『ドライバー』
人気のない街角の小さな宝石店の前に、黒塗りのセダンが一台、緩やかに停車した。ルカはハンドルから手を離し、シフトレバーをPレンジに入れ、ヘッドライトを消す。
ルカはルームミラー越しに後部座席の二人の男を見やり、言った。
「五分間、何があろうとここで待つ。それ以上は一秒も待たねぇ」
「分かってるさ、お嬢さん」男の一人が切り詰めたショットガンを手に取る。「始めよう」
後部座席のドアが勢いよく開け放たれ、二人の男が飛び出した。ルカは義眼のHUDを起動、五分に設定したタイマーを網膜にホップアップ。
宝石店の正面は鉄格子のシャッターで守られている。男達はそれを破る道具を持っていないので、店の裏手に回って従業員用のドアから侵入する算段だった。
男達の姿が見えなくなってしばらく、深夜の街にショットガンの銃声が二発響く。それに続き、けたたましい警報の音。
十中八九、ブリーチング弾で蝶番を撃ち抜いたのだろう。強固に閉ざされたドアを破るには最も容易な方法だが、窃盗には向かない安易な手段だ。大抵の警報装置は通報機能を備えている。警察のコマンドセンターが処理する膨大な量の通報に、素人の宝石店襲撃が加わったことは間違いない。
呆れの混じった嘆息を一つ、ルカは内耳インプラントを起動して無線周波数を探る。
〈ブルー・バット対ズヴェズダの試合結果ですが――〉
〈先日逮捕されたシンジゲートの――〉
〈念のため、折り畳み傘を持っておいた方が良いでしょう――〉
試合結果、ニュース、天気予報。どれも違う。見えざるデジタル変調を探し、電波飛び交うテラヘルツ森林を駆け巡る。
〈――コマンド……通報が……〉
これだ。ルカは小さく笑みを浮かべる。
すかさず氷砕船が活動を始め、高度に暗号化された警察無線の厚い氷を削り出す。迷路のようなスクランブルを解き、復号アルゴリズムに再構成。耳障りなノイズが消え、コマンドセンターの発する明瞭な指令が脳に直接響く。
〈十二番セクターの宝石店で警報が作動。付近のユニット、応答を〉
〈ユニット056、対応可能。詳細な位置を求めます〉
〈位置情報を送信〉
警察が動き始めた。騒がしくなるのも時間の問題だろう。
現在時刻、午前二時五十三分。アウターシティの郊外として元々人通りの少ない地域だが、深夜ともなれば尚更だ。犯罪には好都合ではあるが、逆に目立ちすぎる側面もある。
警察無線に注意を払いつつ、ルカは横目で宝石店を見やった。ショットガンの男がはち切れんばかりのボストンバッグを抱え、運動不足の肥満体を揺らし必死の形相で戻ってくる。ルカが身体を反らして後部ドアを開くと、男は勢いよく後部に滑り込んだ。衝撃で車体が揺らぐ。
「クソ、あいつ何やってんだ……」
もう一人の姿は未だ見えない。遠くから、間延びしたパトカーのサイレンが聞こえ始めた。
〈コマンドからユニット056、当該地域で銃声の通報が複数寄せられた。重大犯罪の可能性が高い、警戒せよ〉
〈ユニット056、了解〉
混沌の兆しが見え始めた。実に素人犯罪らしい展開に、ルカは歪んだ苦笑を隠せない。
「もういい、出してくれ」
「一分残ってる」
後部ドアは開け放たれたままだ。
ルカの網膜に表示されたタイマーが三十秒を切った頃、ようやくもう一人の男が姿を見せた。戦利品でいっぱいのバッグを持ってよたよたと走り――通りの真ん中に差し掛かった頃、猛スピードで通過した車に跳ね飛ばされた。男を轢いた車は止まる素振りも見せず、そのまま走り去ってしまう。
轢き逃げ。アウターシティでは特段珍しくもない。だが、今回ばかりは運とタイミングが悪すぎた。再び男が後部座席から飛び出して、轢かれた男からバッグをひったくって車へ戻る。
「まだ生きてんじゃねぇのか」
「どうせ助からない。早く出してくれ!」
五分経過、タイマーが点滅する。
シフトレバーをDレンジに叩き込み、アクセルを踏む。電気自動車に特有の滑らかかつ急激な加速感。
遥か後方の曲がり角からパトカーが顔を覗かせた。しかし、ルカの操る車は既に走り出している。
法定速度ジャストで走り、街の中心の大通りへ繋がる道で信号待ちの行列に並ぶ。
〈ユニット056、現場に到着。何物かが押し入った形跡と男の死体を確認〉
〈こちらコマンド、増援を派遣する〉
あの不運な男、ルカが見た時はまだ息をしていたはずだが、死んでしまったらしい。
「死んじまったってよ、あの男」
「どうでもいい。それより、追われてないのか?」
「今んところはな」
そっけなくルカは返した。
信号が青に変わり、車列が動き出す。目指すは街の中心部を抜けて外れにある埠頭。一般市民を盾に追跡を諦めさせる計画だ。今のところ、乗客が一人減っただけで他は上手く運んでいる。
車間距離をきっかり七十メートル、法定速度五十キロで走行する。非の打ち所がない完璧な運転だ。通りすがった警察が拍手しても可笑しくはない。
〈コマンドから十二番セクターに展開中の全ユニットへ。監視カメラから疑わしき車両を割り出した。黒のセダン、ナンバーは――〉
しかし、計画はいつだって想定通りには進まないものだ。コマンドセンターが告げた車種とナンバーは、まさにルカが運転する車のものだった。思いの外、警察の動きが速い。今日がたまたま犯罪の少ない日だったのか、世間から無能と詰られる警察が本腰を上げたのか定かではないが、よろしくない状況になった。
何も知らない男は呑気に鼻歌を歌い、すっかり祝賀ムードだ。舌打ちをして、ルカは運転席側の窓を開けた。内耳インプラントの聴音機能を増幅し、アクティブノイズキャンセルを起動、逆位相の範囲から特定の音だけを除外し、空間を探る。
注意して聞く必要があるのは――不本意だが――男の声と、後は厄介な四枚羽の音だ。
犯罪者には、聞きたくない音が幾つかある。例えば、パトカーのサイレン。または、不快にハウリングする虫の羽音のような――
〈コマンドから十二番セクターに展開中の全ユニットへ。疑わしき車両を捕捉、至急急行されたし。マーカーを送信〉
今聞こえているようなドローンのローター音などは、その最たるものだ。
通称、四枚羽と呼ばれる警察のドローンがルカを追跡していた。高度二千メートル上空、四つの回転翼で完璧な姿勢制御を行い、無感情なサーマルカメラでルカが操る車を見つめている。
コマンドセンターは管轄内の警察ユニットを指揮し、同時に三十機のドローンを管理する能力を有している。捕捉した目標をマーカーでロックして、付近のユニットに追跡経路と距離を送信するのだ。ルカには警察の動きが限定的にしか見えていないが、向こうは千里眼である。
「シートベルト」
「え?」
「シートベルト、しといた方がいいぜ」
反対車線から青いパトランプを光らせる二台のパトカーが現れる。男は慌ててシートベルトに手を掛けるが、時すでに遅し。ルカが勢いよくアクセルを踏み込み急加速したので、男の背がシートに押し付けられた。
瞬く間に時速百五十キロを超し、前方を走る車の間を縫うように走り抜ける。右、左、右とGが掛かり男の体を弄ぶ。あちこち頭をぶつける鈍い音と情けない悲鳴が車内に響き、ルカはノイズキャンセルの範囲に男の悲鳴を含めた。
いきなりルカがサイドブレーキを引いたので、男は慣性に揺られ後部座席と前席の隙間に落ち込んでしまった。中央分離帯の切れ目をドリフトで通過して反対車線に突入する為の挙動だったのだが、それは期せずしてルカにとって有利に働いた。リアで好き勝手暴れるウェイトが消え、不安定気味だった車体が安定するからだ。
突然の逆走という暴挙に、パトカーが減速して追跡が鈍る。その隙を突き、車は反対車線の脇道へ。
しかしこれは逆走だ。正面から、今まさに合流しようとするトラックが迫る。
ルカは動じなかった。極めて冷静にハンドルを左に切り、荷重が寄った瞬間を見計らって渾身の力で右へ。必然的に、勢いよく車体が右へと傾く。無茶な片輪走行に、サスペンションとダンパーが甲高い不協和音を奏でる。
トラックと道に迫り出した違法建築の僅かな隙間をギリギリで通過、トラックの荷台側面に左車輪の擦過痕を刻む。新たに敷き直されたカーボンナノチューブ神経網とニューロチップによる曲芸だ。
当初の計画からは随分外れてしまったが、ルカの脳には街の全容が叩き込まれている。現在地から目的地まで、逃走経路を再び思い描く。
空からの追跡を受けている以上、やはり物理的に姿を隠すのが最善だろう。トンネルか、少し無理をしてでも入り組んだ路地に車を突っ込むか――悩みどころだ。
ここから先は眠らぬ街、犯罪者どもが跋扈する不夜城。交通量も先程までとは比較にならないほど増加し、警察の追跡は大きな危険を孕む。つい先日も、追跡中のパトカーが無辜の市民を轢き殺したばかりだ。当然、警察はあらゆる方面から非難を浴び、最近は派手なカーチェイスに消極的な姿勢を見せていた。
〈コマンドから緊急、第五セクターで大規模な銃撃戦が発生、死傷者が複数発生した模様。対応可能な部隊は応援に向かわれたし〉
〈ユニット056からコマンド……えー、交通量が多く追跡困難になる見通し。切り上げて第五セクターへ向かうべきか、指示願います〉
〈可能であれば第五セクターへ迎え。今後の指令権を――〉
吉報だ。どこぞのギャングかシンジゲートか知らないが、派手に事を起こしてくれた。膨大な処理能力を誇るコマンドセンターであっても、街で発生する膨大な数の犯罪を全て捌ける訳ではない。能力云々というよりかは、単に物理的リソースの限界だった。
どうやら社会は常に警官より犯罪者の方が多くなるようできているらしい。現代こそ狂乱の犯罪黄金期、何か一つ規制される度に犯罪者はその倍に増えてゆく。
ドローンが離脱し、続いてサイレン音が遠くなる。逃げ切った。
まだ警戒は必要だが、犯罪の優先順位では宝石泥棒より銃撃戦の方が上だ。
街のメインストリートで来訪者を迎えるべく聳える巨大なホログラム明神鳥居に、ルカは短く祈りを捧げた。往々にして、犯罪者は意外と信心深いものなのだ。
人気のない埠頭に辿り着くまでに、大きな問題は発生しなかった。大きなクレーンの陰に車を停め、酷使したモーターを冷ます。夜の海は真っ暗だった。ヘッドライトに照らされた海面で、無数の発泡スチロールの破片が流氷のように漂っている。
雨がぽつぽつと降り始めた。サイドミラーに映る街、極彩色のネオンに彩られた高層ビル群が滲む。
静かな車内で男が安堵のため息をついた。対してルカの様子に変化はない。淡々とシステムを不活性化させ、高空に漂う巨大飛行船が雲のスクリーンに投影する企業ロゴを眺めていた。
無数の歯車が模る心臓は、人体拡張の象徴。肉体深くに埋め込まれた代替部品の製造元だ。
「終わったな」
「……いいや、これから終わる」
ルカはシート越しに突き付けられたショットガンの銃口を感じ取った。装填されているのはブリーチング弾かバックショットか、いずれにせよ十分な殺傷力だ。どうやら口封じのつもりらしい。
男に見えるようゆっくりと両手を上げ、ルカは言う。
「無防備な女の背中にショットガン向けるかよ、えぇ?」
「腑抜けを後ろから撃つのが趣味なんでね」
ルカは外を眺め、細く息を吐き出した。恰幅の良い野良猫が雨に降られながら水溜まりを舐めている。
「……最後に遺言を」
「ああ、聞いてやる」
「違ぇよバカ、こっちが聞いてんだ」
降参を告げていたルカの左手、手の甲に埋められたダートが人工皮膚を切り裂いて飛び出し、男の首筋深くに突き刺さった。増幅回路によって超高圧に強化された生体電流が、男の神経に不可逆的な変性を加える。硬直する筋肉はトリガーを引けず、苦痛に顔を歪める事さえ許さない。
溢れた電気が火花となり、ルカの瞳が熱い金色に染まった。
男と繋がったままのダートをケーブルごと切り離し、焦げた蛋白質の臭いから逃れるようにルカは車を降りた。雨は続いていて、白い合成樹脂ジャケットの滴となる。
死人の出た車には乗らない、これがルカのポリシーだ。大金を費やした車で死線を潜り、報酬を払うはずの依頼人は死に、挙句の果てに車は駄目になった。全く馬鹿げている。最低限、車に掛かった分の金を払って貰わねば割に合わない。
車の処分自体は簡単で、アクセルペダルに何か重量物を乗せて海に向けて走らせればそれで終わる。短期的には男の死体も処理できて一石二鳥。問題は金だ。ルカは男のボストンバッグに目を付けた。
一つは宝石、もう片方は束ねられた紙幣だった。指輪やイヤリング……数えきれないほどに詰まっている。
指輪などは金の部分と宝石に分け、前者は溶かし固めて後者は再カット。紙幣はどうにかして洗浄し、綺麗にしてからでないととても使えない。どちらもルカの手に負えない仕事だ。あらゆる汚れた紙幣の通し番号は警察のデータバンクに蓄えられ、何らかに使われた瞬間探知されてしまうし、ルカは家庭用コンロで金が溶かせると考えるような馬鹿でもない。
少額ならカジノや株取引で事足りるが、多額の資金洗浄はその道のプロを頼るのが一番だ。彼らは他国からまた他国へ、さながら複数のサーバーを経由するサイバー攻撃のような手法で金を洗う。対価として約三割近くを持っていかれるとしても、このままでは海の藻屑、あるいはただの紙切れ同然だ。背に腹は代えられない。
取り敢えず車を処分するべく、ルカは歩きだす。幸いにもここは埠頭。コンクリートブロックやレンガは腐るほどあるだろう。
「……バカがよ」
陰鬱なため息が一つ、夜の闇に溶けていった。