第五話 文学者というものの定義
人間であった頃のことを、町へ向かう道すがら、吾輩は柄にもなく長々と思い出していた。
柄にもなく、というのは少々不正確かもしれぬ。もともと吾輩は、思い出すことにかけてはかなり執念深い方である。過去というものは、現在がうまくいかぬほど、妙に輪郭を帯びて蘇る。しかも現在の吾輩は、布切れをつぎはぎした外套を被り、拾い物を詰めた袋を背負って、夜の森をこそこそ歩くゴブリンである。ここまで来ると、思い出の方が現実より上等に見えてくるのも無理はない。
生前、吾輩は一応、文学者であった。
一応、と但し書きをつけるのは、文学者というものの定義が存外あやふやだからである。紙に字を書けば文学者か。人間を観察し、それをもっともらしい文章に仕立てれば文学者か。あるいは、己の神経の厄介さや世間への違和を抱え込み、それをどうにか言葉へ変える不器用な人種を、ひとまとめにそう呼ぶのか。いずれにせよ、吾輩はその類いの生き物であった。机に向かい、世の滑稽を考え、人の心のねじれをつつき、時に自分のことまで文章の中へ引きずり込んでいた。
だが、あの頃の吾輩にしても、やり残したことがないではなかった。
書きたいと思いながら書き切れぬものはあったし、描こうとしながら最後まで描ききれぬ人間もいた。人間というものを知っているつもりで、案外、表面の気取りや不機嫌にばかり目を奪われ、その根のところにある弱さや可笑しみを、まだ十分には掴めていなかった気もする。生前の吾輩は、人間を観察していたつもりで、同時に人間である自分の位置からしか見ていなかったのだろう。これは当然といえば当然である。魚に水の説明が難しいように、人間に人間を説明するのは案外骨が折れる。
ところが、いまや吾輩は人間ではない。
この事実は、改めて言葉にしてもなかなか妙である。足元の湿った土を踏みしめ、森の匂いを鼻先で拾いながら、吾輩はときおり、自分が本当にかつて人であったのか怪しく思う時がある。だが、人間の頃に読んだ本の断片や、原稿用紙の白さ、冬の書斎の空気、胃のあたりにくる神経質な重さ、そういうものの記憶はたしかに残っている。つまり吾輩は、人間だった記憶を抱えたまま、ゴブリンとして歩いているのである。この二重帳簿のような有様が、ことによると吾輩にいちばん奇妙な視点を与えているのかもしれぬ。
元来、人間とは何だったのか。
こんな問いを、森の夜道で考える羽目になるとは思わなかった。生前なら、もっと暖かい部屋で茶でも飲みながら、あるいは少し気取った調子で論じたかもしれぬ。だが今の吾輩にとって、これは観念遊戯ではなく、かなり実務的な問題である。人間とは何かがわからねば、人間社会へ紛れ込むことも、人間の目を欺くことも、人間の警戒を避けることも難しい。敵を知り己を知れば百戦危うからず、というが、吾輩の場合、敵の中にかつての自分が含まれているから、いささか事情がややこしい。
人間とは、要するに、見慣れぬものを恐れる生き物である。
これはいまのところ、もっとも確かな結論の一つである。しかも厄介なのは、恐れながら好奇心も持つ点だ。知らぬものに眉をひそめつつ、じろじろ見、分類し、名をつけ、柵を設け、それから安心する。名づけることによって落ち着くのである。だから吾輩が森で槍を向けられた時も、あの連中はただ驚いたのではなく、「ゴブリンだ」と言うことで己の恐怖を整理していたのだろう。人間は未知を嫌うが、同時に未知へ札を貼ることに熱心である。
もっとも、その性質は文学者にもある。人間を観察し、何かしらの型に当てはめ、「この人物はこういう性質だ」と記述したがる癖は、吾輩にも大いにあった。つまり人間とは、他人を理解したいのではなく、むしろ把握したいのである。理解には時間がかかるが、把握は札一枚で済む。善人、悪人、学者、役人、田舎者、都会人、貴族、俗物――そういう札を貼って安心する。考えてみれば、ゴブリンという札もその一つにすぎぬのかもしれぬ。吾輩は今、その札の内側から人間を見返しているわけで、これは文学上、なかなか贅沢な立場だが、日常生活上はかなり不便である。
道は、森の縁をゆるやかに下りながら、次第にひらけた土地へ出ようとしていた。枝の隙間から、遠くにぽつぽつと灯が見える。あれが目当ての村であろう。村と言っても、吾輩の生前に見慣れた都市の一角ほどの大きさもない。だが暗い夜の中に人の灯があるというのは、それだけで一つの文明である。屋根があり、竈があり、家畜がいて、誰かが明日の朝のために火を絶やさぬようにしている。その当たり前の営みが、外から見ると妙に輝いて見えるのだから、文明というものは不思議だ。
そうこうしているうちに、村がはっきり見えた。
木柵のようなものはあるが、世間一般論で言うところの「町」と呼ぶほどではなく、やはり集落と村の中間といった風情である。家々は低く、屋根は藁か薄い板で葺いてあり、ところどころに囲いが見える。畑と牧草地らしき地面が広がり、白っぽいものが群れているのは羊であろう。夜に近い夕暮れの色がまだ少し残っているため、景色の輪郭は思いのほかよく見えた。
吾輩は茂みの陰に身を沈め、背負ってきた小道具を今一度整理した。
まず外套。これは相変わらずぼろい。しかし、ぼろいこと自体は欠点ではない。旅商人も流れ者も、たいてい多少はくたびれている。むしろ立派すぎる衣服の方が、この辺りでは場違いかもしれぬ。問題は、耳の先と手の色をどこまで隠せるかである。頭巾の部分を深くかぶり直し、首元の布を引き寄せる。手は袋の紐や荷の陰に紛れさせれば多少ましだろう。足元はどうにもならぬが、暗がりに期待するほかない。
次に荷。拾った色石、乾いた薬草、形の面白い木の実、用途不明の金具。商いの品と呼ぶには心もとないが、「何かしら売り歩いている者」の雰囲気は出せる。人間は荷を背負った者を見ると、とりあえず旅人か商人のどちらかに分類しがちである。これを利用せぬ手はない。もっとも、荷の中身を詳しく検められれば、だいぶ苦しくなる。色石を売るにしても、説明できぬのでは商いにならぬ。しかし今の段階では、売ることより怪しまれぬことの方が先だ。
最後に、顔つきと姿勢。これが意外に大切である。人間は服だけで相手を判断するのではない。立ち方、首の向け方、目の泳ぎ方、そういう細部で「怪しい」と感じる。吾輩は一度深呼吸――いや、正確には鼻先で空気を大きく吸って――背筋を少し伸ばしてみた。すると外套の下で背丈の低さが妙に目立つ。困った。堂々とすると小さいのが強調され、縮こまるとますます怪しい。人間の姿を装うというのは、つくづく難儀である。結局、吾輩は「病み上がりで喉を悪くした旅商人」という設定に合わせ、少し弱々しく、しかし慌てぬような歩き方を心がけることにした。嘘というものは、細部の不自然さでばれる。ならば最初から弱さを演出した方が都合がよい。
人間時代にも、似たようなことはあった。文壇だの社交だのという場所では、皆それぞれ何かしらの役を演じていた。泰然自若たる識者、世慣れた風流人、無欲な学者、快活な青年、冷笑的な批評家。中身はともかく、役柄を先に着るのである。考えてみれば、吾輩がいまやっているのも、その極端な形にすぎぬ。違うのは、演技が破れた時に待っているものが、気まずい沈黙ではなく、場合によっては石か槍である点だ。
さて、では誰に近づくべきか。
村の入口近くには、樽を運んでいる男がいた。逞しい腕をしている。駄目だ。ああいう手合いは、こちらの説明を聞く前に、まず「どこの者だ」と大声を出す。大声は人を集める。人が集まれば、吾輩の偽装は急速に危うくなる。別の場所には、年嵩の女が二人、戸口で何か話している。これも避けたい。女たちの観察眼は鋭いし、二人いる時の人間は一人の時より勇敢である。井戸端というものは、世の秘密と悪評の集積所であって、怪しい旅人にとって優しい場所ではない。
吾輩は茂みの陰から、もっと都合のよい相手を探した。
ふむ、あの少女なんかはどうだろうか。
村外れの囲いのそばに、若い娘が一人いた。歳の頃は十をいくつか過ぎた程度であろう。田舎の少女といえば、そのままこういう具合だろうと思わせるような素朴な姿で、羊に餌をやりながら、脇に置いた桶へ乳を絞っている。手つきに無駄がない。慣れているのである。夕暮れの薄明かりの中で、羊の白と少女の動きが妙に静かで、まるでこの土地や地域の人柄をそのまま標本にして置いたようにも見えた。大仰な比喩に聞こえるかもしれぬが、田舎の暮らしというものは、そういうふうに土地と人間が癒着して見える瞬間がある。
農家の人間というものは、一般に、町場の商人や役人に比べると、よそ者への警戒がいくぶん素朴である。もちろん、素朴であることと油断していることは別だが、少なくとも、最初から制度や規則で相手を量る癖は薄い。彼らはまず相手の腹具合や荷の重さや歩き方を見て、その次に言葉を聞く。言葉の運びや気配りにも、どこか人情味のようなものが残っていることが多い。吾輩の経験に基づけば、こういう土地の人間は、警戒するにしても、それをいきなり攻撃に転じる前に、ひとまず様子を見ることがある。もっとも、それも結局は人によるが。
それから、歳を食った人間よりも、若い娘や少年の方が固定観念が薄い可能性が高い。これも吾輩の偏見と経験から来る判断であって、絶対ではない。老人には老人の柔らかさもあるし、若者には若者の残酷さもある。だが総じて言えば、長く生きた者ほど「こういうものはこうだ」という分類癖が強くなる。若い者は、その分類がまだ固まりきっておらぬ分だけ、見慣れぬものに対して一瞬、純粋な好奇心を示すことがある。その一瞬が、吾輩には欲しい。槍より先に、問いが来る瞬間。その余白さえあれば、何とかなるかもしれぬ。
もっとも、「何とかなる」という言葉ほど曖昧で無責任なものもない。吾輩の計画は、結局のところ、若い娘ならこちらをすぐ化け物扱いせずに済むかもしれぬ、というかなり綱渡りな期待の上に立っている。文学者の思索と聞けば大層に聞こえるが、実際には「たぶんこの方がまだ刺されにくいのではないか」という程度の算段である。人間の知性など、追い詰められると案外このくらいのところへ落ち着く。
とはいえ、彼女を見ているうちに、吾輩はもう一つ別のことに気づいた。
少女は羊に向かって、時おり何か話しかけていた。たぶん相手は意味など半分もわかっていまいが、それでも人間は家畜に話す。相手が理解するかどうかより、自分が声をかけることで日々の手触りを整えているのであろう。この習慣はおもしろい。言葉というものは、情報を伝えるだけでなく、相手との距離を測り、自分の側の気持ちを落ち着かせる働きがあるらしい。だからこそ吾輩は、声を持たぬ不便をこれほど強く感じているのかもしれぬ。話せないというのは、ただ説明ができぬだけでなく、相手とのあいだに柔らかな曖昧さを作れぬということでもある。
もし吾輩が彼女に近づくなら、その最初の一歩はよほど慎重でなくてはならぬ。いきなり正面から出れば、驚かせる。物陰からぬっと現れても駄目だ。化け物の登場としては満点だが、交渉としては零点である。なるべく遠くから姿を見せ、荷を背負った小さな旅人に見えるようにし、動作はゆっくり、手は空であることを示す。声は出せぬから、喉を指して「話せぬ」ことを伝える仕草も考えておいた方がよいだろう。もし相手が逃げずにこちらを見るなら、その時は紙の代わりに地面へ文字を書くこともできるかもしれぬ。もっとも、田舎の少女がどの程度文字を読むかは怪しい。いまさらながら、読み書きが万能でない社会の可能性にも気づいた。文明の尺度というものは、己の習慣だけで測るとすぐ誤る。
この辺りまで考えて、吾輩は小さく頭を振った。考えすぎである。だが考えずに進めば、たいていもっと悪い。生前も、書き出しばかり何度もこね回して肝心の本文へ入れぬことがあった。いまの吾輩は、その悪癖を生死の境を越えて持ち越しているらしい。もっとも、原稿の書き出しであれば締切に追われるだけで済むが、今夜の書き出しを誤れば追ってくるのは村人である。そう思えば、慎重にもなろうというものだ。
ふと、背後の森の方から、かすかな気配がした。振り向けば、少し離れた草陰に、群れの若いゴブリンが一匹、こちらを窺っている。ついて来たらしい。あれは恐らく、吾輩がまた妙な拾い物に出かけるとでも思っているのだろう。あるいは単に好奇心か。いずれにせよ、ここで騒がれては困る。吾輩は小さく手を振って制し、低く喉を鳴らして「下がれ」という合図を送った。幸い、相手はしばらく首を傾げたのち、草むらへ引っ込んだ。どうやら吾輩は、群れの中で「妙だが、何かしら意図を持って動く奴」として認識されつつあるらしい。これはありがたい半面、少しばかり責任が重い。勝手に町で失敗すれば、吾輩個人の問題では済まぬかもしれぬ。
つまり吾輩が人間へ近づくということは、単なる個人的好奇心ではなく、ゴブリン社会の中においても、ひとつの未知の試みなのである。人間とゴブリン、その境界へ最初に指を掛けてみる役回りが、よりによって元文豪の吾輩に回ってきたわけだ。世の役割分担というものは、時として悪趣味である。
しかし、悪趣味だからこそ、妙に面白くもある。
少女はまだ羊のそばにいた。桶の中の白い液体が夕闇の中でぼんやり光って見える。囲いの向こうの家からは、煙が細く立っていた。誰かが夕餉の支度をしているのだろう。人間の暮らしの匂いがする。火と乳と獣と土の匂い。かつて吾輩が当然のようにその内側にいた世界の匂いである。いまやその縁に、布切れをまとった怪しい旅商人のふりをして近づこうとしているのだから、皮肉もここまで来ればひとつの芸である。
よろしい。まずはあの少女だ。
もちろん、成功する保証はない。むしろ失敗する公算の方が高いくらいだろう。だが、最初の相手としては他よりましである。少なくとも、樽を担ぐ男よりは話の余地がありそうだし、戸口の女たちよりは先入観の壁が低いかもしれぬ。吾輩は荷の紐を締め直し、頭巾を深く被り、歩幅と呼吸を整えた。
人間であった頃、吾輩はしばしば、文学とは結局、人と人とのあいだの見えぬ距離を測る業ではないかと考えたことがある。いま、その距離はこれ以上なく具体的だ。羊囲いひとつ分、少女ひとり分、そして槍が飛んでくるかもしれぬ数歩分。抽象も観念もない。まことに即物的な文学である。
吾輩は茂みからそろそろと身を出した。
願わくば、今度の第一声が「ギャ」ではなく、少なくとも「怪しい旅人」程度で済みますように、と胸の内で祈りながら。




