第八話 人との距離
せっかくできた少女との小さな信頼関係を、できることなら絶やしたくない。そう思ったのは、少女から水を恵んでもらった直後のことである。
小さな信頼というものは、世間ではしばしば軽んじられる。金になる縁でもなく、役職を生む関係でもなく、さしあたって誰かの面目を立てるわけでもない、そういう細い細い糸は、往々にして「取るに足らぬもの」と見なされる。しかし実際には、世の中の大きな事柄の多くは、その取るに足らぬ細糸が幾筋も重なってようやく動くのである。国が傾くにも、家が保たれるにも、恋が始まるにも、裏切りが起こるにも、みな最初は些細な間合いから始まる。まして吾輩のように、布切れをかぶった、声もろくに出ぬ怪しげな旅人もどきにとって、その細糸は命綱に等しい。
よって吾輩は、その晩のところは、ほんの少しの会話――いや、会話というより、身振りと頷きと、地面へ書かれた村の名と、水一杯によって成立した、ぎりぎり会話の末席に連なれる程度のやりとり――だけで区切りをつけることにした。
欲を出してはならぬ、と吾輩は自分へ言い聞かせた。人間というものは、やっと開いた戸口へ見苦しく身体をねじ込んで、そのまま蝶番ごと壊してしまうことがある。吾輩も生前、締切間際の原稿や、気の進まぬ社交において、似たような壊し方を何度かやった覚えがある。相手がようやくこちらの存在を許し始めた時に、こちらはそれを「よし、では次へ」と勘違いするのだ。だが本来、信頼というものは許しの総量で測るべきではなく、壊れやすさで測るべきであろう。壊れやすいほど、慎重に扱わねばならぬ。
少女から受け取った水は、驚くほどふつうの味がした。山の清水を汲んだだけの、何の変哲もない水である。しかしその夜の吾輩には、それがほとんど文明そのもののように思われた。器から飲むという行為、他者の手を経て口に届くものを受け取るという事実、それがただ喉の渇きを癒やしたのではなく、自分がまだ他者との交換可能な存在であることを、かろうじて証明してくれたのである。ゴブリンになってからというもの、食うものは大抵自分で拾うか、群れと奪い合うか、せいぜい仲間の押しつけがましい親切によって回ってくるか、そのどれかであった。そこに「誰かが、こちらを見て、水を差し出す」という人間的な段取りが混じるだけで、世界の手触りがだいぶ違ってくる。
もっとも、感激ばかりしてもいられぬ。吾輩はあまり長居をせず、喉に手を当てて礼を示し、青石はそのまま置いて静かに引き下がった。少女の方も深追いはしなかった。ただ去る吾輩の背をひどく不思議そうに、しかし先刻ほどの恐れは含まずに見ていた。その視線の質が変わったことを、吾輩は森へ戻る道すがら何度も反芻した。人はわからぬものを見ている時と、わからぬなりに受け入れ始めたものを見ている時とでは、眼差しの柔らかさが違う。
あの夜、棲家へ帰った吾輩は、いつもより少し遅く、少し静かであった。群れの連中は、例によってこちらの変化に大して意味ある興味を示さぬ。生きて帰ってきたか、怪我はないか、食えるものを持ち帰ったか、その程度である。もっともそれはそれで気楽だ。文壇の知り合いのように、帰ってきた顔色を見て妙な勘繰りを入れたりはしない。あの年長のゴブリンなど、吾輩の抱えていた空の器をちらと見たあと、ひどくどうでもよさそうな鼻息をひとつ鳴らしただけで、すぐに自分の獲ってきた茸の品定めへ戻った。怪物社会のよいところは、他人の恋愛や対人関係に過剰な詮索を差し挟まぬ点かもしれぬ。もっとも、その代わり相手が腹を減らせば食い物を奪うので、一長一短である。
とはいえ吾輩は、その日から何日かに分けて、あの少女のもとへ訪れることを決めていた。
決めていた、と言うと、何やら格好がつくが、実際にはかなり手探りである。どういう頻度で現れれば不自然でないか、どの時間帯なら家人に見咎められにくいか、何を持って行けば相手を怯えさせず、かつ「ただ水をもらいに来た怪しい小男」以上の意味を持てるか。これらはすべて、現場で少しずつ計るほかなかった。しかし一つだけ明確な方針があった。何かしらの「お礼」を持って行くことである。
人間の関係というものは、はじめのうち、理由がいる。理由というものは、しばしば物の形をとる。手ぶらで現れる者より、何か一つでも差し出せる者の方が、少なくとも「来る理由」を持てる。吾輩はこれを生前の社交でずいぶん学んだ。立派な書簡よりも、一箱の菓子の方が場を和ませることはあるし、気の利いた理屈より、季節の果物ひとつの方が相手の心を動かすこともある。文学者は言葉万能のような顔をするが、実生活において言葉は案外負ける。贈り物には負けるし、湯の温かさや、椅子の座りやすさにも負ける。吾輩が今この身で学び直しているのは、そのあたりの、文章になりにくい人情の手ざわりである。
そこで吾輩は、森で手に入るもののうち、人に渡してもまだ穏当そうなものを選び始めた。木の実、薬草、山菜、香りのよい葉、季節外れと思しき小さな果実。もちろん、ゴブリンの巣に転がっている得体の知れぬ骨や金具では話にならぬ。あくまで「森から来た無害なもの」でなければならない。これが案外むずかしい。吾輩の鼻は、この頃になると食える草と食えぬ草の判別をだいぶ覚えつつあったが、「人間にとって贈り物になる草」と「ゴブリンが何となく齧る草」とのあいだには、かなり大きな隔たりがある。何しろ仲間の連中は、少し香りのある草を見つけると、たいてい薬効ではなく「変な味がして面白い」という理由で齧るのであって、その基準をそのまま人間へ適用するわけにはいかぬ。
最初に持っていったのは、赤みの強い小さな木の実と、熱を下げるらしい葉であった。葉について「らしい」と書くのは、吾輩が厳密に薬草学を修めたわけではないからである。ただ、群れの一匹が腹を壊した折、年長のゴブリンが似た葉を噛ませていたのを見たことがあり、以来、彼らなりに選んでいる草にも多少の経験則があるのではないかと思うようになっていた。野蛮と無知は同義ではない。この世界へ来てから、吾輩はその区別を何度も叩き込まれている。
少女は二度目に会った時、吾輩が差し出した木の実をすぐには受け取らなかった。まず匂いを嗅ぎ、次に吾輩の顔――いや顔はほとんど布の影だが、とにかくこちらの様子を見て、それから一粒だけ摘んだ。賢明である。田舎娘は素朴であるが、素朴は無警戒と違う。その慎み深い疑い方に、吾輩はむしろ好感を抱いた。なんでもかんでも信じる者は、すぐ裏切られる。ほんの少し疑いながら受け取るくらいが、人間にはちょうどよい。
以後、吾輩は何日かおきに森の縁へ出て、少女と顔を合わせるようになった。毎日では多い。多すぎると相手の生活へ食い込みすぎるし、また誰かに見られる危険も増す。三日に一度、あるいは二日空けて夕刻に、そういう間隔がほどよかった。会うたびに何かしら持参し、相手の手を煩わせぬ程度の短いやりとりだけをして帰る。こうして吾輩は、彼女とのあいだに少しずつ「言葉」と会話のための「距離」を作ろうとしていたのである。
この「距離」というものが実に大切だ。近づきすぎれば壊れるし、遠すぎれば育たぬ。人間関係とは多くの場合、距離の調律である。文体もそうだろう。踏み込みすぎた文章は読者を窒息させるし、よそよそしすぎた文章は心に届かぬ。少女と吾輩との間にも、似たような目盛りがあった。最初は五歩離れていたものが、次には三歩になり、やがて物を受け渡すときに一歩ぶんまで縮まる。その一歩ぶんの短縮が、時に一章分の進展に等しい。
何度か会いにいくうちに、だんだんとわかってきたことがある。まず、この世界の言語のことだ。
少女は幸いにして、吾輩のぎこちない学習につきあってくれた。もちろん、教師として立派な方法論を持っていたわけではない。そんなものを田舎の娘に期待する方が間違っている。しかし彼女には、ものの名を繰り返し示し、こちらの頷きや首振りに辛抱強く付き合うだけの根気があった。水を指してその音を教え、羊を指してその呼び名を教え、空を見上げて夕暮れの言葉を教え、木の実を手にその名を言い、時には土へ文字を書いて見せる。吾輩はそれを、ほとんど飢えた者が汁を啜るような勢いで頭へ流し込んだ。
すると不思議なことに、何度も繰り返すうち、この世界の文字が少しずつ「模様」から「記号」へ変わり始めた。最初はただの線の組み合わせにしか見えなかったものが、やがて音の輪郭を伴い、さらに意味の手触りを持ち始める。読める、というほどではまだない。だが、少なくとも「これは同じ字だ」「ここが違う」という区別くらいはつくようになってきた。書く方はなお難しい。吾輩の手は、文字を書くには少々爪が邪魔であり、また生前の書字習慣が別の体系に根づいているため、つい異世界の字を自分勝手に崩してしまう。とはいえ、少女が土へ書いて見せた簡単な言葉を真似るうちに、いくつかは形を覚えられるようになった。
つまり吾輩は、何日か通っていくうちに、少女との友好関係を築いていくだけでなく、彼女を通してこの世界の言葉を学び、自分のことや今自分が置かれている状況を、ずいぶん端的ではあるが説明することにも成功しつつあったのである。
無論、ゴブリンであることは明かしていない。明かせるわけがない。外套の下にある耳や手や足の事情を考えれば、かなり危ない橋を渡っているのだが、幸い、少女はそこを正面から暴こうとはしなかった。彼女が受け取っている吾輩の像は、おそらく「むやみに人前には出られない、森の奥の住人」であり、しかも「害意はなく、どこか人間くさい奇妙な存在」というあたりなのだろう。人間は理解できぬものを前にすると、説明できる範囲の最も穏当な札を貼りたがる。吾輩にとって、それはありがたい習性であった。
どうやら少女は、吾輩のことを森の精霊か何かだと思っているらしかった。
これには、吾輩も少々困り、少々可笑しかった。精霊とはもっとこう、透き通った気配とか、風に混じる光とか、せめて葉陰から現れても美的であるべき存在ではないのか。吾輩など、実際には布切れを巻きつけた小柄なゴブリンであって、姿の上では精霊よりもむしろ物置の隅に溜まった古道具に近い。それでも少女は、会うたびに吾輩へ向ける眼差しのなかに、畏れと親しみの中間のようなものを混ぜるようになった。あまり根掘り葉掘り立ち入らず、ただ「森から来た不思議なもの」という余白を残したまま接してくる。人間が信仰めいた感情を持つとき、理解の不足はしばしば邪魔にならぬらしい。
もっとも、こちらとしては精霊だと思われることにも利と害がある。利はもちろん、正体を細かく追及されにくいことだ。害は、必要以上に神秘的な期待を抱かれることである。もし吾輩がうっかり派手につまずいたり、咳き込んでみっともない声を出したりすれば、精霊としての威厳はだいぶ損なわれよう。威厳というものは、往々にして見る側の誤解に支えられている。吾輩は生前から、作家の「大家」なるものにも似たような虚構があると思っていたが、まさか自分が異世界で森の精霊もどきの偶像になるとは予想しなかった。
しかし、少女とのやりとりを重ねるうち、吾輩は彼女についてもう少し具体的なことを知るようになった。そしてその内容は、想像していたよりずっと重たかった。
彼女には、ある問題があったのである。
最初は、単に働き者の娘だと思っていた。朝も夕も羊や牛の世話をし、桶を運び、干草をまとめ、乳を搾り、囲いを見回り、時には薪らしきものまで背負っている。その働きぶりは、田舎では珍しくないのかもしれぬが、年齢を考えると少々過酷に見えた。しかし何度か顔を合わせるうち、その「少々」が「かなり」に変わった。彼女はほとんど一人でやっているのである。
家には母親と妹との三人暮らしだということが、断片的な会話からわかった。父親については、いまのところ吾輩は何も聞いていない。死んだのか、出稼ぎか、あるいは最初からいないのか、その辺りはまだ曖昧である。だが、少なくとも家に大人の男手がないことだけは明らかだった。そして母親は病気を患っているらしい。寝込む日が多く、起きても長くは動けぬらしい。吾輩が二度目に家の方をちらと見たとき、窓辺の影に痩せた人の気配を見たことがあるが、たぶんあれが母親なのだろう。
つまり彼女は、母親の代わりに家の農場の管理を、ほとんど一人でやりくりしているのである。
その家は牛と羊の酪農を営んでいるらしかった。最初、吾輩は羊しか目に入っていなかったが、少し離れた小屋の方には牛も繋がれていた。牛は羊より重い。乳の量も違うし、世話の手間も違う。糞の始末から餌の管理まで、どれ一つ子供の遊びでは済まぬ仕事である。少女の妹はまだ幼く、とても戦力には数えられまい。結局、日々の家事と家畜の世話、母親の看病、そのすべてが少女の細い肩にかかっているのだ。
吾輩はその事実を、彼女に会うたび少しずつ知っていった。
朝は早く起きて牛を見、乳を搾り、火を起こし、母親の食事を整え、妹を見て、その合間に牧草地を回る。天気が崩れれば干草の取り込みがいるし、家畜の具合が悪ければ夜でも起きねばならぬ。母親が苦しめば水を運び、汗を拭い、薬めいたものを飲ませる。しかも収入の減り具合や、家に残る保存食の量まで、年若い頭で数えている気配がある。少女というより、すでに半分、小さな牧場主――いや、この世界の言葉で何と呼ぶべきかはまだ吾輩も知らぬが、とにかく家を背負う者の顔であった。
それでも、彼女は吾輩の前では時々笑った。
その笑いが、かえって吾輩には切なかった。人は本当に追いつめられている時、むしろ丁寧に笑うことがある。相手へ余計な心配をかけぬように、あるいは自分自身が崩れぬように、口元だけきちんと整えるのだ。生前、吾輩はそうした笑いを何度か見て、そこへ文学の匂いを嗅ぎ取ったことがある。だが、いま目の前にあるそれは、文章の材料というより、ただ生活の必死さそのものに見えた。吾輩が生前に論じていた人情だの悲哀だのというものが、実際にはこういう牛乳の匂いと疲れた腕と、熱のある母親の咳のそばにあるのだと思うと、少々やりきれぬ。
もちろん、吾輩はまだ彼女へ大したことはしてやれない。いや、してやる、という言い方自体が少々傲慢である。吾輩は自分の正体さえきちんと名乗れぬし、人前にも出られぬ、森の縁をうろつく小柄な化けものにすぎない。手伝いたくても、昼間に堂々と農場へ入れば一巻の終わりである。力仕事にしても、ゴブリンの体格では牛相手にどこまで役立つか疑わしい。そもそも家族へ見つかれば、精霊どころか害獣として追われる公算が高い。
だが、それでも吾輩は彼女に会うたび、その過酷な現状を見て見ぬふりはできなくなっていた。
これは単に人情の問題だけではない。吾輩はこのところ、ゴブリンとしての群れの中での立ち位置、人間社会の縁での立ち位置、その両方を考え続けている。群れの中では、吾輩は少し妙で、少し役に立つ者として扱われ始めている。人間の側では、少女の中で、吾輩は森の精霊だか、無害な森の住人だか、その辺りの曖昧な何かになりつつある。つまり吾輩は、どちらの社会にも半歩だけ足をかけているのだ。その半歩が、単なる生存戦略で終わるのか、何か具体的な作用を持つのかは、これからの吾輩の選び方にかかっている。
生きるというのは、案外、所属を決めることではないのかもしれぬ。むしろ、どの境目へどう立つかを選び続けることなのかもしれぬ。吾輩は人間であった記憶を持ちながら、ゴブリンとして森に生きている。その中途半端さは面倒である一方、もしかすると誰かの役に立つ隙間でもある。少女のように、人間社会の内側にいながら、一人で重すぎるものを背負っている者に対して、内側の人間ではなく、外側の怪物だからこそ差し出せる手もあるのではないか。まだそれが何かはわからぬが、少なくとも、森で拾える薬草の知識や、夜に動ける利点や、他人に見つからず何かを運ぶ身軽さくらいは無いよりましだろう。
もっとも、こうした殊勝な考えを胸に抱きつつ、吾輩はある日、少女への土産として摘んできた野苺を、帰り道でうっかり半分ほど自分で食ってしまった。歩いているうちに甘い匂いがして、つい口が動いたのである。理想と現実の距離は、ここでもやはりなかなか埋まらぬ。森の精霊を気取っておきながら、途中で土産をつまみ食いするあたり、吾輩の神秘性もたかが知れている。
しかし、たぶんそういう間抜けさを含めて、吾輩は生きているのだろう。大仰な使命感だけで動ける者は少ないし、少ない上に、たいていどこかで折れる。少しの好奇心、少しの見栄、少しの情、少しの空腹、その入り混じったところで、人は――いや、ゴブリンも――ようやく日々の一歩を踏み出せる。
少女に会うたび、吾輩は言葉を覚えた。覚えるたびに、この世界が少しだけ輪郭を持った。輪郭を持つたびに、少女の置かれた状況もまた、漠然とした「大変そう」から、具体的な「これは放っておくには少し重い」へ変わっていった。世界を知るとは、風景の名を知ることだけではない。誰が何を背負っているか、その重さに気づくことでもあるのだろう。
そして吾輩は、ようやく気づき始めていた。
自分がこの世界でただ生き延びるだけなら、森と群れの中で十分かもしれぬ。だが、一度でも人間の水を飲み、人間の文字を教わり、人間の疲れた笑いを見てしまった以上、もう完全に森だけへ戻ることはできぬのかもしれない、と。
これはいささか厄介な兆候である。厄介だが、たぶん悪い兆候ではない。少なくとも、物語というものは、たいていこういう面倒から動き始める。




