってなあに」

「この世で一緒になれない恋人同士があの世で一緒になることを願って、一緒に死ぬことよ」

 一家の夫妻はとても見目が良かった。美しい母の顔に朱がさして色を添える。目をキラキラと輝かせて語るので、子供は夢物語を聞いている気分になった。


「お父さん、どうしてその偉い人のところに行くの」

「うん? 大切な宝物を預けてあるんだ。それを取りに行くんだよ」

「宝物!」

 男の子は先ほど夢物語を聞かされたので、その宝物が素晴らしいものに違いないと胸を弾ませた。



 わくわくと笑顔で電車に揺られる子供と対照的に、父の顔はどこか浮かない風であった。

 彼はかつてした自分の失敗を思い返していたからである。




 若い頃の和田六郎は生来の容姿の良さと若さゆえの全能感に満ちていた青年だった。

 彼は華々しい文壇への憧れを胸に谷崎潤一郎の避暑地有馬を訪問した。


 六郎はそこで執筆時の谷崎を始めて見る。髪は乱れ、目は落ちくぼみ、創作の苦しみとはかくも壮絶なのか、と驚く。

 谷崎と六郎青年との出会いはこの前年。和田一家の避暑地箱根に、谷崎一家も避暑にと訪れてそこで出会ったのだ。

 その時の洒落た装いの谷崎と、執筆時の谷崎との様相の違いに六郎は愕然とするのであった。


 六郎の登場は谷崎の執筆のために放っておかれて退屈していた谷崎の家族の無聊を癒すもので、彼らは六郎を歓迎するのだった。

 六郎青年は記憶力に優れていた。アルセーヌ・ルパンの水晶の栓を暗唱して聞かせるなどして、谷崎の家族達はその青年の才気に感心しきりだった。


 二年後の春、六郎は薬学専門学校を卒業後、再び谷崎家を訪れる。諦めきれぬ文壇への憧れを果たすための決断だった。六郎二十二歳の頃のことである。


 谷崎の妻千代はどこかモダンでハイカラな女性だった。対して、谷崎は丸刈りにして服装は和装に凝っていた。

 おしゃれな年上の人妻に、六郎は青年らしく思わずのぼせ上ってしまう。千代が美しかったのもあるが、憧れの文筆家の持つ世界の一つだからこそ、抱いた熱でもあった。


 対する千代も若く美しい天才青年に向けるまなざしは優しいものだった。かつて、才気を見せつけられたことがしっかりと印象付けられていたからである。


 親しげな六郎と千代の様子を見て、谷崎はある提案をする。



 谷崎は梅ケ谷に住み、千代達谷崎一家と六郎は好文園二号の家に住みだした。千代は六郎より八歳年上であった。


 谷崎は「蓼食う虫」を新聞紙に連載し出す。冷えた関係の夫婦の話である。妻には恋人がいて頻繁に通い、夫はそれを容認し、波風の立たない離婚を目論む。そんな中、妻の父に連れられて行った文楽を楽しむ中、妻の父の妾に惹かれる。



 谷崎は千代に報告させる。千代は、六郎との交際を谷崎に報告する。そして、谷崎は「蓼食う虫」を執筆する。

 六郎は谷崎の小説の登場人物にさせられたのだ。


 谷崎の掌の上、六郎と千代の恋は次第に熱を上げていく。


 六郎は夢の世界に生きていた。憧れた作家の世界の中に生きながらにして浸っている。そして、美しい夫人との美しい恋は楽しかった。

 現実離れした世界に身を置いている。熱に浮かされているが、本人は真剣なつもりだった。



 彼らの交際は彼らの間では順調だった。東京から六郎の兄が関西へやってくる。六郎と兄と二人で谷崎一家に挨拶をする。結婚の話はいよいよ大詰めであった。


 千代が妊娠したが、谷崎に堕胎された。千代の夫は谷崎である。その生殺与奪権は六郎になかった。

 六郎はこの時、一瞬夢から覚めた。この頃から、目に見えぬ亀裂が千代との間に入っていたのである。



 谷崎は友人佐藤春夫に千代の新しい恋を報告する。いよいよ、先方へ行くことに決まった、と。

 谷崎と佐藤はかつて絶縁していた。しかし、その絶縁は長くは続かず、二人は交友を復活させていた。


 谷崎と佐藤の絶縁の原因は千代である。千代の妹と結婚する気であった谷崎は千代を佐藤に譲るとしていたのだが、肝心の女が谷崎と結婚する気がなかったので、谷崎は前言を撤回したのだ。


 六郎と千代の交際は、佐藤と千代の交際の焼き直しであった。



 いよいよ千代が六郎と結婚する、その話を聞いた佐藤は千代の元へと駆けつけて一晩中話をする。

 千代は、涙ながらに佐藤に語ったという。




 その様を谷崎家に居候していた谷崎の末弟終平が窺っていた。そして、これはご注進しなければ、と六郎に教えてしまう。


 六郎は激怒した。

 かつて千代が佐藤と交際していたことは知っていた。世間的には二人はプラトニックな付き合いだったというが、そんなわけはないだろうと六郎は思っている。


 六郎は千代に決別状を送り付ける。そして、それ以来、彼らの前から姿を消してしまった。



 六郎は上辺は取り繕えるが、内面はもろかった。千代に向き合うだけの強さを持っていなかったのである。

 六郎は逃げたのだ。建前だけ千代をこちらから捨ててやったとするために、決別状を突き付けたのだ。




「蓼食う虫」の夫婦はいよいよ離婚すると話を詰めた段階で完全に離婚しないまま作品は終わる。

 美佐子は千代、要は谷崎、美佐子の恋人阿曽は六郎、夫婦の相談を聞く高夏は佐藤のことであった。




 東京に逃げ帰った六郎は、すっかり消沈していた。兄弟達は元気づけようと芸者遊びに誘う。

 書生をやめて文壇への憧れを断ち切った六郎は放蕩生活の後、陶工を志したり、株に手を出したりした。

 そうこうする内、せっかくもらっていた遺産はすっかり底をついてしまった。

 六郎の父は高名な鉱物学者である。そして貴族院議員でもあった。六郎は苦労を知らないお金持ちの子である。


 六郎は薬学専門学校卒の経歴を活かして警視庁の吏員になった。鑑識課に八年在籍する。


 この時、運命の出会いを果たす。

 上司の妻であった徳子(のりこ)である。

 徳子は夫の浮気に腹を立て、実家の鹿児島に帰ってしまった。そこを追いかけて、六郎は徳子を口説き落とした。

 六郎は徳子を妻に迎えた。


 上司の妻であった徳子を妻にしてしまったので、六郎は職場に居りづらくなり、退職した。

 徳子には口説き落とすときに、上司のもとにいる娘を引き取ろうと言ったのに、いざ会ってみると上司の面影をだいぶ残しているので、愛せるか自信がなく、引き取ることをやめた。

 六郎の逃げ癖がここでも発揮されたのだ。



 せっかく惚れ抜いて得た妻なのに、この一件で、妻との関係は少し冷えたものになった。

 だが、それでも六郎は妻を恋い慕った。

 妻が繕い物をしていると、それを取り上げる。

「そんなことをしないでくれ。お前とただ見つめ合っていたいんだ」

 妻はそんなことを言われても困ってしまう。生活は日々の雑事をこなさねば成り立たないのだ。



 六郎は画商になった。だが、ここでも大きな失敗をしてしまう。

 不注意から客に贋作を売ってしまったのだ。

 責任を取って画商を廃業せざるを得なかった。



 そして、六郎一家は長野に疎開した。それに先立って、画商時代に知り合った作家に手紙と小説を送った。

 その作家とは、佐藤春夫である。最終的に千代の夫となった男だ。


 画商時代はあくまで客として接した。とくに千代のことを言及することはなかった。

 佐藤が六郎のことを気付いているかどうかはわからない。だが、気づいてないはずがない、と六郎は思う。



 画商を廃業して六郎は困り果ててしまった。妻は男が稼がないでどうするとつけつけと言ってくる。自分に何ができる、と振り返ってみて明確にこれというものは思いつかなかった。

 しかし、若い頃まで振り返ってみて、そう言えば文壇に憧れを持っていたと思い出したのだ。

 若い頃目指したからと言って、六郎はずぶの素人である。誰かに師事してもらえないかと考えた時、画商時代に知り合った作家のことが頭に浮かんだのだ。


 佐藤は弟子を多く抱えているらしい。その大勢の一人に混ぜてもらえないか、そう考えた。



 どうやって佐藤に気にいられるか。目下の悩みはそれである。上っ面を取り繕うのは得意な方だ。しかし、佐藤の妻、千代のことがある。

 六郎のことを知らぬわけがないのだ。

 会うなり、罵倒なり馬鹿にされたりするかもしれない。そうなっては取り繕うどころではない。


 考えれば考えるほど、六郎は逃げ出したかった。

 どうしてこうなった、何を間違えてきた、と思えば何もかもを間違えてきた気もしてくる。


 あの悪魔的男がもう少しだけ普通の人の感覚を持っていたらこうはなっていなかっただろう。そうは思うが、結局は乗せられて実行してしまったのは自分なのだ。


 佐藤以上に千代に会うのが憂鬱だ。会って何を話せばいい。どうにか気を使って留守にしていてくれないものか。

 もし、千代が変わらず美しいままだったら。

 いや、そんなことはあり得ない。あれからもう何年も経っているのだ。自分はどちらかと言えば、彼女の容色が衰えているのを見て安心したい。妻の方が美しいに決まっている。




 そんな後悔や葛藤を胸に抱いたまま、六郎は家族と共に長野にたどり着いた。

 佐藤一家は快く六郎達を出迎えしてくれた。気さくに歓迎の姿勢を見せてくれる。


 佐藤は鼻眼鏡にどてらを着込んだ体裁をかまわない姿だった。しかし、どこかしら風格を感じさせる。これが、文豪としての格というものだろうか。

 夫人の千代の方も、身なりをかまっている風でもない。そこらの農家の中年嫁のような見た目である。

 千代はよく動き回って客をもてなした。どうぞどうぞと客を寛がせようとしてくる。


「ごめんなさいねえ。あんまり片付いていなくって」

 通された客間こそ物が少なかったが、それ以外は物がそこかしこに置いてあった。佐藤一家も越してきてまだ生活を落ち着けていないのだろうか、と六郎は思う。


「やあ、こんにちは」

 佐藤は子供が好きなのか、子供達に目線を合わせて優しげに話しかけている。子供を連れてきて正解だった。六郎はそう内心でひとりごちる。



 佐藤家には彼らの孫も来ていた。子供達の遊び相手に、と紹介される。


 六郎はその孫娘の顔を見て、あの悪魔的男の面影を見出そうとしてしまう。それに気づいて、そんなことはいけないと六郎は戒めた。


「あの子の名前、百々子って言うんですけどね。あの子のおじいさんが名付けたんですよ」

 言わなくていいのに、わざわざあの子のおじいさんという言い方をしたので、少女があの悪魔的男の孫娘だとはっきり認識してしまう。



 六郎と佐藤はしばらく子供達の遊ぶ姿を眺めた。徳子や千代は子供たちにの遊びに付き添って側で見守っている。

「君の細君は随分美人だね」

 佐藤のその言葉に六郎は内心苦いものを感じる。千代は佐藤にとって五人目の妻である。この男も結構な色好みなのだ。

 六郎自身もそういう気性はあるので、それを責める権利はない。



「君の小説、読んだよ」

 佐藤に切り出されて、六郎は背筋を伸ばし直す。

「まあ、それなりのものは書けているね。もう少し書けるようになったら、雑誌への口を利いてあげよう」

 六郎は一拍放心し、次いで慌てて頭を下げた。

「あ、ありがとうございます!」

 六郎は無事に佐藤の弟子となることができた。



 その晩、六郎一家は佐藤家で晩御飯をごちそうになった。子供達は久しぶりの立派な食事に感激している。

「お父さんのお肉の方が大きい! ずるいなあ!」

 息子が六郎の膳を見て指摘してくる。それを受けて、六郎は大いに照れた。佐藤や千代を窺えば、二人とも笑顔で、その笑顔の中には気遣いが感じられた。二人は終始、言葉には出さないながら六郎のことを労わっていた。



 六郎は佐藤一家が住む隣の村に住み、そこで小説を書いて度々佐藤の元へと通った。

 佐藤は中々良しと言わなかった。

「君は筋立てはできているが、描写ができていない」

 佐藤の六郎の小説への評価はこれであった。描写にこだわったつもりの六郎にとって、この言葉は相当堪えた。

 放蕩時代の芸者遊びを活かして書いた花柳小説などはまったく認めてもらえなかった。



 六郎はデビューもできないまま、長野での生活を続けていた。

 次第に夫婦喧嘩も増えていった。

 戦後の預金封鎖で月に使える金が500円と定められたが、自由業ならばさらに500円の上乗せが許される。

 それを言い訳に妻に言い聞かせていたが、入ってくる金もなければ預金封鎖も何もない。

 妻は一度子供達を連れて実家に帰りたいと言うようになった。一度、子供達の顔を両親に見せたいというのが、彼女の言い分だ。

 しかし、六郎はそれを頑として認めなかった。

 帰られてしまっては、きっと自分の元に戻ってこなくなる。そんな予感のために、嫌だとはねつけたのだ。

 一人になるのは嫌だった。寂しいのだ。


 六郎は勝手な男である。

「もういい!」

 口論の末、そう言ってふて寝してしまった。

 書き物机の横に、辞書を枕に仰向けになる。


 しばらくそうして天井を眺めていた。

 どのくらいの時間、そうしていたか。六郎はにわかに起き上がると机に向かった。

「君を殺してやる!」

 そう宣言すると、猛然と書き始めた。


 それから数日、六郎は一心不乱に書き続けた。そして書き上げると、原稿を高々と掲げて小躍りした。

「やったーーー! 殺してやった! 殺してやったぞ!」

 子供のように無邪気に喜んでいたという。



 昭和二十三年「宝石」の八月号に、その小説「天狗」は掲載された。

 作家大坪砂男の誕生である。

 佐藤春夫に師事して三年。連れてきた息子は七歳から十歳になっていた。彼が四十四歳。遅咲きのデビューであった。

参考

つれなかりせばなかなかに―妻をめぐる文豪と詩人の恋の葛藤

瀬戸内寂聴

創元推理文庫版〈大坪砂男全集〉全4巻刊行記念 和田周インタビュー(聞き手・日下三蔵)[2013年2月]

http://www.webmysteries.jp/archives/12245856.html

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[良い点] 秋の公式企画から拝読させていただきました。 このエピソードは寡聞にして、存じあげませんでしたが、興味深く読ませていただきました。 ありがとうございます。
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