第十話 ふたつの世界の間
いよいよ、吾輩は森の奥地へ向かう準備を整え始めていた。
もっとも「整え始めていた」と書くと、いかにも手際よく計画が進行しているように聞こえるが、実際はそうでもない。吾輩の準備というのは、半分が思案で、四半分が拾い集め、残る四半分が不安でできている。しかもその不安というものが、実によく働く。不安は腹の足しにはならぬが、無闇に楽観して足を踏み外すのを防いでくれるという点では、案外すぐれた旅装の一つであるかもしれぬ。生前から吾輩は、物事を少しばかり気にしすぎる性質であったが、ゴブリンになってからというもの、その気にしすぎが以前より多少実用的になった気がする。人間社会では神経質はしばしば厄介者の札を貼られたが、森の中では、神経質なくらいがちょうどよい。
さて、出発するといっても、目当ての薬草がそもそもどんなものであるかがよくわからぬ以上、やみくもに森へ分け入るのは無駄骨である。いや、無駄骨どころか、下手をすれば骨そのものが誰かの無駄飯になる。森の奥地は散歩道ではない。少女の話から察するに、人間にとって危険である以上、ゴブリンにとってもなお危うい場所であろう。自然は概して公平である。人間に優しくないものは、怪物にもたいてい優しくない。
ゆえに吾輩は、少女に手がかりになるようなものはないかと尋ねてみたのである。
尋ねるといっても、例によって筆談まじりのまどろっこしいやりとりだ。「草」「形」「におい」「見本」といった単語を、拙い文字で紙へ並べ、そこへ指を当てては首を傾げる。文学者の二度目の人生がこのような単語帳めいた営みへ縮退するとは、いささか情けないようでもあるが、致し方ない。言葉とは本来、難しい思想を語るためだけにあるのではない。むしろ大半は「それはどこか」「これは何か」「食えるのか」といった即物的な問いのために発達したのであろう。吾輩はいま、その原始的な効用へ立ち返っているのだと思えば、少しは自尊心の座りがよくなる。
少女は吾輩の問いを読み、しばらく考え込んでいたが、やがて家の中へ引っ込み、古い布袋を持って戻ってきた。布袋は何度も口を結び直されたらしく、縁が擦り切れている。その中から彼女が取り出したのは、ほんの少しだけ残った薬草の粉末であった。
もう使い切りそうになっているのだという。
吾輩はそれを見た時、思わず喉の奥で妙な音を鳴らしかけた。危うく「おお」とでも言うような、しかし実際には「グ」としか出ぬ感嘆が漏れかけたのである。粉末はごく少量で、色はくすんだ緑と灰色のあいだのような、実に地味な顔をしていた。人間というものは、命を救うものにもう少し華やかな色を望みたくなる生き物だが、自然界はそうした見栄えへの配慮に乏しい。大事な薬草ほど、だいたい地味で、草むらに紛れ込みそうな色をしているものだ。
しかし、吾輩にとって重要なのは色より匂いであった。
この粉末があれば、目当ての薬草の匂いを嗅ぎ分けられるかもしれぬ。何しろ今の吾輩の鼻は、人間だった頃よりよほど正直かつ有能に働く。かつては書斎でインクと紙と茶の湯気を嗅ぎ分けて満足していた鼻が、いまでは土の湿り気、獣の通り道、腐った実の気配、雨の前触れまで拾うのだから、身体の適応というものは実に遠慮がない。文豪の感性がゴブリンの嗅覚に乗り移ると、比喩の代わりに匂いの層が増えるらしい。
それに、仲間たちがこの薬草について何か知っているかもしれぬ、とも思った。
人間はしばしば、知識を本や学問の中だけに閉じ込めたがる。だが森の住人の知識は、たいてい鼻と腹と怪我の記憶に宿る。ゴブリンどもが書物を読むとは思えぬが、見たことのある草、食って腹を壊した葉、擦り傷に塗ると妙に痛みが引く泥、その程度の経験知は案外持っている。生前の吾輩は、そうした知恵を軽く見がちであった。文明人というものは、文字にならぬ知識をしばしば軽んじる。だがいまや吾輩自身、文字の外側で生きているのだから、その軽蔑を続ける資格はない。
そこで吾輩は、少女にその粉末を貸してくれないかと頼んだ。
頼んだ、と書けば一文で済むが、実際はなかなか骨が折れた。まず「借りる」という概念を吾輩の拙い文字でどう表すかが難しい。下手をすると「もらう」になり、さらに悪ければ「全部よこせ」に読まれかねぬ。吾輩は紙の上で何度か語尾を直し、指で袋と自分と森を示し、それから再び袋を返す仕草をしてみせた。およそ文学的とは言い難いが、意味は通じたらしい。
しかし少女は、最初、明らかに難色を示した。
それはそうであろう。この粉末は、彼女にとっても貴重な最後の頼みである。しかも吾輩がそれを欲しがる理由を、彼女は薄々察したに違いない。つまり、吾輩がこの薬草のために危険な場所へ行くのではないか、と。
少女は紙へ、森の奥は危ない、行ってはならない、というようなことを書いた。書きながらこちらを見る目つきが、いつもの「不思議な森の人」へ向けるものより、ずっと現実的な心配の色を帯びていた。これは少し意外でもあり、少しうれしくもあった。人は、心配する相手に対してのみ、具体的な危険を語る。どうでもよい相手には「危ない」とすら言わぬ。
もっとも、その心配を真正面から受け止めれば、吾輩はここで計画を引っ込めるべきなのかもしれない。だが、そうもいかなかった。吾輩としては、むしろその粉末があればこそ、危険を少しでも現実的なものへ引き下げられると思ったのである。何も知らずに行くのと、匂いの手がかりひとつを持って行くのとでは、話が違う。無謀と無茶のあいだにも、まだ幾分かの段階はある。
吾輩は紙へ短く書いた。
「におい わかる」
「さがせる かも」
拙い文字である。しかも「かも」などと書いているあたり、我ながらずいぶん腰が引けている。しかし、そこを大言壮語しないのは吾輩の美徳ということにしておきたい。できるかどうかわからぬものを、最初から「必ずやる」と書くのは、英雄譚では格好がつくかもしれぬが、現実では往々にして傲慢である。吾輩は英雄ではない。せいぜい、多少鼻の利く臆病なゴブリンにすぎぬ。
少女はその紙を何度も読み返した。
そして、幸か不幸か、彼女が吾輩に対して抱いている認識――つまり吾輩をある意味、精霊に近い存在だと思っているらしいその誤解――が、ここで功を奏したのである。森の住人である彼なら、もしかしたらこの薬草を取ってきてくれるかもしれない。そんな期待が、彼女のためらいの向こう側でふくらんでいくのが、表情を見ていてなんとなくわかった。
これは、正直に言えば、いささか居心地が悪い。
精霊というものは、たぶんもっと神秘的で、危険な森でも涼しい顔をして風と語り、足元に花でも咲かせながら歩くべき存在であろう。吾輩はそうではない。腹が減れば機嫌が悪くなるし、暗がりで大きな獣の匂いがすれば背中の毛が総立ちになるし、枝に外套を引っかけて一人で慌てることもある。要するに、あまり神々しくない。だが、世の中には相手の誤解によって話が進むことがある。作家が大家と呼ばれるのも、学者が難しい顔をしているだけで深いことを知っているように見えるのも、その一種であろう。誤解は不誠実だが、時に橋にもなる。
少女は最後に、袋の口をきゅっと結び直し、それを吾輩へ差し出した。
吾輩は思わず背筋を伸ばした。受け取るということは、ただ品を借りることではない。相手の期待まで一緒に持つことだ。相手が何かを託す時、人はそれが物だけで済むと思いたがるが、実際にはそんなことはない。袋とともに、少女の不安と願いと、母親を助けたいという切実さとが、みな一緒に吾輩の手へ乗ってきたように感じられた。まことに重い粉末である。量はごくわずかだが、重さはなかなかのものだ。
とはいえ、吾輩にとってはこの上ない道標であることも間違いなかった。
袋を鼻先へ近づけてみると、乾いた土のような匂いの奥に、鋭く青い何かがあった。葉を揉んだ時のようでもあり、雨上がりの石の匂いのようでもあり、しかし単なる草の匂いとは違う。少なくとも、森に無数にある凡庸な草のどれとも少し異なる輪郭がある。この匂いを覚えておけば、同類の気配に気づけるかもしれぬ。吾輩は何度か慎重に嗅ぎ、そのたびに頭の中へ匂いを写し取るつもりで目を閉じた。人間だった頃の記憶術はもっぱら言葉や光景に頼っていたが、ゴブリンの身体は匂いで覚える方が手っ取り早いらしい。これもまた、第二の生における新しい教養というべきか。
少女と別れたのち、吾輩は棲家へ戻り、今度は仲間たちに自らの意思を伝えることにした。
このあたりの過程は、書いていても少々滑稽である。なにしろ吾輩の旅立ちを告げる相手が、文学仲間でも編集者でもなく、洞穴で鼻を鳴らしながら芋のようなものを齧っているゴブリンどもなのだ。しかも彼らとのコミュニケーションは、いつだって奇妙なものだった。明晰な会話が成立しているとは言い難い。いや、ほとんど成立していないと言ってよい。それでも、どうやら意思は通じているらしいところが、また厄介で面白い。
吾輩はまず、奥地へ向かう方角を地面へ線で描き、自分の胸を指し、数日を示すつもりで指を何本か立て、それから戻る仕草をしてみせた。若い連中は最初、何やら遊びが始まったと思ったらしく、妙にわくわくした顔で近寄ってきたが、吾輩が荷袋をまとめ、水筒がわりの瓢箪を括りつける様子を見ると、どうやらただ事ではないと理解したようだった。群れの中にある種の緊張が、鼻息の質で伝わる。言葉にしなくとも、連中は連中なりに空気を読むのである。
そして、年長のあのゴブリンに粉末を見せると、これが思いのほか反応を示した。
彼は最初、袋の口へ鼻を寄せるなり、ぎょっとしたように耳を動かした。それから二度、三度と嗅ぎ直し、低く唸った。知っているのである。少なくとも見覚え、いや嗅ぎ覚えがあるらしい。吾輩は思わず身を乗り出した。文学者が珍しい書簡でも前にした時のような顔を、たぶんしていたに違いない。
年長のゴブリンは、その後、何やら吾輩へ伝えようとしてくれた。
これがまた、実に涙ぐましい光景であった。彼は地面をひっかき、岩と谷と木の位置を示すつもりらしい線を引き、時おり鼻を鳴らし、こちらの肩を押して向きを変え、さらには自分の腕を大きく振って「危ない」「でかい何かがいる」らしきことまで表そうとする。通訳がほしい。神は異世界転生をさせるくらいなら、ついでにゴブリン語辞典の一冊も持たせてくれればよかったのにと思う。もっとも、その辞典があったところで、たぶん項目の大半は「うまい」「まずい」「逃げろ」「でかい」の類で埋まっている気もするが。
それでも、吾輩には彼の意図が少しずつ見えてきた。
どうやらその薬草、あるいはそれに似た匂いのものは、深い谷の近く、湿った岩場、そして妙に白い幹をした木の多いあたりにあるらしい。年長ゴブリンが実際にそこへ行ったことがあるのか、それとも昔、別の群れの者から聞いたのか、その辺は不明だ。だが少なくとも、まったくの見当違いではないらしい。彼は匂いを嗅いだあと、喉の奥で嫌そうな音を鳴らし、自分の首のあたりを爪でつついてみせた。毒か、危険な相手か、あるいはそのあたりで怪我をした記憶でもあるのかもしれぬ。粗い表現の中にも、それなりの実感がこもっているのがわかった。
この時の吾輩は、少々妙な気持ちになった。
人間だった頃の吾輩なら、ゴブリンが一生懸命何かを伝えようとする姿を、あるいは滑稽の材料として見たかもしれぬ。だがいまは違う。外から見れば粗雑で不器用で、知性も足りぬように思える彼らにも、彼らなりの経験と親切とがある。年長のあのゴブリンなど、普段は鼻を鳴らして食い物の取り分を主張する、実に現世的な小鬼である。それが、吾輩の持ってきた袋の匂いから記憶を辿り、危険を伝えようと必死にもがいている様子を見ると、何だか胸のあたりがむずがゆくなった。涙ぐましい、というのはこういう時に使うのだろう。もっとも、ゴブリン相手に涙ぐんでいては群れの統率に響くので、表面上はなるべく平静を装ったが。
こうしてみると、吾輩は本当に二つの世界のあいだへ足をかけてしまったのだと思う。
少女からは粉末を託され、人間の病と祈りを背負う。群れの年長からは森の危険と経験の欠片を受け取る。片方は紙と文字と不安に支えられ、片方は匂いと身振りと鼻息に支えられている。ずいぶん違うようでいて、どちらも結局は「お前、無事に戻れよ」という種類の感情を含んでいる点ではあまり変わらぬのかもしれぬ。人間もゴブリンも、案外その辺りは似たようなものである。表現の洗練度が違うだけで。
なにはともあれ、危険が伴うことは百も承知だ。
行くと決めたなら、できる限りの準備を整える必要がある。
吾輩は、その晩から荷物を選り分け始めた。外套は軽い方がよいが、夜露と風を防げぬのも困る。食糧は持ちすぎれば重く、少なすぎれば判断が鈍る。水袋は二つほしいが、二つ持つと走りにくい。刃物らしいものは欲しいが、まともな短刀など持っていない。せいぜい、薄い石を骨の柄へ括りつけた、みすぼらしい小刀もどきが一つあるだけだ。これを武器と呼ぶのは石に失礼かもしれぬ。しかし枝を払ったり、薬草を掘り起こしたりするには役立つだろう。火打ちの手段も考えたが、奥地で火を焚くのは危険が大きい。今回は、むしろ火を起こさずに済むよう動くべきである。
それから、少女にもらった粉末の袋は、何より大切に包んで胸元へしまった。これだけは落としてはならぬ。道に迷った旅人が羅針盤を失うようなものである。いや、吾輩の場合、羅針盤どころか、そもそも地図の読みも完璧ではないのだから、この匂い袋が唯一の導き手と言ってよい。匂いは風に流されるし、雨が降れば薄れるだろうが、それでも何もないより遥かにましである。
さらに吾輩は、出発前に一度、自分の歩き方や荷の揺れ具合まで確かめた。外套の裾が枝へ引っかからぬか、荷袋の結び目は緩まぬか、走った時に音はどれほど鳴るか。こういう地味な確認が、いざという時の生死を分けることがある。生前の吾輩は、出立の前に原稿用紙や煙草や財布の位置を確かめたものだが、いまは瓢箪と小刀と乾草の束と匂い袋の位置を確かめている。我ながら、随分遠くまで来たものである。
若いゴブリンどもは、吾輩が出発支度をしているのを見て、妙にそわそわしていた。連れて行ってほしいのか、ただ騒いでいるのか判然とせぬが、少なくとも面白そうなことが起きると感じているらしい。年長の方は、そうした若いのを鼻息ひとつで蹴散らし、吾輩へ向けて低く短い唸り声を鳴らした。たぶん、無茶はするな、という類の意味だろう。彼らの語彙の乏しさはつくづく不便だが、不便なりに含まれている情は、ときどき人間の回りくどい言葉より率直である。
夜が深まり、洞穴の入口から外の風が入り込んでくる頃、吾輩はひとり、壁際へ身を寄せて考えた。
果たして、これは善意なのか、好奇心なのか、それとも単なる自己満足なのか。
少女の母親を助けたい気持ちは、たしかにある。しかしその一方で、危険な奥地へ踏み込み、未知の薬草を探し、自分の役に立てる可能性を試してみたいという衝動もまた否定できぬ。つまり吾輩の行動には、人助けと冒険心と自己確認とが、ずいぶん雑に混ざっているのである。生前の吾輩なら、こういう混ざり物をいかにも人間らしい矛盾として面白がったかもしれぬ。いまは、その混ざり物ごと引き受けるほかない。人の動機というものは、大抵きれいに一つではない。ましてゴブリンになった文豪の動機など、最初から少々濁っていて当然である。
それでも、行く。
そう思った時、胸元の袋がわずかに重みを返した気がした。少女の託した粉末、年長ゴブリンの曖昧な地図、森の匂い、母親の病、そして吾輩自身の中にある、役に立てるかもしれぬという厄介な希望。それらをまとめて背負うには、吾輩の身体は少々小さい。だが、小さいなりに背負えぬとも限らぬ。
文学者はしばしば、大きな感情を大きな言葉で語りたがる。だが実際に旅立つ前夜の気分というものは、もっと細かい。喉が少し渇くとか、足先が冷えるとか、結び目が気になるとか、途中で腹が減ったらどうするかとか、その種のこまごまとした心配の集積である。そのこまごましさの上に、やっと「よし、行くか」が乗る。吾輩もいま、まさにその段にいる。
行くと決めたからには、あとは眠るべきだろう。頭を冴えさせたまま夜を明かしても、明日の足取りは鈍るだけである。だが、そう理屈でわかっていても、なかなか目は閉じぬ。生前から、旅の前夜というものはどうにも落ち着かぬ性分であった。しかも今回は、旅先で待っているのが温泉宿でも講演でもなく、魔物の多い森の奥地なのだから、なおさらである。
吾輩は外套を丸めて枕にし、洞穴の天井を見上げた。湿った岩肌の凹凸が、薄暗がりの中でぼんやりと浮いている。ここへ来たばかりの頃は、ただ醜く不快な穴としか思えなかったこの場所が、いまは不思議と少しだけ「戻る場所」に見える。人は慣れる。いや、ゴブリンも慣れる。慣れとは恐ろしいが、同時にありがたい。
明日になれば、吾輩はここを出て、数日のあいだ森のさらに奥へ踏み込むことになるだろう。
果たして、薬草は見つかるのか。途中で何に遭うのか。帰って来られるのか。何一つ確かなものはない。だが、確かなものばかりを選んで生きられるほど、吾輩の第二の人生は整っていないらしい。
ならばせめて、不確かなものの中で、少しでも筋の通った不確かさを選ぶほかあるまい。
そう思いながら、吾輩は胸元の袋をもう一度だけ指先で確かめた。匂いはまだそこにある。細く、しかし確かに。
明日からしばらく、吾輩の鼻と足はその匂いを追うことになる。




