005
「めーちゃん!」
「どうしたの?」
「キンヘル様が尋ねて来たよ」
「キンヘル――様」
わたしはルーを見詰める。ルーは急いだ顔をしていたがきょとんと首を傾げた。
「めーちゃん?」
「ああ、うん、キンヘル様ね。有難う」
「もうすぐ学院の人が呼びに来ると思う!準備しなきゃ!」
キンヘル様――というのは、プロローグ冒頭でヒロインの後継人になった侯爵様だ。キンヘル・ヴェルケ・ブラウンフェルズ。ルーが着替えを手伝うというのでわたしはなすがままに正装に着替える、正装――といってもキンヘルが買い与えたドレスだ。地味な色の素っ気ないドレスかと思いきや、よく見れば金色の刺繍が手入れで丹念に入っており、自分の背筋が思わず伸びてしまうような隙のない裁縫をしている。冒頭、一枚のスチルで物語は始まるが、その時に着ていた服をわたしが着るというのも奇妙な気分だ。キンヘルの顔はどんなのだったか、よく覚えていない。準備を終えた辺りで学院の人が呼びに来て、わたしの格好を見て、頷いた、良いということらしい。そのまま応接間に通される。
「メロウ、元気だったかい」
キンヘルは穏やかな顔立ちをして口髭が立派な年かさの人物だった。よく笑う人らしく、彼が笑うと笑い皺が深くなり、とても良い印象を受ける。
「ご無沙汰していますわ、キンヘル様こそお元気でしたか」
「言ってるだろう、おじさん、で構わないよ」
「そうはいきませんよ、何から何までお世話になっていて……」
この辺りの口調は主人公補正を受けるらしく、わたしはややオート化される。一連のお辞儀に至るまで、キンヘルの意に沿うようだ、あるいはメロウの望んだ態度かもしれない。
「何か欲しいものはないかい、足りないものは」
「いいえ、十分ですわ。この生活で満足しています」
「そんなこと……私は屋敷から通って欲しかったのだがね。あの人がどうしても、と言うものだから」
メロウの寮生活は祖父の――前理事長の希望だ。
キンヘルは深くため息を吐く。そして注意深く周囲に視線を巡らせた。
ソファに座った彼は手招きし、わたしを呼びよせる。わたしは従い、彼の隣に腰掛ける。
「いいかい、決して無茶はしてはいけないよ」
「分かっておりますわ」
「例の件なら私の方でも動いているんだから。全く、何の訓練も受けていない君をこんなところに」
「大丈夫ですわ、キンヘル様。私はただ、楽しく学園生活を送っているだけ」
「そう、それでいいのだよ、メロウ。このことは私に任せ、君はただ三年間を無事平穏に過ごすといい。君の結婚候補も今、探しているところだ。何もかも私に任せ、安心していればいいんだよ」
「――有難うございます」
キンヘルは身分が高い人間にも関わらずどこか懐っこく笑う。
それがまた曲者だ――とわたしは分かっている。祖父の要望もこの後継人の望みもまた、メロウにとっては悩みの種で、この学院を救え――という曖昧な祖父も結婚して良い妻、良い母となるようにと段取りをする後継人も悪人ではないかもしれない、でも少し困った存在だ。
わたしは一頻りキンヘルと歓談し、彼が大量に持参したお菓子や帽子や服などの贈り物を受け取り(彼の使用人が部屋まで直接運んでくれた)、最後に挨拶をして別れた。
わたしは気晴らしくをしたくなって、敷地内の噴水の近くで佇んでいた。流れる水の音が、幾ばくか、癒してくれる。そんな折だ。
「――おや、どこぞの麗しい御令嬢かと思ったらメロウちゃんじゃないか」
「………レクター、さん」
「レクターでいいよ、ウェルトが呼ぶみたいに、ね」
レクターはウィンクを向ける。それが様になっているのが見事だ。
「君のそのドレスを見るのは、入学式前に見かけて以来だねえ」
「入学式前……?」
「君が入寮した時さ、僕はなんと愛らしい天使がやってきたものかと、薄い胸を弾ませたもんさ」
「薄い胸……」
「筋肉バカのウェルトと違って、僕は華奢だからね。それがいいという人もいるよ」
レクターは軽やかに笑った。彼が傍まで来ると、ふわりと花のような匂いがする。わたしが嗅ぐと、彼は気付いた。
「いい香りだろう、最近レディの方に流行りの香水さ」
「それをレクター…が?」
「野暮なことを言う子猫ちゃんだ」
わたしは笑った。
「良いんですか、どなたかと楽しい時を過ごされたのでは」
「お菓子をいくら食べても腹いっぱいにはならないのさ」
「甘いだけならね」
「甘いのがいいんだ、お菓子を実際食べれば虫歯だらけになるが、君たちはそうならない。身体に良いんだ、ご婦人というのは」
やや馬鹿にされている気がする。
レクターは噴水を一度眺めた。
「―――気分を損ねたかい?」
「………さて」
わたしが微笑むと、レクターは目を細めた。
彼はわたしの髪を指先で掬う。
丁寧に触れて、撫でた。愛玩動物にするような仕草だ。
「着替えないのなら、車を呼んで食事はどうだい」
「いいえ、着替えます。汚したらいけませんから」
「そうしたら、新しいドレスを贈るよ。君の瞳に映える聡明なドレスだ」
「聡明なドレス………」
「侯爵は趣味が良い。けれど少し時代遅れだね、例えばここなんかは――もっと」
彼はわたしの腰に手をやる。
わたしは非難を籠めて、レクターを見詰めた。
レクターは一瞬押し黙って、軽やかに笑う。
「すまない、君の目の前で君のものに触れたね、いけないことだ。でもいいと思わないかい?」
「――何を?」
「いけないことというのは」
罪の誘いのようだ。愛らしい、という外見はこういうことを呼びよせるのかもしれない。わたしは、メロウはヒロインである、ということを思い出す。もしくはレクターにとってはすべてのご婦人はヒロインなのかもしれない。
「ご遠慮いたしますわ」
わたしはきっぱり断って、彼から離れた。
彼は引きとめず、わたしは部屋に戻る。ルーはじっと帰りを待っていてくれたようだ。大量のお土産に埋め尽くされた部屋は窮屈で、わたしはルーとお菓子を食べながら、贈られた帽子を被ったり、服を着あったりした。ルーも父親から定期的に贈り物があるらしく、それをルーは成金趣味だと笑う。わたしの贈り物の繊細さをひどく羨ましがり、わたしは父親への疎ましさを羨んだ。
「いいね、父親って」
メロウは大事な母を亡くし、父が誰かも分からず。
わたしはもう、両親には会えない。
――死んでしまったからだ。
ルーはわたしの頭を撫でてくれた。
その夜、夕食も一緒に食べ、わたしのベッドで二人一緒に寝た。ベッドに持ち込んだ砂糖菓子の匂いと、ルーの匂いが混じり合い、わたしは寝ながら泣いてしまったようだ。優しく撫でる指先を覚えている。ルーの体温だった。