『胎児の微睡み』
それはまるで、肉体を構成する全細胞が一斉に発狂してしまったかのようだった。
交互に襲い来る暑さと寒さ。金槌で殴打されているような頭痛。在りもしない内容物を吐き出そうと痙攣する胃。数時間前の固い覚悟は既に消え、今やトレントは必至で神に謝罪の言葉を連ねていた。
こんなに酷い禁断症状は久しぶりだと、トレントは厚手の毛布に包まった。滝のような汗を流しながらも悪寒に震え、目蓋の裏側では極彩色のフラクタル構造が自己参照を無限に繰り返している。耐えきれず眼を開けば、やはりそこも暗闇。自分で被った毛布の中を、光を求めて無茶苦茶に暴れ回った。
一瞬差した光明に向かって飛び出すと、そこはベッドの外だった。重力に引かれるまま床へ叩きつけられ、鋭敏になった神経はその痛みを最大限に増幅して伝えた。全身の骨が粉々になってしまったと見紛う程の激痛。自分の悲鳴をどこか遠くに聞きながら、人間の声帯はこんな音も出力できるのかと、トレントは断片のような思考を浮かべた。
もう限界だ、耐えられない。
必死の思いでスマートフォンを手繰り寄せ、アドレスからお馴染の番号をタップする。頭蓋の中で響き渡るコール音に歯を食いしばって耐えた。程なくして、しゃがれた男の声がそれに答える。
『注文は?』
「ディナーを……今すぐだ!」
声は震え、殆ど聞き取れない呻きに近かったが、相手にはそれで十分だった。
トレント、二十五歳。七回目の禁ヤクが失敗した瞬間だった。
一度そうと決めた途端、トレントの体は驚くほど軽くなった。未だ体調は優れないものの、ベッドの上でのたうち回っていた時よりはずっと良い。
シャツの上からグレーのジャケットを羽織り、家中のクレジットをかき集めてポケットに詰め込む。
外ではもう日が落ち、夜空から細かな雪がはらはらと舞っていた。着地した雪は地下を通る下水溝の熱に溶かされ水となり、遍くネオンの光を返して道にサイケデリック・アートを描き出している。トレントは最後に幻覚剤をキメた日を思い出し、ぶるりと身震いした。
目の前を通りかかった無人タクシーを呼び止めた。この街らしく、スプレーで卑猥な落書きを施された黄色の小型車だ。
乗り込んで手短に行き先を告げると、パネルに料金が表示された。夜間料金で安くはないが、この時間では地下鉄もバスも動いていないのだ。しぶしぶポケットからクレジットを取り出して投入口を探すが、見つからない。しばらくそうしていると、見かねたのか無人タクシーが不気味なほど穏やかな合成音声で語り掛けた。
〈申し訳ありませんが、紙幣は取り扱っておりません〉
ああ、そうか。ここはまだ表の社会か。トレントは思い直し、手の甲に埋め込まれたチップで電子決済を済ませた。
ここ数年で社会は急速にキャッシュレスへと舵を切ったのだ。表向きは利用者の利便性向上と現金製造コストの削減としているが、実際には政府による監視と犯罪抑制の為に。政府がその気になれば、スイッチ一つで個人の資産を瞬時に凍結させる事さえ出来る。未だ現金が多く流通する裏社会に入り浸っていたトレントは、そのことをすっかり失念していた。
決済が無事に完了したことを確認した無人タクシーのモーターが穏やかな唸りを上げて、滑るように走り出した。車のウィンドウにトレントの趣味嗜好に合わせたホログラム広告やトピックが浮かび上がる。電子決済の持つ透明性、個人追跡能力がなせる業だ。
アルコール飲料、電子煙草、オーバードーズ用の市販薬。政府はトレントがいつどこで何をどれだけ買ったか、全て知っている。結構だ――だが、これからする買い物が見えるかな?
「少し寝る。着いたら起こしてくれ」
トレントはほくそ笑み、短くそう告げた。
それからさほど間を置かず、座席の微弱な振動がトレントを微睡みから揺り起こした。疲れていた割に寝付けなかったが、金額の脇に表示された走行距離計は、そもそも眠るには短すぎる数字を示していた。
〈到着しました。ご利用ありがとうございます〉
スライドドアが音もなく開き、情報の奔流がトレントを襲った。人々の喧騒、ごちゃ混ぜになった食べ物の臭い、眩いネオンサイン。欲望渦巻くアウターシティの夜。
静かな車内からの急激な変化に禁断症状がぶり返し、思わずトレントは眉間を抑え呻く。
〈救急車を呼びましょうか?〉
「いい、大丈夫だ。放っといてくれ」
実際大丈夫では無かったが、血中を流れる薬物を知られるともっと不味いことになる。トレントはおぼつかない足取りで外へ出た。幸いにも、ここでは彼のような人間は珍しくない。
両手をポケットに突っこんだまま目的地へ歩く。焼き鳥屋台が吐き出すもうもうとした煙とタレの焦げる香りに何度も嘔吐き、履き潰したスニーカーに包まれた足を懸命に動かした。
血中に僅かに残存する薬物と待ち受けるお楽しみへの高揚だけがトレントへ気力を与えていた。
前へ、前へ。ただひたすらにそう考えて数分、ようやく辿り着いたのは街角にひっそりと佇む骨董品店だった。正面の大きな一枚ガラスにはフィルムが貼られて中の様子は窺えず、ただオレンジ色の照明が点いているらしい以外のことは分からない。重厚な木製ドアには、『胎児の微睡み』と白いフォントで記されていた。
“ノック”という単語は既に頭から消え失せていた。トレントはドアに体当たりするようにして店内へ雪崩れ込んだ。しかしそんな不作法極まる振る舞いにも、店主の男は変わらぬ微笑を浮かべたまま、
「ヨレてるな、トレント」
酒焼けした、特徴的なしゃがれ声で応じた。
「ドレスコード知らんのか……ディナーには相応しくない服装だ」
「うるせぇクソ……クソッ!」
「落ち着け、我が友よ」
あっちは売り手で、こっちは買い手。有利なのはあっちで、不利なのはこっち。そう分かっていたが、トレントは怒りを抑えられなかった。湿ったジーンズの張り付く感触と氷のように冷えたつま先の不快感が、怒りに更なる薪を投げ込んでゆく。
「いいから早く、早くくれ」
「断薬はどうしたね?」
「頼むぜ……説教師さんよ!」
説教師。スリーピーススーツに身を包み、何処からか仕入れてきた違法薬物を捌く悪魔の化身。かつて戒律に身を捧げたと嘯く骨董品店の主は、いつからかそう呼ばれていた。
「そう焦りなさんな。いきなり摂ると身体に悪い」
そう言って説教師は背後の棚から一本の瓶とカクテルグラスを取り出し、カウンターに並べた。目の覚めるような鮮やかな青い液体が、透明なガラス瓶の中でしゅわしゅわと泡立っている。
「まずは食前酒でもどうかね。睡眠薬とシャンパンのカクテル」
「冗談じゃねえ、欲しいのはパッチだ」
「やれやれ」
取り出した瓶はそのままに、説教師はスーツの内ポケットから煙草を取り出し、マッチを擦りあげて火を付けた。白い紙巻はパチパチと音を立てて穏やかに輝き、静謐な店内にクレテックの芳香を漂わせる。旧世界の高級嗜好品。今やあらゆるメディアでその存在を禁じられたマヤ文明の遺産が、説教師の指先で優雅に燃えていた。
「近頃の薬物中毒者はせっかちで敵わんよ。行きつく先は皆同じ、彼岸へは急かず渡ればよかろうに」
「これは俺の人生、俺の身体だ」
「ごもっとも……トレント、先に胎内巡りへ」
「アンタも早いとこ来てくれよ……説教師さん」
輪ゴムで丸く束ねたクレジットの束をカウンターに置くと、説教師が古めかしい品々が並ぶ陳列棚をずらし、隠し通路の入り口を開いた。マントラが描かれた暖簾の先は急な下り階段で、ランタンの薄明かりに照らされている。
逸る気持ちを押さえつけ、手摺を掴んで慎重に下へ。現れたドアを潜り、トレントの旅はようやく終わった。
香が焚かれ、五人の人間が床に横たわっていた。そこには恍惚だけがあり、他には何も存在せず、したとしても意味がない。人種、性別、年齢、等しく無価値だった。
誰もが身を丸め、安らかに微睡んでいた――赤子のように。
「さあトレント、君も」
いつの間にか説教師は隣に立ち、手に乗せた一枚のシールを差し出していた。四枚一組、正方形のシール。記された幾何学模様は、通路を隠していたマントラのサンクスリット語によく似ていた。
トレントはそれを奪うようにして受け取り、四角いシールを台紙から剥がして首の後ろ、頸椎の辺りに迷わず貼り付けた。
作用は急激かつ、確実だった。
圧倒的な多幸感の前に、四肢を投げ出して地に伏すしかなかった。薬効成分が皮膚を浸透して血液に乗り、脳血液関門を咎められること無く通過。脳を速やかに変質させる。
世界とはこんなにも美しいものだったろうか。形容しがたい幸福を背景に、制御を失った思考が渦を巻く。生命はどこから来てどこへ行くのか、普遍的な真実は存在するのか、人体の宇宙を飛ぶピンクのユニコーン……
そうしてトレントは幸福な安らぎの波に揉まれ、我が身をかき抱いて丸くなった。
彼は今日も、少しずつ死んでゆく。