第三節:いつしか仕えたもの
魔王城が消えた。
城のもっとも中核に位置していた謁見の間が、野天にさらされる。城に張り巡らせた十重二十重の仕掛けは無為に潰えた。瓦礫を避けて逃げ惑う魔王軍は完全に機能していない。
「陛下……へいか……っ!」
瓦礫を避けて叫んでも、灰塵が踊るばかりだ。争いの音だけが彼の無事を教えてくれる。
根本だけを残す列柱の一つにすがって、必死に方向感覚を確かめる。
石造りの頑丈な王城が、戦闘に耐えきれず激しく揺れていた。壁も廊下もすでにない。絢爛を極めた夢の跡としてもひどすぎる、あまりに無惨な城の廃墟だった。
「私たちの、国が……」
街並みを見渡せる展望台は、今や単なる崖も同じだ。泣き出しそうな喉に力を込める。
建築士たちと綿密に合議した町並みが、彫像を彫った公園が、見る影もなく足蹴にされた。譲らざるを得ないところまで持っていかれた市議会が、収容所として血と糞尿に汚されている。
――細かいことは知らん。お前に任せる。
軍備を整え管理するために貨幣を刷った。
作った貨幣の価値を腐らせずに健全化させるため、経済の成立に心を砕いた。
街職人が誇りを持って築き上げた商品を、侵略軍が略奪していく。
――この国も、大きくなったもんだな。
彼の声が、また胸に蘇る。いつだって甘い気持ちとさらなる奮起を呼び起こしてくれる声。
それも今は、苦い無力感と塩辛い悲しみでしかない。
土煙が邪魔だった。瓦礫の山で視界が通らない。目を動かしても彼の姿が見えない度に、絶え間ない不安が虚ろな胸を押し潰していく。
「陛下……! 陛下……っ!」
彼は魔王の呼び名が好きではない。しかし、彼は紛れもなく世界に君臨するに足る器だった。
薄汚れたドレスが心苦しい。
なぜ勇者に執心しているのか教えてくれなかったが、殺そうとしていることは知っていた。彼を勇者に取られてしまうような気がして、たまらなく不安だった。
埃にまみれた髪で彼を不快にさせてしまわないかと怖くなる。
いつでも手元に置いて、便利に使ってくれて、気にかけてくれるだけで幸せだった。捨てられる心配は、もうしていない。ただ、ついていけないほど遠くまで彼が行ってしまいそうで、とてつもなく不安だった。
「でき損ないの私を」
――お前、そのままだと使い物にならないぞ。
「使い物にしていただけるのは、あなただけです」
――なんなら、俺が使い途を作ってやろうか。
「ちゃんと、使ってください。私が壊れるまで」
――使い潰してやるよ。お前が壊れるまで。
「お願いします、陛下……っ!」
見えた。
二者が剣を絡ませて、もつれあうように目の前の瓦礫を割り砕く。魔王の顎を蹴り上げたあの女、勇者が剣を振りかぶる。切っ先は魔王の喉を指していた。
一瞬で沸騰した。
「貴様ァ!」
飛びかかる。
魔王に全神経を注いでいた女は、虚を突かれたように顔を跳ねあげた。ほとんど自動化された動きで闖入者の胴を薙ぐように剣を向け、
貴族の娘そのもののような姿に斬撃を止める。
ドレスの袖から手甲剣を弾き出す。両腕を使って切りつけても、勇者は軽々と回避し、逆撃で右の剣を斬ってしまった。
それでも勇者は間合いを開けている。
人間を守る勇者様は、魔王に与する人間をも助けるおつもりか。
内心で唾棄しながら、礼を失しない程度に急いで魔王の片手を両手にいただく。
「陛下、こちらに!」
「お前、まだいたのか」
身を案じてくれた言葉に甘い思いが胸を満たす。その感情を脇にどけ、彼の安全に集中する。
ほんの五歩。いや、魔王の足ならほんの二歩。
「待て、魔王!」
一歩のうちに、勇者が追いすがってきた。
憎々しさが胸を満たす。この女さえいなければ!
魔王の脇に立ち、スカートを蹴り上げるように翻す。曲げた足を掛け、水平に蹴り飛ばした。
鉄の矢。スカートに忍ばせた特殊な軽鉄製の暗器だ。さしもの勇者も目を剥いている。
が、届かない。
勇者はのけ反りながら剣を跳ね上げ、腕を流すように矢を宙で斬る。空力を乱された矢は、くるくると方々に吹き飛んでいった。
必殺の騙し討ちさえ凌がれた。毒づきたくもなる。しかし殺せないことも織り込み済みだ。
「陛下、捕まっていてください!」
魔王の片手を胸にかき抱き、踵に添えた杭の暗器を床の一点に打ち付ける。
ずるり、と。
床がたわんで沈んだ。割れる。亀裂が放射状に放たれる。
周囲を巻き込んで崩落し、魔王とともに大穴へと落下する。
床石の塊が浮遊するようにゆっくりと落ちていた。不気味な浮遊感のなかで、魔王の体温だけが確かに感じられる。頬が熱くなった。
垂直の穴は魔王城を貫いて、深くまで続いている。見上げた空は、瓦礫が互いに打ち合って、互いに重なり互いを支え、頭上の穴の光を塞いだ。
水に落ちる。
冷水と泡沫に洗われる時間は短かった。
水が鼻を流れて、濡れた髪が首に巻き付いた。自分が浮かされていることに気づく。
「陛下」
「っぶわあ! ふぅ」
水面に顔を突き出した魔王は、首を振って水を払った。煩わしそうに眉根を寄せる。
地下の上水道が広がっていた。管理道の魔導灯が暖色の光を投げかけて、生き物のようにうねる水面を照らし出している。
天井の穴が完全に塞がっているのを見上げた魔王は、呆れたように笑った。
「無茶しやがる。これもお前の仕掛けか?」
「はい。脱出するための、自壊のツボです。今は城の瓦礫が蓋として勇者を阻んでいます」
これを発注したときの建築士の表情は、今でも笑えてくる。
しかし、それでも勇者を巻き込んで殺すという当初の最大目標を見込むことはできなかった。必殺の暗器による最高の不意討ちを、あの女は初見で凌いでみせたのだ。
あれは「死という現象だ」と、そう呼んだ方が事実に近い。
「で、この後はどうする。お前のことだ、再起の手はずに至るまですでに決めているんだろう」
「無論です、魔王陛下。あなた様に見出だしていただいたあの日から、この身のすべては陛下のためと心得てございます。万事抜かりありません」
そんな言葉に、彼は呆れたように笑ってくれる。
馬を用意していては気取られかねないため、移動手段に手は打てなかった。濡れた身体のまま、ひたひたと上水道の脇を通る管理通路を急ぐ。
「陛下」
彼は声に応じるように視線を向けてくれた。
「ありがとうございます。勇者との戦闘を中断して、逃亡に応じてくださって」
そこが引っかかっていた。あの女との戦闘を渇望していた魔王を、不躾にも手を取って、無理矢理引き剥がすように脱出口に引きずり込んだ形だ。彼は不満に思ってはいないだろうか。
魔王はつまらなそうに腕の水気を弾いて払う。
「今日はお前に譲ると言ったからな。お前に策があるのなら、乗るのは吝かでもない」
ふわ、と頬が緩んで焦った。
抑えようとしても、笑みが抑えられない。うつむいて足元を見る。彼とは足の大きさがまったく違っていた。
「あの……ありがとう、ございます」
「ああ」
彼の声を聞きながら、道の先に視線を投じる。
この蜜のような時間は、もう少しだけ続く。
「陛下」
「なんだ」
彼は呼びかけに応えてくれる。
「私を、最後まで使ってください。最後のひとかけらまで、使い物にならなくなるまで……」
「当たり前だ」
にい、と彼は笑っていた。
「なんのためにお前をここまで育て上げたと思っている。俺は最初からお前を持て余すつもりなど欠片もない。限界ギリギリまで使い込んで、お前の強さが最も鍛えられたときに――」
この笑顔を、独り占めしている。そう思うだけで、胸が痛いほど甘く震える。
「正面から戦って、お前を殺す」
獲物が肥えるのを待つような、戦い以外に価値を認めていない男の、獰猛な笑みを。
涙がこぼれる。嬉しくて。唇が震える。身に余る幸福に。
「はい、必ずや」
この世のあらゆる宝石よりも大切な彼の言葉を、胸に刻む。
「必ずや私は、陛下と戦い……お命を脅かすほどの脅威として、お相手仕ります」
彼のためならこの命、捧げることに迷いはない。