【神木かなめ(九歳)】
ぼくのお父さんは、ある日交通事故であっけなくこの世を去ってしまった。
数日後、黒い服を来た人たちや、お坊さんが家に入ってきた。お正月にしか会わない親戚の人たちも、お父さんの仕事仲間のおじさんたちも、みんなみんな、その表情と同じ黒い服を着ていた。
妹の彩音はずっと泣き続けていた。まだ六歳だったけれど、人が死ぬというのがどういうことかすぐに理解していったらしい。泣いて、泣いて、ちょっと泣き止んだらまた泣いて――そんなことの繰り返しだった。
お父さんを棺の中の入れた時、彩音は顔をぐしょぐしょに濡らしながら、お人形や折り紙で作ったお花を詰め込んでいた。
ぼくも目をはらしながら、お気に入りの漫画を棺の中に入れた。お父さんが向こうの世界で退屈しないように。どの漫画も、お父さんが僕の目を盗んで読んでいたことは知っていた。そういう子供っぽいところがあった。
「これからは、ぼくがしっかりしなくちゃ。神木家の男として、彩音のお兄ちゃんとして。ぼくが家族を守るんだ!」
ぼくはそう決心した。勉強も、苦手な運動も。同級生のみんなが子供らしく遊んでいる間も、ぼくは頑張った。
三か月も経った頃には、ぼくは学年で一番の成績を収めるほどになっていた。そんなぼくを、お母さんも彩音も自慢に思ってくれていたと思う。二人の誇らしげな笑顔を見る度、ぼくもぼく自身を誇りに思っていた。
だけどある日の放課後のこと、隣のクラスの権田がぼくのクラスに来た。彼は普段「ゴンタ」と呼ばれる、いわゆるガキ大将だった。彼が連れて歩いているトモダチもゴンタの顔色をうかがっているのが丸わかりだった。
教室の引き戸の前で、ゴンタはぼくに視線を向けた。要注意人物の登場に不快になりながらも、それを表に出さないように努める。
「よう、叶銘。お前すげえじゃねえか。この前のテスト、完全に負けちまったよ」
「……偶然だよ。勉強してたところがたまたまピッタリ当たったんだ」
実際の所、ぼくとゴンタとの学力の差は歴然だった。眼中になかったぼくに負けた腹いせに、嫌味でも言いに来たことも分かっていた。
ただ、ひどくイヤな予感がした。ゴンタの舎弟は爬虫類を思わせる薄ら笑いを浮かべている。
その下品な笑みの正体は、ゴンタの言葉で明らかになった。
「ホント、大したもんだよ。お前、父ちゃんがいなくなっちまったのになァ」
教室がざわめいた。
わざわざ話すほどのことでもなかったので、ぼくはそのことを同級生には秘密にしておいたのだ。だけど運の悪いことに、ゴンタの耳に入っていた。
みんなのひそひそ声が、柔らかな針となってぼくの全身を突き刺す。憐れむような、珍しいものを見るような、遠慮のない視線が心の中までのぞこうとする。
あふれそうになる涙と吐き気をこらえながら、教科書をランドセルにしまった。「我慢するんだ! しっかりするんだ! 泣いたら負けだぞ!」自分を奮い立たせ、教室を出ようとした。
「お前の妹もかわいそうだよなァ」
ゴンタの横を通り過ぎようとしたとき、その一言が聞こえた。踏み出した足がピタリと止まる。
「一年生の授業が終わった時に、声をかけてやったんだよ。おんなじようにさ。そうしたらお前の妹、わんわん泣き出しちゃってさ。教室中大騒ぎ! もう見てられなかったぜ」
ゴンタが「泣き出しちゃってさ」と言ったときには、ぼくの耳には何も聞こえなくなっていた。意識するより先に、ぼくの拳はゴンタの顔面を捉えていた。
「何しやがる!」
ゴンタは立ち上がってつかみかかってきた。
体格で勝るゴンタは簡単にぼくを廊下に押し倒し、がむしゃらに拳を振るった。だけど顔を殴られても、腹を殴られても、何も感じなかった。
優位に立っているはずのゴンタの顔が恐怖に染まっていく。真っ赤な顔から血の気が引いて青くなる。いつの間にか拳も止まっていた。
だからぼくは、固く握りしめた拳を、ぼくの不幸を全て打ち砕く勢いで突き出した。
「ゴンタアァァーーーーッ!」
その拳がゴンタに触れた瞬間、右腕から全身に電流が走った。体中の血液が炭酸に変わった気分で、すぐに意識がなくなった。
真っ暗になる視界の中で、光の筋が走る右腕が妙に眩しかった。
翌日の夕方、ぼくは病院のベッドで目を覚ました。
顔とお腹が痛かった。頬を触ってみると、ガーゼの柔らかい感触と、消毒液のツンとした匂いが漂った。
脚のあたりが重いなと思って視線を向けると、彩音がぼくの脚を枕にして眠っていた。
「叶銘! ああ、よかった……」
すぐ横からお母さんの声が聞こえた。涙をあふれさせながらぼくの手を握る。いつものお母さんの手より冷たくて、少し震えていた。
「お母さん、ぼく……」
「叶銘、ごめんね……ごめんね……無理させちゃって。あなたは悪くないのよ」
何のことか分からなかった。喧嘩をしたのはぼくの意思で、お母さんは何も悪くないのに。
ただ、その謝罪があまりに切実で、ぼくは何も言えなかった。「わからないけど……わかったから! 謝らないでよ、お母さん……!」心の中で何度もそう叫んだ。
喧嘩から三日後。学校に戻ったぼくに居場所はなかった。同級生も、先輩も後輩も、先生も、ぼくを腫物のように扱った。小学生のぼくにとって、学校の人たち全員から拒絶されるというのは、世界に拒絶されるほどの思いだった。
だけど、お父さんの遺骨の前での誓いを心の支えにして、ぼくは耐え続けるしかなかった。