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第一節:いずれ魔王と呼ばれるもの

 泥の味がした。


 大粒の雨が泥を弾く。

 顔にかかる泥が気にならないほど、全身がすでに泥にまみれていた。腕と背中に重みを感じて、苛立つ気性と息とを必死に殺す。背中に当たる戦友の腕は冷え始めている。

 薄目を開けて、顔に弾かれた泥が赤いことに始めて気づいた。

 テントは破れて落ちていた。ポーカーの途中だったテーブルが割れ、ハートのキングが泥中に刺さっている。くそっ、やっぱりレイズしときゃよかった。そんなことを思った。


 雨の中、女が立ち尽くしている。

 最後に切り裂かれた男が痙攣をやめた。酒を命の水と呼んだ男は、結局死ぬまでウィスキーの角瓶を手のひらから剥がすことはなかったようだ。

 血にまみれた剣を握る女が、雨を全身に浴びるように顔を上げて立っている。

 藍色を帯びた暗い色の髪に、要所を防具で隠しただけの旅装束。外套に包まれた細身は雨中に凛然と立ち尽くしていた。表情のない瞳で空を見据える彼女の姿は、全身で泣いているかのようだ。

 怒りが湧き上がった。

 声を抑えるのに苦労した。歯を食いしばって押さえ込む。噛み締めた頬の肉から錆びた鉄の味がにじんでいく。それ以外のことはなに一つできない。

 仲間の死骸を全身に積んで、身じろぎ一つ取らず息を潜めるしかできなかった。


 ひたすら無言で女をにらみ続ける。女の姿を、その顔を脳裏に刻み付ける。体格も、髪型も、手指の形、服の皺に至るまで、女の全てを焼き付けた。できることはそれしかなかった。

 やがて女は、夢から醒めたように剣を振った。

 刃を収め、感傷に飽きたように背を向ける。死骸の山を一度も振り返ることなく、立ち去っていく。


 死体の山から這い出したのは、それから日が沈んで闇が世界を塗り潰した後だ。

 生き残りが誰一人いないことは、確かめるまでもなかった。

 目を伏せる必要もない。夜の闇に思い描くことができる。

 女の姿を覚えている。

 そのことに安心した。忘れていない。復讐を違える心配はない。

 この怒りを分かち合う友も、ぶつけ合う仲間もいない寂寞感を、憎しみが焼き焦がしていく。

 笑った。

 腹の底から笑った。

 死体の真ん中で笑った。

 自分を支えるものの存在に涙を流して笑った。

 狂笑の丘を、夜の雨が覆い隠す。




「陛下」


 懐かしい夢を見た。

 目を開けば、そこは仲間の死骸が山と積まれた街外れの丘ではない。

 欲しくもない芸術品を献上した商人の面子を潰さないために、応接間は絢爛に飾られている。必要以上に広いこの部屋は赤い絨毯が敷かれ、等間隔で並ぶ丸い柱の向こうに城下町の景色が広がっている。

 ――いや、謁見の間だったか。


「陛下?」


 呼び声の主を振り返る。

 貴族の娘のようなドレスでかしずいた乙女が、不審そうな顔を覗かせている。くすんだ赤のような髪をバレッタでまとめた翡翠色の瞳が、玉座にある魔人の姿を映す。瞳の中の小さな彼は、獲物をくわえた獣のような笑みを浮かべていた。


「……ああ、なにか用か?」

「はっ。勇者同盟軍の勢いに押され、城門が決壊間近とのことです。背面から市街戦を挑んでいましたが、先ごろ勇者の広域殲滅により市街地ごと消滅いたしました。勇者同盟軍が我が城に押し入るのも時間の問題でしょう」


 彼女がそう報告する間に、戦の悲鳴と絶叫が謁見の間にまで響く。

 城門の砕かれた音はない。敵が発した鬨の声ではなかった。

 押し入られたのではなく、王城の防衛軍が逆撃を行った声だ。大方、城門を破ろうと準備していた連中に熱した油でも投げたのだろう。肘掛に頬杖をついたまま、そう推測する。もう片手で大剣の鞘を握る。暇だった。

 娘は頭を垂れたまま上申する。


「この国はもう終わりです、陛下。この場を放棄し、脱出しましょう」


 どん、と謁見の間の床が響いた。

 絨毯に叩きつけた剣の鞘を再び持ち上げる。


「逃げろと言うのか? この俺に逃げろと? 勇者を前に尻尾を巻いて逃げ出せと? なんのためにこんな狭苦しい椅子に収まって暇を持て余したと思っている」

「魔王陛下」


 彼女は面を上げ、翡翠色の瞳をまっすぐに向けた。

 魔王、と彼女は大真面目にそう呼んだ。


「魔王陛下。あの女に執心なさる御心は存じております。しかし陛下。あなたはこんな場所で、人の群れの中で勇者と争うべき器ではございません。今は野に下り、再起を図るべきです。あの女は人間どもをわずか十月で団結させました。それは陛下の威光あってのこと。逆に御身が身を隠されれば、瞬く間に烏合の衆へと戻るでしょう。その機を計り、満を持して正道の対決を」

「話が長い」


 顔を歪めた彼女の姿に溜飲を下げる。

 頬を笑みに緩め、謁見の間から戦場を見晴らす。

 城下町だった。色とりどりの煉瓦で飾られた城下町は多様な品々を集めた市で賑わっていた。今はどこもかしこも戦火の煤と血で汚れている。

 それも、どうでもいいことだ。

 すべてはこの娘が勝手にやったことだ。彼女は魔王の身をなによりも重んじている。

 そのためだけに国を整え、軍備を配し、指揮系統の統一まで図っていた。それは、あわよくば魔王との邂逅なく勇者を殺すため。叶わぬなら魔王が勇者と邂逅せずにやり過ごすためだ。

 仮にこの場を逃げたとして、以降もなにかと理屈をつけて、勇者との対決を止めるだろう。

 まるで、そう。

 まるで魔王を冠した者は、勇者に敗れることが宿業であると信じているかのように。

 あるいはそれは間違いではないだろう。


「――分かった」


 背中の開いたドレスをまとう娘は、恐る恐る顔を上げた。


「不断の働きに免じて、この場は譲る。案内しろ。どうせ、逃げ道も用意してあるのだろう」

「……はっ、ありがとうございます。こちらに」


 娘は豪奢なドレス姿だと感じさせない身のこなしで、列柱の脇へ向かった。

 彼女の後を追いながら、戦場に目を向ける。勇者の姿は探すまでもなかった。

 王城の高さから見晴らせば、住宅を破壊して丸く均した街路に立つ女の姿が映える。外套に胸当てを隠し、右手に剣を握る、変わらない姿。こらえきれず笑みが浮かぶ。

 まあいい、と口の中でつぶやく。

 魔王と呼ばれている限り、また逢う機会もあるだろう。未だ頂点ではない勇者との決着なら、逃亡も悪手ではない。存在そのものがお前の苛立ちになるのなら、逃げの汚名もまた愉悦だ。

 目が合った。

 笑みに吊りあがる。


「すまん」

「陛下?」


 怪訝そうに振り返った娘の表情が、ますます不審を深めていった。

 見えた表情は、満面の笑みになっていただろう。


「ばれた」


 勇者の姿はまるで空を飛ぶように、ひと蹴りで王城に迫っていた。

 状況が呑み込めていない娘を押さえ込むように庇う。その背後で、列柱がまとめて破裂した。

 激震と衝撃が謁見の間を洗う。玉座が倒れた。稀代の芸術品が瓦礫の礫を浴びて砕けていく。

 にいい、と頬が裂けるほどの笑みが浮かぶ。

 女が、土煙のなかで外套を翻す。それは厳しい形相をしていた。


「――ようやくだ、魔王」


 彼女の剣は、血を吸いすぎて不気味に重く沈んでいる。研磨を繰り返された絶刃は、並みの技量では触れることすら叶わない。一振りで折れそうなほど研ぎ澄まされていた。

 握り締める剣の鞘が打ち震える。


「ああ、ようやくだ。待ちかねたよ」

「まったくだ。こうして逢うことを願わなかった日などない」


 もはや笑みは溢れんばかりに広がっている。

 背後に隠す娘の表情は見えない。逃げればいいものを、愚直にもこの死地に居残っている。

 死地。

 そうだ。笑った。死ぬか生きるか二つに一つ。この場にそれ以外は必要ない。

 どちらが死の(くじ)を引くか。

 表情の違う口が開く。


「――貴様を殺す――」


 声は揃えて、一意に重なる。


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