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線路際の罠の家   きた いちろう

本作品は、文芸同人誌「みなせ」69号に発表した「評論と創作研究ー文学的真実と事実の違いについて」(伊藤昭一)の中の実作小説のみを取り出したものです。合評会のような場にはいなかったのですが、もっぱら小説の部分のみが、印象に残って話題にされたそうなので、その部分のみを、きた いちろう として投稿してみました。作品では、主人公は警察に無実なのに母親殺しで逮捕されそうです。その後、どうなったを想像してみると、メディアの事件報道が、原則「推定無罪」を逸脱していることが理解できるのではないでしょうか。

 孝二がビルの角を曲がったとき、向かいのビルの側に立っていた男が、くわえていたタバコをアスファルトに落とした。そして、足早に彼のところに寄ってきた。

「あんた、立野さんだね。こんどあなたの負債を当社が買い受けましてね。その件でお話があるのです。ちょっと、そこまでご足労願えませんか」

 声をかけて来たのは背の高い、異様に痩せた男だった。口調はていねいだが、むんずとつかんだ腕には有無をいわせぬ力がある。

 立野孝二は夕方、外回りを済ませて、事務所に戻る直前に足止めをされたのだ。一瞬「この野郎、なにする?」という怒りがこみ上げた。しかし、瞬時に、何か自分の立場にまずいことが起きているらしいことを感じた。

 そこに気がまわると、こんどはきゅうに凶暴な獣に狙われたような恐怖感に襲われた。そこで、おとなしく男に従った。駅前の飲み屋街の狭い路地を通り抜ける寸前の雑居ビルに連れていかれた。

 エレベーターはなく、狭い階段を四階まであがる。階段途中の部屋の扉はいずれも、ぴったり閉ざされ、静まりかえっている。

 案内された部屋は、事務机が一つ。緑色をした下敷きのガラスが光っていた。その奥は衝立があって見えない。人の気配がするが、何をしているのかわからない。机の向う側には肘掛椅子があった。こちら側にはイスがない。痩せた男は、孝二の腕を引いて机の前に立たせた。男は壁側に立った。

 衝立の奥から太った男が出てきて、椅子にどっかりと腰を落した。背広の前を開けている。ファイルをテーブルに投げだし、孝二に示した。

「立野孝二さんね。あんた、首都圏南部建設業共済組合に二千万円以上借りているね。その債権を我々の会社が買い取った。だから、今後はこの全栄商事に返済する義務がある。これまで、毎月いくら返済していたんだね?」

「三万円です」孝二は神妙に言った。

「ほう、ふん。それじゃ、利息にしかならんじゃないか」

 座ったときから呼吸の荒かった男は、さらに鼻息を荒くした。アレルギーで鼻炎を起こしているみたいだ。色が白く、肌の色艶は良い。普段は陽に当たることがないらしい。

「でも、それが精一杯で……。組合はそれで納得してくれていました」

 男は、また、ふんと鼻をならした。

「組合なんて、もう解散になったよ。不明朗会計で、政治家に金を流していたのが露見してな。理事長が逮捕された。だから債権を売り払ったのだ」

「はあ……」

「わかったな。では、もうひとつ努力して今月からは月四万円を返済してもらおう。今、あるかね?」

 孝二は、仕方なくズボンのポケットから財布を出した。手持ちには五万円と小銭があった。そこから札を四枚、テーブルに置いた。肥った男は、ふんふんと鼻息をさせながら、丸みのある指で札を確かめる。すると、脇に立っていた男が内ポケットから領収書の綴りを取り出し、一枚破って彼に渡した。日付と金額が合っている。この日、孝二が払わないということを、まったく考えていないことがわかるのであった。


 雑居ビルから出てきたとき、まだ薄ら寒い三月なのに、彼は緊張で額に汗をにじませていた。負債をすぐに全額返済できないとすると、二十五年間毎月四万円ほど返済していくしかないという話をきかされ、解放されたのだった。おそらく彼らは、彼の債務をかなり安く買い取ったのに違いない。だから比較的緩やかな対応ですましたのだろう。いずれ折をみて、強引に全額返済を迫ってくるのは目に見えている。

 急いで会社にもどり、営業報告書を提出して事務所を出た。

 近くの商店街の居酒屋にはいり、熱燗と肴で夕飯を済ます。一万円札を崩して支払いをすますと、一文無しの身が実感をもって迫ってきた。とっぷり暮れた道を、重い足取りで歩いた。母親の家は、すぐ近くだった。

 家では母親が夕食後のクッキーを食べていた。おかえりというのに頷いて、孝二はそのまま二階に上がった。

 その時彼はふと、母親のシゲがいつ頃から、紅茶でクッキーを食べるのを好むようになったのか考えた。おそらくここ二、三年のことだろう。ここに転がりこんでから気がついたことだから……。寝る前にトイレに行くため二階からおりて来ると、シゲが台所の丸椅子に腰掛けているのを眼にする。ガステーブルの脇にマグカップを置き、クッキーの包装を破る微かな音を立てているのだ。夜中に限らず、さっきのように彼が仕事から戻ったとき、ベッドから出て、台所でクッキーを口にしているのを見ることが多い。               

             

 立野孝二は五十二歳。去年の夏、一人暮らしをしていた母親の家に転がり込んだ。シゲは七十八歳になる。

 孝二は、この家で育ち、中学を卒業後、夜間高校に通った。それから家を出て下宿。いくつか職を変えたが、二十年前に建設業界の共済組合の事務員になった。江東区南砂にマンションを買ったものの、結婚もしないで、うかうかと女遊びやギャンブルに耽った末、ローンの返済が滞り、サラ金に手をだした。借金は三千万円までにふくれあがった。その返済に困り、勤務先の金を使い込んでしまったのである。

 一旦は警察に告訴されたが、マンションを手離し、それでも足りない分は、今後いくらかずつでも働いて使い込んだ金を、返済するということで、勤め先は告訴を取下げた。示談にしてもらったのである。組合側では、孝二を業界の裏の部分に一枚噛ませていたこともあったので、それが表沙汰になることを嫌ったのだ。

 彼は職を失い、しばらくしてやっと小さなビル管理会社の営業の仕事についた。しかし、収入は少なく、とてもアパートの家賃など払えない。使い込みした分、毎月三万円を三十五年かけて返済する事になっていたが、その約束も満足に果たせないでいた。そこで母親のところに舞い戻った。住所を変えたので、ここしばらく前の勤め先から返済金の催促がなかった。都合がよかった。彼はそこの共済組合がなくなってしまえばいいと、ムシのよいことを願っていた。ところが、そうはいかなかった。彼の負債は全栄商事とかいうコワモテのする金融業者に売られていたのだ。

 母親の家は小さな二階家で築四十年以上の代物である。調度品以外は、孝二が住んでいた頃とまったく変わっていない。一階が台所、トイレ、浴室のほかに六畳間がひとつ。今は、シゲのベッドと仏壇がある。二階は八畳間と、洗濯物も充分干せないような狭いベランダ。この一部屋が孝二の生活場所である。

 K電鉄のK駅とZ駅の中間に家は建っている。線路際である。近くの踏切の警報機が鳴りはじめると、まもなく電車が轟音をあげて窓の外を走り抜ける。まるで部屋のなかを通過でもするような響きだ。

 踏切で危ない渡り方をする人間はいつでもいるもので、その時のけたたましい電車の警笛には、慣れるということができない。二階に居る孝二は、そのたびに座っている尻を浮かしてしまう。

 家の敷地は十九坪である。バブル景気の頃、隣にオフィスビルが建つ前に、業者が買収にきたらしい。だが、シゲは亡くなった夫の想い出の土地だと、頑強に言い張って売らなかった。今では、両隣に八階建ての灰色のビルが、シゲの古家を圧するように建ち並んでいる。もう、この狭隘な土地を買収しようとする者はいない。

 古家は去年の台風で雨漏りがした。業者に応急処置をしてもらった。「この程度の雨漏りで済むのも、小さいながら造りが良いからですよ」と妙な感心の仕方をされたものだ。

「もう、この家も限界だ。建て替えなきゃダメだろう」そのとき、孝二はシゲにいった。

 彼は無一文なので、シゲの貯めた金をあてにしていた。シゲは、隣町の紙問屋の事務員を長く勤め、一時はそこの社長と愛人関係にまで、発展したことがあったようだ。その間に、かなりの貯金ができた筈だった。

 シゲはしかし「お父ちゃんが、死ぬ前に建てたものだよ。わたしの目の黒いうちは、修理をしながら住むんだ。だいいち、もう建てかえるようなお金はないしね」という。

 父親が建てた家だから、目の黒いうちは、いじらないというのは、以前からの決まり文句であった。それにしても金がもうない、というのは意外であった。信じられない。

「金がないって? 嘘だろう」

「お前、わたしの懐を当てにして戻ってきたのなら見当はずれだよ。あるのは毎月の年金の分だけさ」

 シゲに図星をさされて、孝二は返答に窮した。彼の記憶によれば、ある時期は金を貯めたようなことを、言っていたのだ。

 それにシゲが「もうない…」と言っているのは、「最近までは有ったが…」ということなのだ。何に使ったのだろう? つつましい生活が身についているシゲが、大金を注ぎ込んでも惜しくない事といえば……。

 それは兄の清一しかない。

「兄貴に上げたんだな」

 問い詰めてもシゲは無言であった。ぷいと立って、台所に行った。冷蔵庫の脇に置いてあるクッキーの箱を開け、ひと掴み取り出す。紅茶のパックをポットに入れ、湯をそそぐ。

――そうか、クッキーと紅茶は、清一が送ってくれているのだ。幸次は思った。日ごろの親不孝の償いなのかもしれない。毎月、神戸にある洋菓子の銘店から宅配便で紅茶とセットで送られてきている。孝二は、洋菓子の包装紙を破るシゲを横目に見ながら、そこに思い当たった。

 たしか五年前だった。新聞で清一の名前をみたのは……。関西の暴力団が、乱脈経営の中堅企業から金を脅しとった事件で逮捕され、共犯者として立野清一の名があった。

「兄貴の保釈金に使ったのか?」

 孝二の執拗な追及に、シゲはやっと首を縦に振った。

「保釈された後だって、暮らすにはお金が要るだろう。仕方がないじゃないか」

 シゲの言葉に、孝二は自分の貯金でも失ったかのように落胆した。


 彼は小さいころから、兄の清一と仲がよくなかった。というより、清一が彼を邪険に扱ったのだ。学校で彼がワルに苛められていても、助けてくれたことが、一度もない。それどころか、悪餓鬼どもをけしかけ、もっと痛めつけさせたりした。中学の頃には、もう清一とは口をきかなくなっていた。昔から、ろくでもない兄貴と嫌っていた。

 清一は競艇場へ行く客を相乗りさせる白タクをしていたが、商売敵とのケンカで傷害罪に問われ、一年服役したあと、関西に行ってしまった。羽振りがよいときもあったらしく、シゲに着物の生地と仕立代つき商品券を贈ったりしていた。その一方で、警察に追われることもしばしばで、刑事が聞き込みきたことがあった。だが、清一がこっちに姿を見せることはまったくなかった。孝二は、清一が幾度刑務所に入ったか知らなかったが、シゲは知っているらしかった。

 シゲは清一から電話があって、こっちに舞い戻ることは二度とないと言っていたと、孝二に話した。

「あの子はわたしを、きっと今でも憎んでいるのだよ」と涙を流した。

「戦後の食料難のときに、お前が生まれてね。その頃、近くに父さんの兄さんが住んでいたんだ。子供がいなかった。寂しいから清一を二、三か月預からせて欲しいと言ってきたんだ。何かの義理があったらしく、父さんは、兄さんの要求に逆らえずに、承諾してしまったのさ。しばらく口減らしになるといってね。お互いの家は大人の足で、十五分ほどのところで、近かったしね。清一は、小学校に入学したばかりで、義兄の家からでも学校に通えたんだ。でも、大人にはたった十五分でも、清一には遠かったんだよ。清一はお前が生まれたお陰で、自分が見捨てられたと思ったんだ。義兄も清一を可愛がり、機嫌をとって自分の家の貰い子にしてしまおうと、企んでいたらしいよ。わたしはそんなこと、したくなかったのに、口減らしといわれれば、父さんに逆らえなかった。四、五日の間だけだと清一を騙して預けたのさ。ところが六日目の夜中、家の外で清一の泣く声がしたんだよ。義兄の家を抜け出し、夜道を歩いて、帰ってきたんだ。父さんは驚いて、その場でもう向こうの家に居る必要はないって、清一に言ったのさ。すると、清一は泣きながら、わたしに向かってきて『お母ちゃんのバカヤロー』と平手で胸を打ったのさ」シゲは、そこで少しの間、嗚咽した。「みんなわたしが仕組んだことだと、思いこんでしまったのよ。清一はそれがくやしくて、わたしの目の前で身を揉んで、しまいに自分の手の甲に噛みついて血を流すほどだったのさ……」


 孝二は、その話を聞くのは初めてだった。そこに兄貴が、自分を憎んでいた事情があるような気がした。弟がいるから自分が家を出されてと思い込んでしまったのだ。たしかに清一は子供の頃から癇癪持ちで、短気。すぐカッとなる性質である。それに清一手の甲を噛んでしまう行為は、孝二も小学生の頃、一度見た記憶がある。それは父親が死んだときのことだ。

 父親の清三は、隣町の魚市場に勤めていた。朝は暗いうちに家を出、帰って来るのが午後四時ごろだった。その勤めが終わると、こんどはK駅前の広場の隅に屋台を出し、焼き鳥を売っていた。この家を建てたのはその頃だった。中学生だった兄の清一は、学校から帰って来ると、父親の屋台を自分から手伝っていた。ある夜、父親が顔を腫らし、口と鼻から血を流して帰ってきた。

 清一は泣きそうな顔をして、父親に肩を貸していた。シマを取り仕切る組が、場所代の増額を要求し、それを断って乱暴されたのだった。その夜、殴られたところ冷やし、横になっていた父親が、頭痛を訴えて意識を失った。救急車で病院に運んだが、翌朝に死んだ。脳内出血だった。

 臨終を看取った枕元で、清一が叫んだ。「畜生、奴らが親父を殴り倒し、頭を蹴ったからだ。警官を呼んできたのに、ただの喧嘩だと言って奴らを帰してしまったんだ。喧嘩じゃない、脅しだったんだ。畜生、お巡りまで奴らとグルなんだ」そういって、その時、憤激のあまり手の甲を噛んで血を流したのだった。

 葬式の済んだ後も、清一はしばらく警察と病院に、父親の死の事件性を訴えていたが、因果関係が認めてもらえず、無視されていた。それでも清一は、こんどは組事務所に掛け合ったりしていた。が、そのうちに何を考えたのか、組の下で働くようになってしまったのだ。

 いま考えれば、多感な時期に一筋縄ではいかない社会の裏部分を見たのかも知れない。正義感の反動でヤケになり、その世界に飛び込んで行ったのであろう。いかにも短気な清一らしい身の処し方である。

「兄貴はいま、どうしているんだ?」

「わからないね。出所したけど金がない。貸してくれって電話をよこしたから、二度と悪いことをしないという約束でさ、真面目な商売の元手にしなさいといって、最初一千万円を神戸の銀行に振り込んで送ってやった。それから半年して運転資金がいるというので、五百万円あげたよ」

「そんなにかい? それ、いつの話だよ」

「去年。いや、一昨年になるかねえ。三か月に一度、神戸からクッキーと紅茶を送って来るのが無事な知らせなんだよ」

「ちぇ、兄貴ばかりに贔屓にしてよ。おれには何もしてくれねえで」

「だって、お前は自分で真面目に稼げるじゃないか。清一は、あんな経歴でひと様に使ってもらえないから、ヤクザな仕事をして警察に追われてしまうのさ」

「真面目に稼いだら金をくれねえで、前科者になった奴には、やるのか」

 孝二は文句を言った。

「だって、清一の歳も、もう五十八だろう。食っていくだけで大変だよ」

 それには孝二も納得しないわけにはいかなかった。

「そうだな。老いぼれてしまっては、極道なんかやっていけないだろうからな」

 清一がその世界で生計が立て難いのがなんとなく推測できた。


 桜が咲くころになったが、孝二の懐は相変わらず冷えきっていた。毎月四万円を返済するのが大変だった。背の高い電柱のような男は、月末には必ず彼の傍に立った。「いつまでもこんな面倒なことをしていられないぜ。そのうちに一度に全額返済してもらう。そのための猶予期間を与えているんだ。わかっているな」と、男が言った。

 孝二はだまって、うなづいた。給料をもらっても、風俗街に通うこともできず、居酒屋で軽く呑むだけだった。

 バーなどには寄り付けない。忍耐を強いられていた。仕事はビル清掃業務の新規開拓で、従来の業者に不満のあるオーナーに鞍替を勧めるのである。どこも低価格で請け負っているので、滅多に鞍替えはしてくれない。成果に応じて、昇給するという会社との約束があるのだが、実現していない。当面それは無理であろう。以前は、彼の財布は一万札が出入りしていたが、今は千円札にすぐ換ってしまう。財布の中身が恒常的に軽い状態がつづくと、気が小さくなり、他人への応対に自信がなくなってくる。鞄をさげ、駅を乗り降りしたり、改札を抜けるとき、突き飛ばされそうになったりする。歩道を歩いているのに、後ろからきた自転車に当てられたりすることが多くなっていた。孝二は、ジリ貧に陥っている自分に焦りを持ちはじめていた。

 ある日、シゲが言った。

「胃腸科の先生が、お前を連れて来いってさ。お腹がちょっと変なんで、病院に行ったら検査されちゃったんだよ」

 不吉な予感がしたが、当たっていた。医師はシゲの大腸に腫瘍がある。腸閉塞をおこしかけているので摘出手術をする。もしほかに転移があれば、余命一年くらいだろうと告げた。病院は駅よりの線路沿いにあった。孝二はすぐ母親を入院させた。兄の清一に知らせようと思った。だが、シゲは連絡場所を知らないという。

 シゲは自分の行く末について観念したらしく、彼に手提金庫の在処を教えた。タンスのなかの普通貯金と別に、定期貯金通帳がしまってある。必要なお金は、そこから出したら良いという。

 孝二は家に帰り、母親の教えてくれた押し入れの奥を探した。手前には、清一の送りつけてきたクッキーと紅茶セットの箱が包装紙のまま三、四箱並べてある。大切にし過ぎて食べ損なっているのだ。

 それを退けると、手提金庫があった。なかに定期預金の通帳とカードがあった。だが、この家の土地建物の権利書がなかった。シゲは掛け捨てのガン保険にも入っていた。医療費は心配ない。定期預金の方は、普通から毎月三万円を定期預金通帳に振替えるものがひとつ。もう一つは、清一に送金した形跡の残る古通帳である。印鑑は共通のものであった。

 現金の残高が合わせて三百万円を越えていた。土地は叩き売れば一千五百万円ぐらいはなるだろう。孝二は素早く計算した。シゲが死んでしまったら、遺産相続で兄貴と折半になる。その場合、預金は母親が生きているうちに解約して現金でもつとして、土地建物の処分は死んでからでは面倒だ。清一にも権利があるから同意書が必要になる。

 それより、シゲの存命中に、なんとか権利書の隠し場所をつきとめ、シゲの代理人として土地を売ってしまった方がよい。孝二は清一に昔、冷たくされたことを思い出していた。兄貴には一円でもやりたくない。

 そう決めると、彼はトンネルを抜けたような、ほっとした気持ちになった。

 シゲは手術後も、しばらく入院生活が必要だった。癌はほかに転移しているが、進行速度は遅いという。本人のまだ意識はしっかりしていて、分別がついているように見えた。

 そのため孝二は、家の売却手続きの話を持ち出せなかった。うんと言わないのは、わかっていた。

 ところが、看護婦の話ではシゲは環境が変わったため、すでに認知症を発症しはじめているという。いま、あなたがしているように、家族がたびたび見舞にきたほうが、脳の劣化の進行を遅らせる可能性があるのですよ、と説明した。

 彼は、帰りの道すがら、看護婦の説明を頭の中で噛みしめていた。それなら見舞いの回数を減らしてみるか。

 その結果、孝二は会社の帰りに足しげく母親を見舞っていたのを、少しの間だけ止めることにした。


 孝二は病院の母親を見舞うかわりに、繁華街の裏通りのバーに寄るようになった。マダムと日替りに二人のホステスがいる店で、若い方には相手にされなかったが、自称三十五歳の新妻佳寿子という女と親しくなった。水、金の週二回働きにきていた。丸顔に偏平な顔で、夜目にも美形とは思えない女だ。だが、気が良くて、何年たっても新妻かい? などという、彼のつまらないジョークにも気安く乗ってくれた。母親が入院して独り暮らしになったというと、興味をもって身の上話に耳を傾ける。病弱な母親を兄が見捨ててしまったため、彼が犠牲になって結婚もしないでいることにした。

 まもなく彼は、佳寿子が店を終わるのを待って、家まで誘った。すぐ近くだというと、ついてきた。彼女は大宮から通ってきていた。彼女にしてみれば、仕事を終えて帰宅すると、日付が変わっているほど遠い距離だ。

「ほんとうに一人暮らしなのね。お風呂もあるじゃない」佳寿子は驚きと安心した声で言った。その夜、同じ布団に寝て、朝ふたり一緒に家を出た。以来、彼は週に一度バーに顔をだし、そのたびに、彼女は泊まっていくようになった。

 二人の間で、将来のことを話すことはなかった。トランプゲームで、お互いに手札を伏せ、相手の出方を見合っているような、そんな関係が続いていた。しばらく付き合って、相手がジョーカーを隠していないか、確かめる必要があった。

 シゲから預かった通帳の残高は、少しずつ減っていったが、残りはまだまだある。営業で外回り中、駅のホームで、電車に乗ろうとしたとき、誰かが焦って彼の背中を押した。その時は怒りに襲われた。「押すなよ」彼は、後ろの奴に怒鳴った。

 しばらく週に一度くらいの期間でシゲを見舞っていたが、目立って分別がなくなる状況にはなっていなかった。彼に渡した通帳を点検し、電気やガスの引落し、入院費以外の出費がないか調べる。彼は銀行に、入院費がかかるからと、説明し、母親の古い通帳の方の定期預金を解約してもらっていた。が、母親はそこまでは見なかった。徐々に、神経が行き届かなくなっていた。それからシゲは、清一の送ってきてくれているクッキーが食べたいと言う。孝二は、家の押し入れに三つも溜っていた箱の一つを、シゲに届けた。


             ☆

 そんなある日、あの集金人がいつの間にか、電柱のように脇に立ったのに気付いた。孝二の腕をむんずと掴んだ。

「ちょっと、事務所まできてくれないか」という。

 返済日にはまだ、十日も余裕がある。連中はシゲの死んだ後、家を売ってローンの全額返済をしろ、とでもいうのだろう。孝二は、そう思った。時折、監視されている気配は感じていた。母親が不治の病に倒れたことなど、もう知っているに違いない。

 雑居ビルの、しんと静まりかえった階段を四階まで上った事務所に、前と同じ肥った男が、咽喉をぜいぜい言わせながら待っていた。机の前に折たたみ椅子が、置いてある。電柱のような男は、顎でそれに座るように指示し、自分はその脇に立った。

 肥った男はポケットからハンカチをだして、しきりに鼻を拭いた。

 孝二は先手を打って言った。

「お袋は、まだ死ぬと決まったわけじゃない。近いうちに全額返済はできない」

「お袋さんの家を処分するのか。あんたも、いろいろ考えているようだな。おれは、死んでもいない身内の財産を当てにするようなことは、勧めない」

 男は横を向きハンカチで鼻をかんだ。目はやや充血していたが、瞳は澄んでいた。

「では、なんの用事だ」

「あんたの兄貴のことだ。清一から連絡が入ったらすぐ連絡して欲しいのだ。連絡がなくても、居所がわかったら教えろ。そのうち警察も来る。もう刑事は訪ねて来ているか?」

「いや、刑事などには会っていない。兄貴がなにかしたか?」

 男は引き出しから新聞を出し、記事を孝二に読ませた。

『山形県最上郡真室川町の山形刑務所最上農場から服役中の立野清一が脱走したと、新庄署に届けがあった。調べによると、入浴を終えた後の点呼で立野がいないことが分かった。立野は、平成十二年十月、大阪市の宝石商から現金一億円と宝石五億円分強奪事件の共犯の一人として、強盗、監禁容疑で逮捕され、懲役三年の判決を受けていた』――とある。

「兄が強盗の共犯でつかまっていたなんて知らなかった。おれは関係ない」と孝二。

「主犯は、馬崎源三という男だが、服役中に心筋梗塞で急死した。強奪した一億円の現金を馬崎は何処かに隠してしまったのだ。共犯の立野は、馬崎からその隠し場所を聞き出しているらしい」

「ということは兄貴は、いま金持ちだってことか」

 孝二が驚いて言った。

「ああ、奴は一億円を手に入れただろう。もっとも、あの仕事をするために馬崎に工作資金を貸していた。こっちも幾らか貸した。その一部は返してもらったが、まだ足りない。それであんたの兄貴を探している」

 それで思い当たった。

「それじゃ、おれのローン買い取ったのは、兄貴を探して見張るためだったのか」

「そういうこともある。だからと言って、あんたの借金がなくなるわけではない。真相が判ったからといって、あんたが助かるということでもないのだ」

 そう言って、肥った男は小さくクシャミをした。

           

 孝二は、男たちに清一が現れたら、連絡する約束をさせられて、事務所を出た。その足で母親を見舞った。

 古びた病院の建物は、床の一部が剥げていて、廊下に彼の足音だけが冷え冷えとして響いた。ちょうど医師が居たので、ナースステーションの脇で母親の病状をきいた。

「手術後、順調です。ただ環境の変化で認知症が進行しているようです。癌の再発があるとしても、一年以内は大丈夫でしょう」と医師は言った。

「一年は生きていられる?」

「ええ。そうです」医師は、自信をもって言った。

 四人部屋の仕切りカーテンのなかでシゲに会った。孝二の顔を見て、いかにも嬉しそうな顔をした。彼はそんなに満面に笑みをたたえたシゲの表情を見た記憶がなかった。

「やっと来てくれたね。商売が忙しかったのかい。清一……」

「おれは孝二だよ。兄貴がやってくるって、誰かが教えにきたのか?」

 シゲのこれまで見せたことのない笑みが、彼を不安させた。

「孝二は、顔を見せやしないさ。クッキーもわたしのところに届けないし……」

 しばらく会話をしてみると、清一についての話はシゲの幻想であった。いまのシゲの頭には兄だけが存在し、自分の存在が頭にないことが判った。

 彼は、腹立たしさを隠し、シゲの幻想に同調することで、母親と兄の清一との関係の腹の内を覗くことになった。

「今度の病気は、よっぽど、ひどいものなんだね。こんなに力が抜けるなんて初めてだよ。きっと死病だよ。眠ると冷たい穴のなかに連れて行かれる夢を見るんだ。幾度も見るのさ。眠るのが怖いくらいだ。罰だね。罰が下ったんだ。いくら、うちの人がそうしろと言ったって、お前を、他人の家に渡すなんてこと、しちゃあいけなかった」

「そんなこと今更、いいじゃないか。すぐ引き取ったんだろう。実際は、そんなことは、しなかったんだし、本人も忘れているよ」

「うん、クッキーも送ってくれたね。もう、わたしを怒っていないんだよね。でも、罰が当たるのは仕方がない。お前の気持ちを踏みにじったんだから。折角のお前のクッキーも、なくなってしまった」

「クッキーなら、家にまだある。こんど持ってきてやる。ところで、家の権利書はどこにあるんだ」

「お前に、いわれた通りしてあるよ」

 かつて清一が、母親に隠し場所を指示していたらしい。

「そうか。あの時おれは、どうしろって、言ったんだっけな」

 孝二は、とぼけて訊いた。

「クッキーの箱に入れろって言ったじゃないか。押入れの天袋だよ。取出し難いように、重ねたアルバムの一番下だから、孝二だって知りやしない」

「そうだったな。クッキーのスチール箱なら水に濡れないし、燃えることもない」

 孝二は、相手をしながら、奇妙な苛立ちに襲われていた。母親と兄が、揃って自分をないがしろにしていた。自分だけ家族でないみたいだった。母親と兄との出来事に、自分に何か責任があるかのようではないか。ただ、自分は後から押し出されてきただけなのに……。胸につかえるものが湧き上がったが、なんとか抑えた。


 家に帰ってみると、ドアの新聞受けのなかに、宅急便の不在通知が入っているのに気がついた。

 玄関から家に上がって、明かりのスイッチ入れる。すると、すぐに外から呼ぶ声がした。 二人の男が、玄関に入ってきた。両足を開き気味にして鋳物の銅像が二体、立ったように見える。ひとりが二つ折りのカードケースを開き、警察手帳を示した。彼の帰宅を見張っていたらしい。

「清一さんの実家ですね。お母さんのシゲさんにお会いしたいのですが……。あなたはどなたですか?」

「シゲの次男です。母は入院中です」

 孝二の言葉が終わらぬうちに、刑事は頷いていた。みんな知っているのだ。

「何の用事で?」

「清一さんが、こちらに来たことはないか。あるいは、所在を御存じないか、うかがいたいのですが。あなたは、去年からここに住むようになったとか……」

「そうですが、兄の行方は知りません」

「いま、手にされているそれは何ですか?」

 刑事が孝二のもっている配達通知を指差した。配達人がやってきて不在票を入れるのを見ていたのかも知れない。

「不在だった荷物の届いた通知です。届け物を再配達して貰うのに、電話をしようと思っていたんです」

「ほう、それじゃ、いま電話されたらどうですか」刑事が催促した。「それともいやですか」と訊いた。

 外で踏切の警報機が鳴り始めた。

 孝二は、しばらく伝票をみつめた。やがて、これは品物はクッキーと紅茶だろうと、思い当たった。刑事たちが、確かめたくなるのは、当然かも知れない。

「いいですよ。べつに、構いませんよ」孝二が答えて、台所にある電話機のところに行った。外では轟音とともに電車が走り抜けた。

 伝票にある番号にかけ、配達希望時刻を番号で押した。

 振り返ると、二人の刑事は玄関に立ってそれを見ていた。

「夕方、七時までに持って来るようにしました。それが一番早い配達時間なので」

「では、それまでここで待たせてもらいましょう」二人の刑事は、上がり口のところに並んで腰を下した。

「兄は、母にお菓子を定期的に送ってきていますが、送り場所には居ませんよ。母が手術するまえに、兄の居場所を送り先の神戸M銘菓店に問い合わせたんですが、五年分を前払いしてあり、店は時期がくるとセットの内容を変えて贈るように依頼されていたんです。ですから、店ではもう兄とは接触がなかったんです」

 孝二は説明した。刑事たちは顔を見合わせて頷くだけで、何も言わなかった。

 電車が八回ほど轟音を響かせた後、品物が配達されてきた。品物はやはりM銘菓店のクッキーと紅茶だった。刑事たちは、メモなどが入っていないか、調べることを要求し、そうした。しかし、それらはないと判った。その送り状をもって、彼らは引き上げていった。

 刑事たちが調べても、孝二の説明に嘘がないとわかって、清一の行方の捜査は行き詰まるであろう。

 ということは、兄は大金を手にし、腐敗したこの社会の逆手をとって、見返したことになる。孝二は、好きでもない兄であったが、自分も加担したような気になって、少しばかり気分をよくしていた。本当は、もっと若さのあるうちに、なし遂げたかったのだろうが、人生そう甘いものではない。

 それよりも都合がよいことには、自分がこの家を売ったとしても、兄はその分け前を要求しないだろうということだ。億の金を手にしてみれば、ここの分け前なんか、問題ではないはずだ。

 すべてがうまく回転しはじめた。何事もうまくいくとなれば、そんなものだ。幸二は胸のつかえが取れ、気分が良くなったのを感じた。


 夜の闇があたりを覆い尽くし、繁華街に光があふれると、彼はいつものバーに入った。佳寿子を相手に機嫌よく飲んだ。店が看板になると、孝二は彼女を家に泊まらせた。

 孝二の運が上向いたことを、佳寿子は敏感に察知した。彼女は、以前の夫が仕事に就かず暴力を振るうので別れた。だが、自力で生活するのが大変だと打ち明けた。家賃を都合するのに、時折サラ金を利用するが、毎月返済していまは借りがないとも言った。

 一方、孝二は兄が刑務所を脱獄中で、自分には借金がある。しかし、返済の目処はついていると話した。

「入院中のお母さんは、もう永くないんでしょう」

「うん。医者はそう言っている。認知症が進んでいるし、この家はいつでも処分できる」

 孝二は、佳寿子が自分を重要な人物として見ていることを実感した。

 手持ち札を曝しあって、お互いにジョーカーはないと判断しあったわけだ。早い時期に佳寿子が、この家に引っ越してくることになった。


 シゲは手術後、小康を得た。すると、食欲が出て、紅茶とクッキーの嗜好が強まった。看護婦の話では、毎日欲しがるという。押し入れに置いてあった分が、みるみるなくなった。孝二はこの間、着いたばかりのクッキーを病院に持って行った。シゲは相変わらず長男の清一がやってきたと思っている。

 帰り際に、医師が彼を呼んだ。

「お母さんは、思ったより病状が安定しています。しばらくは、自宅療養でいいですね。身の回りのことは、すべて自分で出来るまでに回復しています」

「治ったんですか」

「いや、癌の進行が遅くなっているだけです。いずれは再入院になりますけど。家にはあなただけですか。ほかに家族は?」

 孝二の胸に佳寿子のことが浮かんだ。

「いや、寝たきりでないなら、介護人のあてになる人は居ます」

「それは結構。この次の日曜日には退院するように手続きをしておきます」

 病院側は、強引に退院させたいらしい。

 その晩、孝二は佳寿子に会いにバーに行った。すると、彼女は連絡なしに休んでいて、勤めに来ていなかった。三十分ほど時間をつぶして店を出た。表通りに出た時、暗がりから人が現れ、腕を掴んだ。

 電柱のように背の高い集金人だった。

「金まわりが良さそうだな。だが、勝手に使い切るなよ。近いうちに全額返済の計画を示せ。三か月以内に残金全部返済だ。これは、待ったなしだぞ」

「なんとか、考えて置くよ」

 まだ夜風の冷たいのを感じながら、彼は家に戻った。

 翌朝、新聞の小さな記事を見て、孝二は佳寿子が勤めを休んだ訳を知った。彼女は死んでいた。復縁を迫った男に、断った彼女が殺されたとあった。相性が良かっただけに、かなり動揺した。彼女のことを忘れようと努めた。ショックは、間もなく薄れたものの、後々まで失くしたものが戻ってこないような気分が残った。

 とりあえず、日曜日には母親を退院させた。すると、不思議なことに、シゲの頭がしっかいしてきた。

 住み慣れた家のなかを動き回ることで、生活感覚が元に戻り、記憶能力が快復してきていたのだ。孝二と清一を混同することがなくなった。

 ただ、自分が息子の兄と弟をとり違えていたことは、記憶していなかった。孝二は母親を家に残して、会社に出勤できた。

 退院して三日目にシゲが言った。

「孝二、クッキーと紅茶がもうじきなくなるよ。清一は、まだ次を送ってこないのかね」

  彼はあわてて母親に気づかれないようにスチール箱をもとの押し入れの奥に戻した。家の権利書は、抜き取ってしまい、代わりに新聞紙を折って入れておいた。母親はタンスに入れていた普通貯金通帳は、日常に使っていたが、まだ定期預金の点検はしようとしていなかった。

      

 それからしばらくして、孝二はまた背の高い集金人に引っ張られて、雑居ビルに行った。肥った男に残金すべての返済を迫られた。彼は家の権利書を入手していることを話し、来年中にはそれを売ってでも、返済すると約束して見せた。

 シゲは退院してしばらくは気持ちに張りがでて元気だったが、病気は進行しており、徐々に体力が落ちてきた。孝二は病院に再入院の相談をし、役所に介護人の派遣を申し込んだ。ベッド、台所、浴室の壁に手摺りをつけた。シゲの身の上にだけ、時間の流れが早いのではないかと思えるほど衰えていく。借金返済の期日と母親の寿命。順調に時間が経過していくように思えた。

 そんなある日、孝二は外で軽く飲んでから夕食を済ませた。

 ところが、家に戻ると台所でシゲが倒れていた。

 額から血を流していた。抱き起そうとしたが、すでに息がないのがわかった。どうやら、台所にきて躓き、流し台の角に頭を打ちつけたのが、致命傷のようだ。脇に宅急便の箱が転がっている。

 孝二は、すぐ救急車を呼んだ。それから、転がっている宅急便を調べようとした。ダンボール箱で、しかもひどく重い。いつのも紅茶とクッキーのセットではない。

 シゲは結び紐を刃物で切ろうと、重い箱をかかえて台所にきたらしい。それで、転倒したのだ。母親の死がこんな形で早まるとは予想外だったが、いずれ来るべき事態が来たのだった。箱の結び紐を切り、ガムテープを切り裂いたところで、救急車が到着した。

 救急隊員は、シゲがすでに絶命しているのは明らかで、病院へ搬送はできない、と彼に告げた。そして警察に連絡した。

 警察官たちがやってきた。検死官がシゲの死因を長い時間をかけて調べた。その間に幾度も刑事たちのところに行き、声を潜めて報告を繰り返した。

 やがて、刑事の一人が孝二の胸ぐらをつかんで、壁に押しつけた。

「これは事件だ。あんたが、殴り倒して、殺したな」

「何をいう。ちがう。・・・どういうことだ。これは事故だ。おそらく、だれも居ないところで、転んで倒れたのだろう。その拍子に、頭をぶっつけたんだ」

「そうかな。金が欲しかったんだろう。この中味に気づいたな。みろ、これだろう」

 孝二が途中まで開きかけていた宅急便の箱が刑事たちによって、全部開けられていた。中に札束が見えた。

「金と一緒に、あんたの兄貴がお袋さんに宛てた手紙が入っていた」

 刑事は、手紙を孝二に読ませた。それには、借りた二千万円を返す。子供のころの仕打ちは水に流す。自分はもう、日本にはいないだろう、という内容であった。

「借金が返せないで、困っていたな。情報が入っている。それに、お袋さんの金を使い込んでいた。そこへちょうど、この金が送られてきた。動機は充分だ」

「何だって? 変ないいがかりはよせ。どうかしてるぜ」

「母親が死んだというのに、ずいぶん落ち着いているじゃないか。だが、きっちり調べりゃいずれはわかるんだ。何でも、自分の都合のよいように運ぶと思っていやがる」

 踏切の警報機の鳴る音が、聞こえてきた。

 孝二の脳裏で、幼いころからのこれまでの出来事が、走馬灯のようによぎった。なぜ、おれだけが、こんなことになるのだ。――すべては、兄貴と母親のせいだ。

「おれは、やっていない。都合がいいことなんか、これっぽっちも、あるもんか。それは、手前らに聞かせる台詞だ」

 突然、激しい怒りの衝動に襲われた。

 孝二は、刑事を突き飛ばした。それから突然、母親の死体に駈け寄った。「ちくしょう。ちくしょう」と叫んで、死体を蹴とばした。たけり狂ったように荒々しく二度、蹴った。

 あわてた刑事が、孝二を羽交い絞めにした。がっちりとした鋼鉄のような腕が、孝二を背後から締め付け、身動きできないようにした。

「見たか。こいつには、殺意があったんだ」刑事の一人が同僚に言った。

 そのとき、電車が轟音を響かせて通過した。

「罠だ。何かの罠だ……」

 孝二は叫んだが、誰にも聞こえなかったようだ。

      (おわり)


孝二は警察に逮捕されて、無実を主張した場合、どんな展開が予想されますか。実際にあった冤罪事件を例に考えてみてはいかがでしょうか。

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