001
見切り発車ですが宜しくお願いします。
――痛みが走った。
頬をぶたれたのだ。
私は目を見開く。
一見冷たそうな切れ長のコバルトの瞳、長い睫毛、整った顔立ちは美しいとしかいいようがなく。緩くウェーブががった甘くふんわりとした金色の髪からは良い匂いがした。怒気がひしひしと伝わる。圧倒的な怒り。私は。いや、わたしは、私は、わたしは。
「何とか言いなさいよッ、黙っていれば私の気が済むとでも?!」
ノイズ。乱れる。私は――わたしは理解する。
この人に出会うために生まれたのだ。
*
「どうかしたのか、ぼーっとして……やっぱり、何かあったんじゃないか」
気づかわしげにわたしの顔を覗き込む彼にわたしは浅く微笑む。大丈夫、と示したつもりだ。この世界では珍しい黒髪はこざっぱりと短く少しウェーブががっている。少し垂れた眼差しはコバルト色で、そう、あの人と同じ色だ。それもそのはずで、今隣にいるのは先程わたしをぶった彼女と異母姉弟なのだ。名前はウェルト・シーザー。そしてあの彼女はリュアナ・シーザー。
手早く説明してしまおう。時は金なり。ここはある乙女ゲ―ムと呼ばれる作品のうちの一つの世界で、わたしは、私は所謂ヒロインだ。だった。彼女にぶたれるまでは。このウェルトと良い仲になり、そして彼女にけん制された。彼女は所謂ライバルだ。作品によっては仲良くなるエンディングもある、和解ルートも。でもこのゲームでは、そういったことはなかったように思う。彼女は悪事をバラされ、ウェルトの許から去っていく。二度と会うことはなくなる。それ以上のことを深く考えたことはなかった。
「……大丈夫か?」
ウェルトがまた気づかわしげにわたしの顔を覗き込む。頬に手を添えてじっと瞳の奥を探ろうとする。わたしはもう照れたりはしないが、心遣いが嬉しくて今度はちゃんと微笑んだ。
「有難う、大丈夫だよ」
「俺には言えないことか?」
「うーんどうだろう、まだよく分からないや」
「分からない?」
「――確認だけど」
「ああ」
「ここはエタンセルリュンヌ学院だよね」
「……ああ」
ウェルトは一瞬怪訝そうに眉を上げた。
けれど頷く。
「わたしとあなたはクラスメイトで」
「ああ」
「二年生?」
ウェルトはまた頷く。
「有難う」
「……まだ授業は残ってるが、休むか」
「ううん、大丈夫。今から行くと遅刻かな」
「気にするな」
「そうだね」
わたしは笑った。
ウェルトは瞬いて、笑った。
「行くか。セフベーネに怒られれば済む話だ」
「そうだね」
わたし達は立ちあがって、教室に行く。教員のセフベーネは堂々遅刻したわたしたちに課題を追加させて説教した後、何事もなかったように授業を再開させた。わたしは教科書を開き、板書をぼんやり眺めやる。幸い、一番後ろの席で、思案に耽るには問題がなかった。
私はここではメロウという名前があった。名字はない。この世界は明確な縦社会で王から連なる階級があり、この学院は王の一族や貴族たち、あるいは特別な許可を得たものしか入れない場所で、私は平民生まれだったが実は、というやつだ。本当の実は、日本で生まれ育ち死んだ、金城頼子という名の現代人だ、現代を現代と制定していいのならば、まだ日本が日本としてあるのなら、あるいはここが、世界の全てでなければ。言うまでもないただのオタクはある日、事故で死に、そして、何の因果が、プレイ途中だったゲームの作品の中で意識を持った。わたし、という意識を。
あの瞬間――リュアナ・シーザーに頬をぶたれた瞬間に。
メロウというヒロインは、金城頼子というモブになった。
「深淵なる考えに耽溺しているところ申し訳ないが……」
ふっと声がかかった。セフベーネがわたしを指していた。
「貴殿の目の前にある数式という黄金も、またあらゆる人々の」
以下云々。わたしは大人しくすいませんと話を聞き、他のクラスメイトには小声で笑われるのだ。自説をぶったセフベーネは、殊更に数式の有用さを強調するが、この世界に必要なのは神秘性であり、クラスメイトはわたしを嗤うが、同時にセフベーネも変わり者として嗤っている。改めて授業終わりに、わたしはセフベーネに詫びに行く。彼は胡乱な眼差しでわたしを見詰めて、「課題を減らしたりはせんぞ」と言い放つ。
「いえ、授業の邪魔立てをして本当申し訳ありませんでした」
「―――そこの本棚の左から二番目の本を取れ」
「え?」
「聞こえなかったのか?」
わたしは反論を諦めて、本棚に手を伸ばす。
「三段目じゃない、五段目だ、ああ、いや、一番下だな」
「…………これですか」
「ああ。貸し出しはここに名を書いて行け」
わたしはセフベーネを見る。
彼はむっつりと何も説明しないぞという顔をして、わたしが名を書くのを見ていて、やっと部屋を出る間際に、聞こえるかどうかの音量で言った。
「出した課題に役に立つ」
わたしは少しだけ吹きだした。
そういえばそうだった、と思い出す。
セフベーネもまた攻略対象の一人なのだ、と。
ウェルトが廊下で待っていた。
確かゲームの期間は学園生活三年間と設定されている。パラメータ云々はなかったように思う。選ぶ相手によって固定されたストーリー展開があり、わたしは、そう、丁度二年目の緑月までゲームを進めた。ウェルトとの課題フラグを立てて。
ウェルトが言う。
「どうせなら一緒に済ませないか」
「同じ課題だもんね」
「………メロウ」
「何」
「いや、何でもない。早く済ませよう。提出が遅れるとまた増えるからな」
わたしはそうだね、と頷く。賢明なウェルト。
彼は少し違和感を覚えているようだ。
わたしは微笑んで、敷地内の図書館を目指す。
今どこにいるのかも、本当は分からないのに。