人を殺した断片的なA
Aは優秀な人間だった。事件以前は大学生で、地元の名高い旧帝大学に進学し、理工学部物理学科で日々、講義を通してこの世の摂理に研鑽を励んでいた。最高評価の単位は少なくなく、半年ごとに通達されるGPAは4を超えることも多かった。
Aは特に数式に対する執着が深く、二回生の時に受けた物理学実験では、観測された現象を数式で細かく解釈し、担当講師曰く「これを正しく解き明かしたのは五年に一人ぐらい」とまで言われる程であった。同じ時期に履修した解析力学では、今までの物理学とはかなり異なるアプローチである、最小作用の原理、拘束力、正準変換にはやや手こずったようだが、それでも他の同輩に引けを取らない理解があった。電磁気学は、担当講師から推薦されていた、その界隈では聖書と呼ばれる参考書を既に読み通していて、講義中では、聖書の中で追及されていなかった事柄だけ耳に入れ、そうでなければ自習をするか、レポートに励むか、あるいは机の下でSNSを眺めているかをしていたらしい。
彼の優秀な成績に比べて、大学での全般的な授業態度は、そこまで褒められたものではないだろう。家でもそこまで努力はしない。かといって、彼が天才なのかと言われれば、彼は、そうではないと答える心積もりだったようである。彼は、友人と談笑する中で、中学生の頃を思い出しながら「教科書を読めば全部書いてあった。わからなくても、教科書を真似すれば良かったし、理由を察するのも、そこまで難しいことではなかった」と話していたようだ。高校での勉学は中学程すんなりは通らなかったけれども、数学と国語を通底させる彼の信念が、現在の大学まで自身を導き、その認識やがてここで開花した、とも語っていた。その話の筋から、彼は成績不振な友人に「疲れてるだけだ」とか、「式変形の所以を理解したほうが良い」などと、所々杜撰なアドバイスを加えている。
〈杜撰〉であったことは、彼自身も理解していたようである。彼は一回生時、中学生向けの塾でアルバイトしており、それについて同じ塾講師仲間の友人に愚痴を溢していた。高校や大学での勉強内容を比較対象に上げながら、「比較的難易度が低くて、今となっては当たり前になってしまったことを教えるのはとても難しい」と語っている。例えば、国語ができなければ、語彙力と読解力を養うために本を読め。社会、英語なら暗記。理科はまだ教えるのが楽らしく、日常の中での現象を引き合いに出して説明する。一番苦手だったのは数学らしい。どの式変形も、数式化も当たり前すぎて、何処を説明すればいいのかわからない。不審な目を投げかける中学生を前にあたふたし、心の中では「見ての通り」と思いながら、何処か歯切れの悪い、冗長な説明を与えることしかできないのを嘆いていた。
嘆きはするが、それに寄って改善されたという事は、あまりなかったようである。この点でも、彼が努力に対してそれ程力を注いでいなかったことが知れる。塾生から好ましくない視線や言葉が投げ掛けられる一方で、彼は落ち込んだ様子を一切見せなかったらしい。彼の耳に届くほど陰口を語る生徒でも、話し掛けられれば笑顔で対応する。平等に接するのが彼のモットーだったかは分からない。
しかし、いくら彼が平等だったとしても、生徒の名を中々覚えず、アルバイト一年目で辞める時でさえ、まだ名字すらも把握していない生徒が存在したのは、陰で非難の対象になったのも無理はないだろう。「君」という代名詞で誤魔化され、いくら経っても自分の名前を覚えてもらえないと知るのは、多感な中学生にとって屈辱的だし、冒涜的だ。元々、彼は大学の友人に対しても、名前を覚えていなかったというのが、ままあったようなのだが。
そのアルバイトを止めた後は、教示対象を高校生に切り替えた。使える語彙が増えて教え易くなったのもあるが、何よりも彼が塾系アルバイトを継続したのは、時給が高いという理由である。大学生ならば、人生のモラトリアムの中で親しい友人と遊び倒すのはそこまで珍しいものでもないだろう。あるいは、独り暮らしであったとすると、仕送りを貰いつつも一部を本人が負担するというのはよくある形だ。とにかく、大学生には金が要るわけである。しかし、彼は実家通いだし、親しい〈知人〉は多くいても、余暇を共有し合う仲は殆どいなかったようだ。ところが、彼は出費が多かった。漫画、本、CDをよく購入し、衝動買いも珍しくない。更には、菓子類の消費も激しかったようだ。
彼は本が好きだった。小学校高学年の昼休みには、二宮金次郎さながら、文章を凝視しながら、のっそり階段を上る姿が毎日のように見られていたらしい。時間があればとにかく読書で、お気に入りは星新一や小松左京、フレドリック・ブラウン等、SFが大好きだった。彼が物理学に専心しているのも、ここを端に発していたに違いないだろう。
読書の習慣は中学に上がっても続いたが、高校になってばったり止めている。買い与えられたパソコンやスマートホンに夢中になって、空いた時間に打ち込むのが読書からインターネットに完全に切り替わっていた。年も年であり、性的快感への追及がこの辺りで極大に達していたようである。
受験期になると、彼は再び読書の習慣を取り戻した。親から与えられる小遣いも増え、月に十何冊も文庫本を買えるような金額になっていた。SNS曰く絶えて暫くしていたため、始めの頃は簡単な物でも読み進めるのに難航したようである。というのも、思考形態が読書に相応しくないものに変わっていたようなのだ。しかし、登下校時のバスの中で習慣を植え付けていく内に、読書に天敵な注意散漫も催さなくなり、小難しい文章でもすらすらと流し読めるようになっていった。この時点で、彼の読書の趣向は変わっている。停滞期以前に比べて硬派なSFを読み通し、哲学系の話題も増えている。このような、ある意味で努力とも取れるような継続的な取り組みで、彼は苦難していた現代文の得点を伸ばし、おかげで旧帝に合格できる水準点を獲得したとも言えよう。「あの時育てた認知力が今開花している」とも彼は友人に語っている。
彼は大学に入ると文芸サークルに入った。サークルメンバーと打ち解けつつも、週一で開かれる報告会への参加率はそこまで高くない。部誌は半年毎に発行されるが、彼が作品を掲載するのは半分くらいの割合だった。掲載しなかった理由は、たいていの場合、〆切に間に合わなかったから。
彼の作品は、サークル内では一目置かれていたようである。繊細な表現を鏤めた文章もさることながら、ストーリー全体が醸し出す雰囲気、仄めかされるテーマ性という物が、他のサークル員の中では異質であった。主人公の夢の中で切り拓かれるメタファーを意図した構図、明らかに跳躍した論理を挟みつつ眩い光輝の中に篤い信仰と恍惚感を感じている登場人物、そういった物が彼の作品にはよく登場した。
彼が何を見、何を意識し、何を以てこの作品を書いたのか、その作品から完全に理解するのは至難の業であった。また、彼は自身の作品については寡黙であったので、その実態も闇に包まれている。
さて、事が起こったのは、三回生時の初夏、車通りの少ない高架橋沿いの路上であった。彼の証言によれば、帰宅時に地元高校の不良生徒Bに目をつけられたそうだ。自転車に乗ったBが粗暴なハンドル捌きで、自転車に乗ったAの前に漕ぎ進め、進路の妨害に徹した。痺れを切らしたAは、Bを大回りして追い抜こうと決する。が、Bがそれを防ぐように急旋回し、あえなく衝突した。執拗に言い掛かりを付けられ、その時点で暴力の気配は察していたらしい。しかしAは身長が高く、定期的に友人と大学のトレーニングルームに足を運んでいためBよりも分があった。
以下はA自身と近隣の目撃者から聞いたことである。Bが殴りかかってくる所を、Aが植え込みに突き飛ばし、髪を引っ掴んで頭を揺さぶった。それから顔面を横殴りして鼻骨を折り、一気に髪を引き下ろし、地面にひれ伏させる。それからBのうなじ辺りを何度も蹴り遣って、首をのけ反らせた。髪を放してやると、Bは痛みに喘ぎながら横向きに寝転がったが、尚もその眼光はAに明らかな反抗心を燃やしている。Aは更にカッとなり、高校時代の体育を思い出しながら、サッカーボールを高く蹴り上げる時のように、Bの鳩尾を思いっきり蹴り込んだ。Bが大きく見開いたところに、更に二度目をお見舞いする。Bは嘔吐した。しかし、Aは執拗に責め続けた。極め付けには、彼は自転車を持ち上げて、Bの上に思い切り振り落とす。Bは重い自転車のフレームに強かに頭を打ち付けて昏倒した。その後もAは、暴力に執着したが、近隣の住民が彼を制止し、暴力沙汰はここで打ち切られた。後程、Bは病院へ搬送されたが、脳挫傷で程なく死んだ。Aは殺人未遂で現行犯逮捕されていたが、罪状は完全なる殺人罪に切り替わった。
彼は取り調べで殺意を認めている。動機については、執拗な難癖を付けられた為による衝動的なものと見做されているが、彼の口から語られた表現は、簡単にそうとは言い切れないものであった。
「共感性羞恥が僕を突き動かした」と彼は言った。ただ、それだけである。彼は自分に関する話となると、寡黙になる傾向がるらしい。口に出すとしても、それは断片的で仄めかしめいた部分が多い。彼が己の作品について口数が少なかった部分と共通している。
「何故、順風満帆な道のりを歩んで来たのにも関わらず、殺人衝動を抑えることができなかったのか」と、私は訊いた。Aは、自分の両腕に目を遣りながら「この腕に取り縋るような未練は無かった」とだけ答えた。信じがたい答えである。旧帝大で優秀な成績を修め、更に輝かしい未来を目前に吊り下げられておきながら、『未練は無い』と答えられるのは不可解な印象である。
「勾留中には何をしているのか」という問いに、彼は「差し入れられた聖書を読んでいる」と答えた。キリスト教徒の家なのかと訊くとそうではないらしい。息子思いの両親が、我が子の反省のために購入して差し入れたのだと、思ったのだが、どうやらそれは元々彼が、学生時代に買っていた物らしい。取材を続けると、彼は宗教に明るいことが分かった。
ネット上に放置されている彼のSNSを確認すると、読破したと報告をしている本は、確かに宗教系の本が目立つ。三大宗教も嗜んでいるが、拝火教、マニ教、ミトラ教、グノーシス主義、南米文明、エスキモー、アフリカ民族宗教、更には薔薇十字団など、眉唾物にさえ手広く範囲を伸ばしているようだ。とりわけ注目したいのは、唯一神、太陽神に関する書物が多かったことだろう。他に差し入れてもらった本があるのかどうかと訊くと、彼はコーランがあると答えた。
「何故、宗教に関して興味を持っているのか」と訊く。彼は少しの間沈黙して「2+2=4になることに飽きていた」と嘆くように述べた。
2+2=4がジョージ・オーウェルの『一九八四年』を意識しているのかどうかは判断しかねる。ただ、SNSを確認すると、確かに彼は大学進学前に『一九八四年』を読み終えている。『砂男』『ドグラ・マグラ』『伝奇集』『毛皮を着たヴィーナス』、他にもフランツ・カフカやコルタサル、カミュ、安倍公房など様々な本をSNS上に取り上げているが、とりわけその中で目を引いたのは、『太陽肛門』というフランスの思想家、ジョルジュ・バタイユの作品だった。調べると散文詩めいた難解な文学らしく、太陽神に傾倒していたAがこのような冒涜的なタイトルの作品に対し、絶賛に近い評価を送っているのは特筆すべきことだろう。最も、私には分かり兼ねる賛辞だったが。
私は彼に反省しているかを問うた。すると、彼はこう答えた。
「Bにも、Bの家族にも、また僕の家族に対しても、申し訳ない思いでいっぱいになり、謝罪し、涙を流した。けれども、その一方で、なぜ僕は謝罪をしているのかわからなかった。なぜ涙を流しているのかわからなかった」
AやBの親族の前では、決して口に出すことはなかったであろう答え。私は煙に巻かれるような思いで、彼との面会を終えた。
自身の事には寡黙な彼から、完璧に綜合された人格を引き出すのは難しい。取材内容やSNSから、どれだけ彼の性格を構築しようとしても、彼が与える情報は断片的で、しかも方々に散らばり過ぎている。無理に結び合わせようとしても、どこか現実離れした人格が出来上がるだけ。Aの最後の回答に対しては、予想通りながら、彼はサイコパスではないという結論が出ている。殺人動機が共感性羞恥であると主張していることでもそうだが、何より第一印象から、彼にそういう特異な雰囲気が纏わりついているということはなかった。むしろ気弱そうな感じで、Bが彼を標的に選んだという点では、納得しようのある風采だ。元は日常の中に溶け切っていた人間で、殺人後は消沈したような、あまりにも人間味の深い態度から見てもわかる。しかも、彼は長らく読書好きで、そういう情緒には長けていない方が不可解だ。よって、彼には感情が備わっている。しかし、だからといって、彼の人格像が判明になるかどうかは、また別の話だ。
私が知れるのは断片的に閃く彼の人格面のみであり、そこから我々が納得のいく殺人動機と綜合された人格を編み上げるのは、とても難しい作業だ。ふと思い至ることは、そもそも、あらゆる人間の行動に、明確な動機を与えていくという作業自体が難しいことであり、ある問題に対する根拠のない意味付けが、そこら中に散らばっているのではないかという疑念が募る。そう思う時、もしかしたらAという人間は、道端で小石を蹴り続ける人間という無意味、無秩序なさまを、その寡黙な口の中から訴えかける存在であったのかもしれないと考える。それは妄言に等しい主張に違いないが、どことなく彼の外から見た人生と言うのは、そういう無意味な行為の集合体に見えてくるのだ。いや、彼には彼なりの思考の流れがあり、彼はそれに則って行動を決断していたに違いない。けれども、それは途方もなく通常の思考からかけ離れた、ものであったのだろう。故に、私の目にはバラバラに散在した人格の総体に見えてくるのであろう。
これを記している時にまた一つ感じたことは、彼の他人にアドバイスを掛ける時の、投げやり加減についてだ。〈無意味〉と〈投げやり〉というのは、どことなく似通った雰囲気がある。彼が殺人によって引き起こした彼自体の境遇は、まさに投げやりな雰囲気を纏っている。特に彼は数学を教示するのに苦難していた。「当たり前」と心の中で思い、解けずに悩んでいる人間に対しては「疲れている」とさえ告げることがあった。彼にとって数学とは無意味なものだったのだろうか。〈2+2=4〉とは、数学の無意味さを明らかにする象徴だったのだろうか。彼は、『数学と国語を通底させる信念』を以て、大学への道を切り拓いていた。もしこれが、彼の読書体験、読書思考を無意味なものに引きずり込むものであったとするならば、彼の過去こそ、ほとんどが無意味な物へと成り代わる。無意味な物、無意味な行動の積み重ね。すると、彼は坂から転がり落ちる球のように、無機質な物体のように見えてくるのである。
Aの宗教に対する一種の執着、これはもしかしたら、彼が昔、心の内に感じていた有機的な、人間的な感情を取り戻そうとしていたためかもしれない。しかし、なぜこれが唯一神や太陽神に結び付いていくのかは、やはり分からない。結局のところ、これらもただ私の一個人の想像に過ぎないので、事実と全く異なるという事は大いにあり得る訳だ。全く別の結び付きが、それらの謎を解決に至らしめるのかもしれない。
これらからも分かるように、Aという存在は今なお断片的な形でしか把握されておらず、その点で、Aという殺人者は、断片的な存在、一部のアイデンティティーを失した存在のメタファーとしての、認知的恐怖の供与者である。彼が体現する、無意味さ、無価値さという印象は、何も殺人という罪によって、なすり付けられたものではない筈だ。恐らく、事件以前にもその価値の死相という物は彼の顔に現れていたに違いない。ただ、殺人という罪が、その無意味な状態を、よりいっそう研ぎ澄ましたに過ぎないのである。
もしかしたら、殺人は彼があえなく無意味な底へ滑落していく折の、ただ通らざるを得なかった通過点であったのかもしれない。そう考える時、私は一抹の不安を覚える。私が彼のように〈無意味〉な門をくぐり抜けた時、彼と同じような理由で殺人を起こしてしまわないのか。しかも、捉えて然るべき罪の意識を掴みあぐね、自身でも理解しかねる謝罪と涙を流し、無限の当惑の最中に放り込まれてしまわないのか。あらかじめ〈無意味〉を防御するにしても、どうしたらよいのだろう。私には、そこに待ち受けている恐怖さえ、分からないままなのだ。
人を殺した断片的なA。彼はそのバラバラな存在感を以て、私の心の内奥に不愉快な影響を与える。
私はそれを解せないまま、この事件を振り返りながらも、この世の何処かに潜んでいる〈無意味〉と名付けた恐怖に、怯えて暮らしていくしかないのである。