三話【神木家の夕食】
僕らの母親の神木珠恵は、主婦友達と一緒に温泉旅行へ出かけている。
父さんの保険金のおかげで、お金は蓄えがあった。とはいえ、女手一つで小さかった僕と彩音を育てることは、決して楽ではなかったのだろう。その反動と言わんばかりに、僕らが大学と高校に進学して以降、ふらりと羽を伸ばしに行くのだった。僕らは母さんの苦労をよく知っているので、いつも笑顔で送り出している。
そういうわけで、今夜の晩御飯は僕が作った。部活に趣味にと忙しい妹と、サークルもアルバイトもしていない兄とでは、どちらが食事当番をするべきかは言うまでもない。
とはいえ決して料理上手でもないので、できるメニューは限られてくる。ちなみに今日は、チャーハン・中華スープ・サラダという、男の料理中華バージョンという具合だ。料理のレパートリーは少ないが、チャーハンに関しては母さんや妹のより美味いと自負している。
「うん。今日のも美味しいな」
今回のチャーハンは思い切って油の量を多めにしてみた。さっぱりした家庭の味と、少々油っこいお店の味との間を絶妙に突く、会心の出来栄えだった。
だというのに、テーブルの向かいに座る彩音は浮かない表情をずっと見せていた。
「どうした? やっぱりちょっと油多かったかな?」
「いや、もっと気にすることあるでしょ! ほら、アレ!」
ビッとスプーンでテレビを指した。彩音のスプーンに乗っかっていたご飯粒が、ペタリとテレビの画面にくっつく。ちょうどそこには、昼間に地球侵略を宣言した僕らの父親の顔があった。
「びっくりしたんだよ!? クラスの友達が、『なんか変なおじさんのニュースが流れてる!』ってスマホ見せてくれたの」
「お前の高校は携帯電話禁止だったろ?」
要領のいい彩音は、地元では割と有名な進学校に合格した。少々校則が厳しいその学校では、特別な事情がない限りは携帯電話を持参するのは校則違反だったはずだ。
「みんなこっそり持ってきてるに決まってるじゃん。で、そのニュースを見たらびっくり! お父さんじゃない!」
彩音はその時のリアクションを再現するかのように、目を真ん丸に開き、口を縦に大きく開いた。
「ほらほら、食事中に口を大きく開けるんじゃありません」と注意を促す。しかし僕は、心の中で苦笑していた。兄妹そろっておんなじリアクションを取っていたのだから。
「兄ちゃんはどうするの? お父さんのこと」
「どうするって……どうしようもないだろ? 僕はいまだに、あれが本当の父さんかどうか半信半疑なんだ」
「誰かのいたずらだってこと?」
「何のためか分からないけれど、その方がまだ可能性はあるだろ? だって父さんはもう……」
この世にはいないんだから――と言いかけて、やめた。ごまかすようにチャーハンを口の中へかきこんだ。
父さんがこの世を去ったのは僕が九歳のとき。彩音は六歳だったから、父さんとの思い出なんてほとんど記憶にないだろう。「人が死ぬ」という意味もよく分からなかったはずだ。それを理解するうちに、彩音が思い悩んでいたことも知っていた。
とはいえ、僕が彩音と父さんの思い出を満たすことはできない。僕は彩音と積極的に遊びながら、ゆっくりと彩音が心の傷を埋めてくれることを願った。結果的に、彩音は十歳になる頃には父さんの話題を出されても心を乱されることはなくなったようだ。
だというのに、今回の事件だ。どこの誰かは知らないが、こんな手で家族の傷を抉り出そうとする所業は我慢できない。
「ごちそうさま! 今日も美味しかったよー」
「――え? ああ、どういたしまして」
頭の中が悶々と濁りだすうちに、スプーンはすっかり止まっていた。スープの湯気はもう微かにしか立ち上らない。
考えていても仕方ない。とりあえず相手の出方を待ってみよう。
でも、もし本当にあれが父さんだったらどうしよう?
考えれば考えるほど、頭の中には澱が溜まっていくのだった。
朝になった。ベッドの上であれこれ考えているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
布団を被っていなかったこともあり、朝の冷気が僕の体温を奪い取っていた。体が震える。どんよりした頭と体を目覚めさせに浴室に向かった。
シャワーを浴びて出てくると、ちょうど彩音が朝食を作り終えたところだった。フレンチトーストにコーヒー、それとフルーツ。女の子らしく、カフェで食べるようなメニューを出してくれる。男の僕もこの手の朝食は嫌いじゃない。
「あ、兄ちゃん。おはよう!」
いつもより大きな朝のあいさつ。その元気な声が無理して出されたことは、彩音の目の下のクマからも明らかだった。僕と同じく、穏やかには眠れなかったらしい。
「うん、おはよう」
そのことに気がつかないフリをして挨拶を返した。
なんだか気まずかったのでテレビを点けた。ニュース番組には昨日の出来事が流れているかもしれないので、普段はあまり見ないBS放送にチャンネルを変えた。画面にはヨーロッパかどこかの古めかしい街並みが映り、遠く離れた人々の生活の営みがゆったりと流れる。
今日もアキトと構内をぶらぶらしようかな……。一口大に切ったフレンチトーストを口に入れながら、そんなことをぼんやりと考えていた。