第三話 人間の町へ
衣服の準備は、ひとまず整った。
整った、と言っても、仕立屋が採寸し、上等なラシャ地を裁ち、銀のボタンでもあしらってくれたわけではない。そんな優雅な事情とはおよそ無縁である。吾輩が整えたのは、巣穴の奥から発掘したぼろ布を、革紐と骨の針まがいのもので繋ぎ合わせた、言うなれば「着られなくはないもの」であった。形容に苦しむ代物である。遠目には旅人の外套に見えなくもないが、近くで見れば盗賊の捨て着であり、よく見れば風呂敷の成れの果てである。だが、いまの吾輩に必要なのは美観ではない。いかに人目をごまかすか、その一点に尽きる。
もっとも、この「ごまかす」という発想自体が、よくよく考えればずいぶん奇妙である。もともと人間だった吾輩が、どうすれば危険なく人間社会に紛れ込めるかを真剣に考えているのだから、これはほとんど自分の古巣へ忍び込む盗人の心理に似ている。生前であれば、人間の習性を観察し、その滑稽や虚飾を文章にして喜んでいたものだが、まさか死後には、その人間どもの目をかいくぐって町へ入る算段を立てることになるとは思わなかった。人間というものは、未来に対してたいそう無知である。ことに自分の未来に対しては、ほとんど盲目といってよい。
しかし、奇妙だからといって放置できる問題ではない。現実が奇妙なのは、いまに始まったことではないし、現実の方が理屈に遠慮してくれた例は少ない。吾輩の手は緑色で、耳は尖り、声を出せば「ギ」だの「グ」だのが精いっぱいである。この事実は、いかなる皮肉や達観をもってしても変えようがない。ならば、変えられぬ事実の周囲に、多少なりと生き延びる余地を作るほかない。
さて、ぼろ外套をまとった吾輩が次に考えたのは、この後どう行動するべきか、という一点であった。衣服が整っただけでは、まだ半歩も前へ進んでいないに等しい。たとえば剣を手に入れた者が、それだけで名将になるわけではないのと同じである。吾輩の場合、そもそも剣ではなく布切れなのだから、なおさらだ。
第一に、人間社会へ近づく目的をはっきりさせねばならぬ。漠然と町へ行こう、村を覗こう、では話にならぬ。用事もなくうろつく怪しい旅人というものは、たいてい見つかって咎められる。吾輩のように、咎められた末の弁明手段がほぼ皆無である者にとって、無目的な徘徊は自殺に近い。
では目的は何か。考えるまでもなく、この世界を知ることである。
この世界がどのような国々に分かれ、誰が支配し、何を信じ、どのように魔物を扱い、どの程度まで文字と法が行き渡っているのか。それを知らねば、吾輩は永遠に森の中の無名の一匹として、ただ夜ごとに虫や木の実の品評をして暮らすしかなくなる。もちろん、それもそれで悪くはないのかもしれぬ。実際、ここ数日を振り返ってみると、ゴブリンとしての生活にも、奇妙な安定がある。
朝方は眠り、夕刻から夜にかけて外へ出て、食えるものを探し、危険の匂いを嗅ぎ分け、群れとともに戻る。腹が減れば食い、寒ければ身を寄せ、怪しい気配があれば全員で息を潜める。生活の単位が驚くほど単純なのである。そこには、人間世界にあった煩瑣な見栄や義理、社交上の虚飾や、無意味な約束の応酬があまりない。誰が偉いかは、肩書ではなく牙と体格と勘の良さで決まる。腹が減っていれば食い、危なければ逃げる。実に野蛮で、実に正直である。人間社会のように、微笑しながら相手を値踏みする面倒が少ない。
このままゴブリンとして生きていくのも、案外悪くはないのではないか。
そんな考えがふと胸をよぎる時がある。もちろん、それは主として空腹が満たされ、追手の気配がなく、雨風もしのげる夜に限る。逆に言えば、ひとたび人間の足音が近づき、仲間の一匹が粗末な槍で応戦するでもなく一目散に逃げ出す様子を見ると、やはりこの生き方はひどく危うい、とも思う。つまり吾輩は、ゴブリンとしての生活に多少の居心地を感じ始めながらも、同時にその不安定さを見過ごせないのである。これはなかなか厄介な状態である。心の半分で洞穴の居心地を認めつつ、もう半分では、それではいかぬと考えている。人間の精神というものは、一つの結論に素直に従うには、たいてい余計な部分が多すぎる。
いや、いまは人間の精神と呼ぶべきかどうかも怪しい。何しろ身体は完全にゴブリンである。しかも最近では、歩く時に自然と足音を消す癖がついてきたし、土の湿り具合から獣の通った気配を読むことすら覚えつつある。先日など、仲間の若い一匹が巣へ持ち帰った果実を見て、腐っているからやめておけと言いたくなったのだが、気づいた時には理屈より先に鼻が「それは危ない」と告げていた。身体が先に知ること、というものがあるらしい。吾輩はこれまで、知とは本にあり、言葉にあり、観察にあるものとばかり思っていたが、どうも筋肉や鼻先にもそれなりの知恵は宿るようだ。
だが、そのような知恵をいくら身につけたところで、この世界そのものを知らぬままでは、先へ進めぬ。森の外にどれほどの人里があり、この近辺を治めるのが領主なのか王なのか司祭なのか、ゴブリンの巣が放置される場所と徹底的に焼かれる場所の違いは何か、どの町なら旅人が多く紛れ込みやすいか。そうした情報こそが、いまの吾輩には最も重要なのである。そして、その情報を得るには、結局のところ人間と接触するしかない。
問題は、その接触の仕方である。
まっすぐ出て行って、友好的に手を振る。論外である。吾輩が手を振れば、相手は十中八九、剣を抜く。では草むらから出て、文字を書いて見せる。これも危うい。魔物が文字を解するという事実そのものが、人間にとっては新手の災厄に見えるかもしれぬ。人間は、自分たちだけのものと思っていた性質を他者が持つと、必要以上に狼狽するところがある。知性にせよ、信仰にせよ、道具にせよ、独占こそが彼らの安堵なのである。
となると、最初の接触はできるだけ遠く、間接的で、こちらの正体を曖昧にした形が望ましい。たとえば町の近くまで行き、人の出入りや言葉を観察する。市場の賑わい、門番の態度、夜回りの人数、荷車の運ぶ品、看板の文字。そうしたものをまず集めるべきだ。人間に話しかけるのは、その後でも遅くない。急いで喉を差し出す必要はない。
こういう時、吾輩はつくづく、話せぬというのが不便だと思う。読み書きができるのだから、紙と炭でもあれば、少なくとも意思表示はできる。だが紙も炭も持たぬ現状では、頭の中にどれほど文章が渦巻いていても、外へ出せるのはせいぜい鼻息と唸り声である。文学とは、発表の手段が失われると、ただの内輪の独白にすぎぬらしい。これは少々痛い発見であった。生前、沈黙の中に豊かな思想があるなどともっともらしいことを考えたこともあるが、実際に黙るしかない身体になってみると、思想の多くは他者へ渡らぬ限り、腹の中で渋滞するばかりである。
もっとも、この身体になったからこそ見えるものもある。ゴブリンの群れの中で、吾輩は少しずつ妙な位置を占めつつあった。力で従わせる頭目ではなく、かといって単なる足手まといでもない。仲間の者どもは、吾輩が入口近くで耳を立てると一緒に息を潜め、吾輩が食えぬ草を避けると同じものを口にしなくなり、吾輩が何かの足跡をじっと見ていると、その周囲を不用意に踏み荒らさなくなった。彼らが吾輩を賢いと認識しているのか、ただ妙な癖のある同族として扱っているのかは判然とせぬ。だが少なくとも、まるで何も通じぬわけではない。
先日など、巣の奥に溜め込んである拾得物を見ていたところ、例の年長らしいゴブリンがやってきて、妙に得意そうな顔で錆びた鍋の取っ手を吾輩へ差し出した。いったい何に使えというのか分からぬ。しばらく見つめていると、彼は自分の頭にそれを乗せて見せた。兜のつもりらしい。吾輩は思わず吹き出しそうになったが、彼は大真面目である。なるほど、彼らには彼らの美意識と威厳の概念があるらしい。文明は衣冠束帯の有無によってのみ測れぬ、という当たり前のことを、吾輩は鍋の取っ手一つで教えられた。
この群れの中で生き延びる術を磨くことと、人間社会を探ること。その二つは、本来なら別の課題のようでいて、案外つながっているのかもしれぬ。人間を知るには、まずゴブリンである自分を知らねばならず、ゴブリンとして生きるには、人間がゴブリンをどう見ているかを知らねばならぬ。片方だけでは、どちらも見誤る。吾輩がここでやるべきことは、おそらく、どちらかを選ぶことではなく、両方の境目に立ち続けることなのだろう。人間でもなく、完全なゴブリンでもない。その中途半端な位置こそが、いまの吾輩の持ち場なのかもしれぬ。
だが、哲学めいたことをいくら考えても、実際の行動が伴わねば空腹は解決せぬし、世界地図も頭に入らぬ。そこで吾輩は、具体的な段取りを考え始めた。
まず、町へ向かうとして、昼間は避けるべきである。夜、あるいは夕暮れがよい。暗がりは容貌を曖昧にし、旅人や物乞いの姿も珍しくないだろう。次に、道は正面から辿らぬ方がよい。街道そのものは人の往来が多く、門番も油断なく見ている。森沿いに外周を回り、まずは町の輪郭と出入口の数を把握するべきだ。さらに、いきなり中心部へ踏み込むのではなく、荷車置き場、家畜小屋、外れの畑、共同井戸など、人目はあるが厳重ではない場所から様子を見るのがよい。
そして、可能ならば洗濯物か、あるいは使い古しの布でも追加で手に入れたい。いまの外套は、隠すという一点では役に立つが、少々風通しがよすぎる。夜風は怪物にも平等だと前に考えたが、平等であることと優しいこととは別である。ついでに、紙の切れ端でも見つかれば申し分ない。紙さえあれば、最悪、己の正体を説明する機会が持てる。もっとも、その説明が信じられるかどうかは別問題だが、「ギャ」よりはましである。
こうした算段を頭の中で並べているうちに、吾輩はふと、生前の自分が旅先で宿を探し、土地の風俗を観察し、気の利いた文章の種を拾っていた頃を思い出した。あの頃といまを比べると、違いはあまりに多い。背丈も、顔も、身分も、持ち物も、社会的な待遇も、まるで異なる。だが一つだけ、変わっていないものがある。それは、未知の場所に対して、まず見て、考え、言葉の形にしようとする癖である。結局のところ、吾輩はどこへ行っても観察者なのだろう。書斎でも、旅先でも、洞穴でも、それだけはさほど変わらぬらしい。
ただし、観察者といっても、今回ばかりは対象から安全な距離を取れぬ。こちらもまた観察される側であり、しかも見つかれば追われる。文豪にしては、いささか危険な取材である。だが危険だからこそ、見えるものもあろう。人間がゴブリンをどう恐れ、ゴブリンが人間をどう避けるか。その相互の誤解と本能のあいだに、この世界の本性が隠れている気がしてならぬ。
巣の外では、夜がだいぶ濃くなっていた。仲間たちはそろそろ外へ出る支度をしている。鼻を鳴らし、爪で土を掻き、耳を立て、闇へ向かう。彼らにとって夜は仕事の時間であり、生の時間であるらしい。吾輩もまた、ぼろ外套を肩に掛けて立ち上がった。
このままゴブリンとして生きていくのも、たしかに悪くはない。だが、それを本当に選ぶにしても、まずは世界を知らねばならぬ。知らぬまま受け入れるのは達観ではなく、ただの諦めである。吾輩はまだ、諦めるには少しばかり口うるさい精神を持っている。
ゆえに、まずは人間の町へ行く。
無論、堂々とは行かぬ。堂々としたゴブリンというのは、たいていその日のうちに矢の的になる。吾輩はもっと慎ましく、もっと小心に、もっと文学的に――つまり、こそこそと行くのである。世の中には、勇気より臆病の方が役に立つ夜もある。
そう決めると、胸の内にわずかな緊張と、それ以上の好奇心が湧いた。好奇心というものは、つくづく始末に悪い。危険があると知っていても、なお先を見たがる。だが、たぶんそれがあるからこそ、吾輩はまだ吾輩でいられる。
外套の端を引き寄せ、顔をできるだけ影に沈めて、吾輩は洞穴の外へ一歩を踏み出した。世界は相変わらず広く、夜気は冷たく、森は人間にもゴブリンにも等しく薄情である。しかし、だからこそ見に行く価値がある。少なくとも、布切れをまとって震えているだけの一匹で終わるよりはましだろう。
もっとも、その決意の直後に足元の根へつまずいて、危うく派手に転びかけたことは、ここではあまり強調しないでおく。英雄譚には向かぬが、吾輩の人生というものは、えてしてこういう具合に、決意と間抜けとが並んで進むのである。




