015
わたしは中庭のベンチでキンヘルから貰ったお菓子をついばみながら、セフベーネに貰ったお茶を飲んでいた。集中力を高めると言うこのお茶は喉奥に抜けて行く爽快感があり、妙に癖になる。相変わらず提出すると追加される課題を解きながら、わたしはなんとなく予感していた。
「――美味いな」
「でしょう」
「ああ」
「久しぶり」
「そうだな」
「落ち着いた?」
「少しだけな」
――あれから四カ月が経っていた。
ウェルトはまた背が伸びて大きくなっており、いよいよ熊感を増しており、顔がよくなければかなり年嵩に見えたかもしれない。
「…………連絡はあった?」
ウェルトは頷く。
「元気にしていると」
燃え尽きた三角は再び建設されもう元の状態に戻っている。彼はこの間に正式にシーザー家の名を継いだ。もう学院に戻ることはないとされていた。そんな風に卒業するまで居ない者も少なくない。結婚した、あるいは家業を継いだ、役目を全うすることがよしとされる中、祖父は勉学の尊さを説いた。大きく受け入れられたが学院の名が高まるほどに結局ここは政治的な社交場となった、特権階級を示す飾りとなった。それは――そういうものかもしれないとも思う。セフベーネ以外の教師はやる気に欠けており、ウェルトはわたしの課題の本を見て、呆れたように眉を上げたが、冬眠から目覚めた空腹の熊のように一頻りにわたしのお菓子を平らげる。
「――メロウのこと、教えてくれる?」
ウェルトはごろりとベンチに横になった。
「………あれは絶望していた」
「何に?」
「終わらないこと。何度も繰り返される時間。何もかも忘れる人々。――それは自分から起因されると、メロウは悟った」
ウェルトは目を瞑る。
「自分がいなければこの世界は進む――と言った、俺は最初意味が分からなかったがメロウが何度目に――あいつは数えてた――言った時に、俺も自覚できるようになった。メロウは何とかしてみると言い、お前になった。詳しくは分からん、メロウには力があったし、根性もあったし、何度か失敗したと言っていたから、お前が成功作なのかも失敗作なのかも俺にはよく分からん。けど、あいつが居なくなったところを見るにそういうことなんだろう、世界は動き、姉上と幼馴染は旅立ち、神は構築しなおしている。だから、うまくいったってことだろう。俺は晴れて、当主になったしな」
「……それは良かったことなの」
「俺に訊くな」
「――――ウェルトは」
わたしは言い淀んだ。
ウェルトは薄く目を開けて、再び閉じた。
長い長い沈黙の果てに、ウェルトは言う。
「好きだったさそりゃあ」
好きだった、とウェルトは繰り返す。
「世界が繰り返そうが進もうが止まろうがどうでも良かった、好きな女と過ごせるなら他に何が必要なんだよ。………だが、あいつが苦しんでいるのは耐えられなかった。――だからこれで良いんだ」
言い聞かせているように聞こえる。
実際、言い聞かせているのだろう。ウェルトは今までもこれからもこの先も。
「――あのさ、ロルフに話した?」
「ああ。お前たちが何かやらかすと」
「どうして」
「俺が期待していたからな」
「期待?」
「レクターの解放。俺の好きな女ならそうさせる」
「――言わなければ、燃えなかったかもしれないよ」
「崩壊はした。変わらん。どういう経緯か、それは知らない。――結果、改めて、この国に対するシーザー家の重要度が増した」
半ば自虐的にウェルトは言葉を紡ぐ。
「でも……」
「これ以上、あいつの声で余計なことは言うな」
「…………」
「あいつの顔で、あいつの身体で――お前はもう何もするな」
「――実は」
わたしはめげなかった。
「教師になろうと思って」
ウェルトは目を開ける。
わたしをまじまじと見詰めた。
「この学院を学びの場にする」
「何故」
「そうしたいから。もっと、必要なんだと思う。知識やそれを使うことが――力も必要だと思うけど、まだ出来ることはたくさんあると思う」
「………お前の世界はどうだった」
「………良いとは言えない、悪いとも言えない。どうともならない。比べても意味はないと思うし。……あのさ、本当はわたし、死んでたの」
ウェルトはわたしを見詰める。
無遠慮に、不作法に。それが、ウェルトだと思えた。
「わたしはメロウにはなれないけど、頑張るよ」
ウェルトはじっと押し黙った。
無骨な掌がわたしの頬をなぞり、鼻筋に触れて、睫毛を撫でて、唇に触れた。彼はわたしではなく、メロウに触れていた。彼の渇望が胸にせりあがってくる。それでも、彼女が良かったのだろう。わたしの頑張りや存在意義や、夢など関係なく、彼はただメロウを欲した。これからも彼は生きて行く。彼女が進めた時計の針を心臓に埋め込んで、彼はもう止まることなく行くだろう。それは生き急ぐかのように見えるのかもしれない、追い立てられるように、彼は功績をこの世界に刻んで行く。可笑しくも悲しくもわたしにはそれが見えた、メロウが最後に遺したものだった。わたしが見たものを、ウェルトも見たらしかった。やがて消えて行くメロウの名残を彼は瞬きすることなく、喰い入るように縋るように眺めて、そっとわたしから視線を外した。
「――頑張れよ」
「有難う」
ウェルトは片手だけを上げて、応じると歩き去って行った。
わたしは息を吐き出し、冷めたお茶を飲みほした。爽やかに抜けて行くこの味が、実はミントだと知っている。わたしの魂はここで果てることが出来るのだろうか。死は再び訪れてくれるのだろうか。わたしは夢を描く。一人の少女が描いた、見たかった、歩みたかった未来という夢を。あるいは、生きたかった明日を、この世界が許さなかったことを、わたしは許さないだろう。こんな目に合わせたことを許さないだろう。神とは――誰のことだったろう。わたしは、少しだけ笑った。それももう、意味のないことだ。
もうすぐまた夜が来る。
そして朝が来ることを、恐れたりはしないのだ。
この物語はここで終わります。
最後までお読み下さり、有難うございました。