008
レクターが学院を去り、それでも変わらない日々が続いていた。月は新しくなり、陽となる。大体現代日本で八月ぐらいの意味だが、気温は暑くはない。朝と夜は肌寒いままで日中の日差しがほんの少し厳しくなる。盛大な蝉の声は聞こえず、どこか肩すかしをくらったような夏だった、この世界に夏はないけれど。恐ろしく長い、とセフベーネが言った通りに課題の数式は終わりを見せず、寧ろ解くたびに増えて行く羅列は終わりのない迷路だった。わたしは課題を持て余し、セフベーネに手心を求めるが、セフベーネは承知しない。どれだけかかってもいいから、解いて見せろ、というお達しだった。
「――お前もモノ好きだな」
「何が」
「そんな課題、放り出せばいいだろうに」
「それはなんとなく、出来ないし……」
ウェルトはまた背が伸びたように思う。わたしはそれとなく学院の情報通であるルーに尋ねるが、ルーは学院外のことは関知しないと言う。それでも、ツテを頼って、レクターの現状を聞かせてくれた。
「今は準備期間だね、婚礼の儀は斬の月だと決まっているから」
「そうなんだ……」
「デライトが生まれ変わる月だからね、その月に合わせるのがフツーみたい」
ルーはからりと笑った。
「だいじょーぶ、元気だって。」
多分、とルーは付け加えた。変わりがない、という意味だろうと、とわたしは思う。それはそれで淋しげなんだろうなと思うけれど、口には出さない。わたしが課題で悩んでると思ったウェルトが思い出したように言う。
「今度、うちの屋敷でパーティがあってな」
「え、うん」
「丁度学院の記念日だし、お前も来るか」
「え?」
「え?って」
「いや、え?ってなると思うけど……」
「好きだろ、パーティ」
「メロウが?」
「女子供が」
「酒を飲める大人が楽しむものじゃなくて?」
「言えてる」
「ウェルトは飲んでるの?」
「当然な」
「……まあ、そっか」
「で」
「うん?」
「来るだろ?」
「決定事項なの」
「ああ」
「…………じゃあ、行くしかないんですけど」
「だな」
ウェルトは愉快気に笑った。
「貰った服あるだろ」
「どれ?」
「最近の。それで来い。迎えは出すから」
「分かった。貸しだよ」
「存分につけとけ」
「……ルーも行ってもいい?」
ウェルトは頷く。
わたしは少しほっとした。貴族のパーティに一人で行くのはいかにも気後れする、それがウェルトの家であっても、寧ろ、ウェルトの家のパーティだからこそ、躊躇われた。
「……ウェルトのお姉さんはパーティに?」
「当然」
「……だよね」
「苦手だったか?」
「全然」
ウェルトはじっとわたしを見て、何も言わなかった。わたしは課題の本を閉じて、ルーを探しに行くことにする。あの彼女はレクターが去った後、休みがちとなった。寮生だったがそれも自宅通学に切り替えて、一部ではレクターの本命はあの彼女であり、あの彼女もまたレクターを好きだったのだと噂となった。というか、なったままだ。ウェルトはいつも通り過ぎて、逆に心配になるがしかしウェルトがわたしに弱音を吐くとは思えない。そういう間柄ではなかった。メロウとは一体どうだったのだろう、二人の関係は未知数だ。わたしのプレイ記録に依るのならば、友人同士であったのは間違いなかった。ウェルトは友情の数値が上がりやすく、恋愛の数値が上がりにくかった。鈍感と言われるだけはある。今の道筋の果てがわたしには読めないままだ。勝手に好きな教室を新聞部部室にしたルーは、時に向けられる嫌がらせのため、転々と教室を変えている。明日の朝食のほうが誘いやすいのかもしれない。
わたしは薄暗い廊下ではあ、と溜息を吐く。素の人が、ふと窓を磨く手を止めてわたしを見た。空洞のような眼差し。人ではない、ざらついた獣のような名残を残した、人らしきものだ。
「……ルーを、」
素の人は、びくりとなった。
「見かけませんでしたか」
ぼわと全身を毛羽立てて、素の人は硬直する。
わたしは暫く待った。
「……すみません、何でも」
「――彼女なら」
素の人ではない。
「西の、時計裏側にある屋根裏だよ」
ロベルト・バトラーだった。
――何故ここに?
わたしの疑問は顔に出ていた。
「君、彼らに話しかけるものではないよ」
素の人は気付けば姿を消している。わたしは仕事の邪魔をしてしまったかと申し訳なさを覚える。バトラーは微笑む。
「それも君の役目かな」
「…………何のお話でしょう」
「何の話だろうね」
バトラーは一冊の本を持っていた。
「これを、静かに読める場所を探していたんだ」
「――何の本ですか」
「伝記さ、この国にまつわる、まつろわぬものの話だよ。――読むかい」
「読んだ方がいいですか」
「どうして」
「そういう口ぶりだったので」
「僕はそんなに思わせぶりかい」
「…………そこそこは」
「間がいいだけだよ、いや、悪いのかな。どう思う」
「――さあ。行きます、教えてくださって有難うございました」
「どういたしまして。出会えるといいね」
「――どうして」
「僕は思わせぶりだからだな」
それは冗句に聞こえた。
「読書、楽しんで」
「有難う」
わたしはバトラーの隣を通りすぎた。静謐な彫刻のような眼差しが、先程の素の人の空洞さと反して、やけに力強かった。美しいものには力がある。振り払うように、わたしは小走りとなってル―を目指した。けれど彼の言葉はまるで予言のように、ル―とその日会えることはなかった。翌日の朝、いつものように部屋に迎えに来たル―に一連を話して、改めてパーティに誘った。ルーは二つ返事で喜んだ。これで色んな話が聞けるかも、という彼女の瞳は爛々と好奇心に輝いており、わたしは笑った。
そして、すぐにパーティの日は訪れる。
あの彼女に対する期待と恐れが入り混じり、わたしは一睡も出来なかった。