006
わたしは――金城頼子は生きてきた世界がある。
平成が終わる年、わたしも終わった。不慮の事故だった。信号無視の車に跳ねられ、そのまま亡くなった。父と母と姉がいて、わたしはバイトをしながら暮らしを繋いでいた。安月給で一人暮らしは出来なかったが、実家で暮らし、趣味を楽しむには十分だった。わたしは何処かで一人で生きていかなければ、と思いながら、一人で生きて行くことは出来なかった。惜しんだのはそのことだったように思う。いつか、は、永遠に来なくなる。やがては唐突に終わる。死は絶対だ。メロウにとって、わたしは、死なのか。死よりも、現実ではないフィクションの中に「目覚め」を持つことは、地獄よりも酷いのだろうか。これが生きているということさえ、わたしには分からないのだ。
――目覚めて、ルーがいた。驚いたが昨晩は一緒に寝たのだと思い出した。彼女がまだ寝入っていたのは当然だ、夜明け前で暗かった。わたしはそっと部屋を抜け出た。彼女が心配するといけないから、散歩に行きます、と書きおきを残した。朝の寮はひどく静かだった。鳥のさえずりすらまだまばらで、虫の音が残っている。朝もやが漂い、少し肌寒かった。この世界に夏はなく、冬はない。春と秋を繰り返すような気候だ。それはずっと同じだと言ってもいいし、そうではない気もする。この世界のことを、わたしは詳しく知らない。ゲームの中でも語られることのない箱、朝が来るとも夜が来るとも思わなかった。わたしはその場で足踏みをする。土の感触。寮と学院は同じ敷地内にある。無論、広く大きい土地だ。小さい森と湖さえあり、そして背後から侵略できないように崖になっている。崖の近くには高い塔があり、そこでは学院の歴史を紡いでいるとされる。あまたの権力者の歴史。この学院の始まりは、メロウの祖父だが、しかしそれよりも前に別の名の学院は存在していた。古来の歴史物のように、潰れ、消えゆく場所を、祖父が改革したのだ。
――ここは歴史の肥沃があり、国を背負って立つのにこれより相応しい場は他にはない、と。そこから光ある道が始まった。しかし、裏の力は強すぎた。祖父は言ってしまえば――利用されたのだ。この場所を使うにあたり、もっとも適切に消費された。メロウには――力があった。セフベーネが言うように。
彼女には声が聞けた。
声なきものの声だ。
「――何してる」
「………ウェルトこそ」
出会うのがまるで運命みたいだ。汗だくで前方から走り込んできたウェルトがわたしに気付いて、止まった。汗くさいのが嫌で引いたら、ウェルトは気付いて顔を顰めた。わざとにじり寄ってくるで尚、避ける。
「逃げるなよ」
「逃げるでしょ」
「薄情な奴だ」
「どちらが」
「どうした、こんな朝早く」
「天気がいいから」
「曇天だ」
「曇天は悪いの?」
「――悪くはないな」
「うん」
「お前も走るか?」
「走らないよ」
「動かないから止まるんだ」
「どういうこと?」
「最近、太ったんじゃないか?」
「え」
ウェルトは浅く笑った。
「レクターが」
「うん?」
「詫びてた、お前に会ったら謝れと」
「どうして?」
「あれはそういう性分だ」
「そうなの」
「そうだ」
何された、と言う。
何も、とわたしは応える。
「女の子と遊ぶにはいい人過ぎるね」
「俺もそう思う、向いてない」
「ウェルトの方が向いてると思う」
「俺が?」
「そう」
「興味ない」
「そう」
「――お前もないだろう、俺に」
「興味?」
「ああ」
「分からない」
「だろうな」
「――メロウはどうだった」
「変わらん」
ウェルトは今度は愉快気に笑う。
「飽きてた」
「何に」
「女子に」
「……女の子?」
「自分が女子だったのが、嫌だったんだ、あいつは」
「――どういうこと?」
ウェルトはわたしを見据えた。
「知らん」
「…………」
「そろそろ戻れ。煩いぞ」
「そうかも」
「――今度走ってみろ」
「……そうする」
ウェルトは頷く。不思議な人だ。
「ウェルトは、だから、走ってるの」
「それは、俺じゃない」
「どういうこと」
「俺のやり方は別、ということだ」
「なるほど?」
早く行けと、ウェルトが追い払う。
わたしは肩を竦めた。
「頑張って」
「ああ」
ウェルトは再び走っていく。あっという間に見えなくなった。
わたしは寮の自室に戻る。ルーは待っていてくれた。おはよう、と言い合い、自室に戻ろうとするルーに尋ねる。
「ウェルト・シーザーってどんな人?」
ルーは瞬いて、笑った。
「裏表はないけど、」
「ないけど?」
「裏表でもある、ってかんじ。コインそのもの」
「………そっか」
「彼の噂はそんなにないよ、めーちゃん以外ではね。かっこいいとかそういうの。軍人になると決めてるし、決まっている。行動にブレはないし、自主訓練に熱心なこと以外は、ごく普通だしさー。ちょっとつまんないかな」
「つまんない?」
「親友のレクターの方が掘れば掘るだけ女性関係でてくるし、いろんな噂があるよ。それに、彼は花婿だから、余計にね」
――花婿。
わたしは聞きおぼえがあったが、何故か問い返せなかった。
「ルーはどこから情報を集めてるの」
「あたしのこと嫌いでも、あしたのこと、気になるって人は多いから。っていうか」
「うん」
「あたし、お金貸してるから」
さらっと言われて、私は目が点になった。
「お金」
「そう、お金だけはあるから、あたしん家」
だから余計に、とルーは舌を出しておどけた後、憂鬱そうに笑う。
「ルー」
「あ、そろそろ本当に支度しなきゃ間に合わないや。またね、めーちゃん!すぐ迎えに来るよ!」
一緒にご飯食べようね、と彼女は急いで出て行った。
わたしはなんとなく息を吐いた。
食べ散らかした部屋を少し片付けて、わたしはゆっくりと目を瞑る。眠気が今頃やってきたが、一日は始まってしまっている。セフベーネの課題もいい加減仕上げなければいけない。やることを考えて、それでも眠ってしまったわたしをルーが叩き起こした。遅刻ぎりぎりに飛び込んだ食堂で、いつも陰口をたたかれながら、わたし達はこの瞬間が幸福のように笑い合った。