第六話 言葉の代わりになるもの
声を発せないということが、これほどまでに人格の輪郭を曖昧にするものだとは、吾輩もこの身になるまで知らなかった。
生前、黙して語らぬ人物というものに、どこかしら深みや含蓄を見いだしたことはある。口数の少ない男には思慮があるように見え、言葉を選ぶ人間には知性が宿るようにも見える。沈黙は、ときに立派な装飾品である。しかしそれは、いつでも口を開ける者が、わざと口を閉ざしているからこそ成り立つ上等な趣味なのであって、開こうとしても「ギ」しか出ぬ者の沈黙は、趣味でも何でもない。ただの機能不全である。
しかも困ったことに、いま吾輩の目の前には、その機能不全を一つでもうまくごまかさねばならぬ相手がいる。
少女である。
羊の乳を搾る手をまだ止めてはいない。もっとも、完全に無警戒というわけでもなさそうだ。吾輩が茂みからそろそろと出た瞬間、彼女の肩がわずかに強張ったのを、吾輩は見逃さなかった。人間は、驚いた時に悲鳴を上げる前に、まず肩や首が動く。そういう些細な前触れを読む癖が、今の吾輩には以前よりだいぶ身についてきた。ゴブリンとしての生が、観察をより実利的なものに変えているのであろう。文学者はしばしば人の心を読みたがるが、怪物として追われる立場になると、心より先に筋肉の動きを読むようになる。読解力もなかなか忙しい進化を遂げるものだ。
さて、問題は、どうやって相手と会話を成立させるかである。
考えてみれば、この数日、吾輩はこの問題についてずいぶんと頭を使ってきた。喉を押さえて「話せぬ」ことを示す案、地面に文字を書く案、荷物を差し出して「売り物がある」体裁を見せる案、危険がないことを身振りで表す案。いずれも一理はある。しかし一理あることと現場で役に立つことは別である。人間の思索というものは、机上ではたいてい少し立派すぎる。実際の場面になると、こちらは布切れをかぶったゴブリンであり、向こうは家畜のそばにいる村娘なのだ。状況がすでに、理屈の品位をかなり損ねている。
何はともあれ、まずは「言葉」だ。
吾輩はそう思った。いや、正確には、言葉そのものではなく、言葉に代わる何かである。人間同士であれば、多少の誤解があっても、口を開けば音の列がその場をつなぐ。相手の表情を見ながら、曖昧さを足したり引いたりし、誤魔化し、念を押し、時に話題を逸らし、会話というものは実にいい加減にできている。吾輩が生前書いていた文章なども、そういう曖昧で不完全なやりとりの堆積の上に生まれていたのだろう。しかし今、吾輩にはその「いい加減に場をつなぐ」最初の一音がない。つまり会話の手すりが、根元から一本欠けているのである。
この世界へ来てわかっていることが一つある。吾輩は、この世界の人間が話す言葉を理解できる。これは間違いない。森で聞いた討伐隊の怒鳴り声も、村人の世間話も、おおむね意味は取れる。脳のどこかに、異世界仕様の翻訳機でも埋め込まれたのかと疑いたくなるほど、音の意味だけは妙に自然に入ってくる。ところが、それを文字として起こそうとすると、これがひどく難しい。
頭の中で理解することと、自ら表現することとの間には、深い溝があるらしい。
たとえば、吾輩はいま少女に対して「私は怪しい者ではない。話せないだけだ。少し水と紙が欲しい」と言いたい。意味としてははっきりしている。ところが、これをこの世界の言葉でどう綴るかと考えた途端、頭の中が妙に滑る。音の響きはわかる。だが、その語を前世の文字で写そうとしても、ぴたりと定まらぬのである。母音の長さが違うのか、語尾の仕組みが違うのか、そもそも音の単位そのものが吾輩の生前の言語体系と噛み合っていないのかもしれぬ。理解はできるのに、手で掴めない。まるで水の流れを見て、その冷たさも速さもわかるのに、指のあいだからこぼれ落ちていくような心地である。
なるほど、会話をする上で言語を物質化できないというのは、なかなか厄介なものだ。
生前、文章を書くという行為を、吾輩はどこか当たり前に思っていた節がある。もちろん苦労はした。書き出しに悩み、一文の調子にこだわり、言葉の温度や距離を測っては直した。しかし、少なくとも紙の上に言語を定着させるという前提そのものは疑っていなかった。ところがいまは、前提からして怪しい。仮に運よくペンや紙を手に入れたとしても、そこへこの世界の言葉を正しく書ける保証がないのだ。自分では意味がわかっているつもりの言葉を、間違った形で書きつければ、相手には何のことか通じぬどころか、むしろ不気味な呪文か怪文書に見えるかもしれぬ。文学者の第二の生涯が、識字能力の再取得から始まるとは、世の皮肉もなかなか手が込んでいる。
もっとも、考えようによっては、この不自由にも一種の公平がある。人間は自分の言葉を自然のものと思い込みがちだが、言語とは本来、かなり恣意的な約束にすぎぬ。犬が吠え、鳥がさえずり、ゴブリンが「グ」と鳴く世界で、人間だけが自分の言葉を文明の証しと心得ている。だが、約束の外へ一歩出てみれば、その文明も案外頼りない。いま吾輩は、その約束の外側に立って、人間の言葉を理解しながら、同時にそれへ参加できずにいる。これはなかなか痛快でもあり、同時にたいそう不便でもある。痛快さだけなら哲学だが、不便が加わると急に生活になる。
少女は、まだこちらを見ている。いや、見ているというより、半分は羊を見、半分はこちらの気配を測っている、といった方が正確であろう。よいことである。完全にこちらへ意識を向けられると、それだけで緊張が高まる。羊が一匹でも間にいる方が、吾輩にとってはありがたい。会話というものも、本当は何か第三の対象がある方がやりやすいのだ。机の上の茶でも、本でも、あるいは今なら羊でもよい。人間は真正面から向き合うと必要以上に身構える。
ともあれ、この第一歩を踏まぬことには道は開かれない。
吾輩はそこで、いくつかの方策を頭の中で秤にかけた。
第一案。地面に文字を書く。
欠点は明白である。字形が怪しい。読める保証もない。さらに、こちらがしゃがみ込んで土へ何かを書き出したら、それだけで魔術めいて見える危険がある。魔法のある世界かどうか吾輩にはまだよくわからぬが、人間は理解できぬ動作を見れば、まず不吉な意味を読み込みたがる。これは避けたい。
第二案。喉を押さえ、話せないことを身振りで示す。
これは比較的有効かもしれぬ。万国共通とまでは言わぬが、喉に異常がある仕草はかなり直感的である。欠点は、その後に何を求めるのかを伝えにくいことだ。「声が出ない」は示せても、「敵意がない」や「少し話を聞いてほしい」までは続けにくい。
第三案。荷を見せ、商人の体裁を強調する。
これも悪くはない。人は役割を見ると安心する。旅人、商人、病人、巡礼者――そのどれかの枠へ相手を入れられれば、すぐ怪物とは結びつけぬかもしれぬ。欠点は、商人ならばなおさら会話を求められる点である。商いは沈黙だけでは成り立たぬ。
第四案。相手をまず安心させる行動を先に示す。具体的には、距離を取り、両手を見せ、ゆっくりと荷の中から何か無害そうなもの――たとえば色のきれいな石や草の束――を取り出して地面へ置き、こちらから数歩下がる。つまり贈り物である。
これが案外よいのではないか、と吾輩は思った。言葉が通じぬ時、物はしばしば最初の文になる。もちろん、いきなり得体の知れぬ布頭巾の小男が石を差し出してきたところで、必ずしも好意と受け取られるとは限らぬ。呪具と思われぬ保証もない。しかし、少なくとも武器よりはましである。
考えた末、吾輩は第二案と第四案を組み合わせることにした。
つまり、まず距離を保ち、敵意のないことを身体で示す。次に喉を押さえ、話せぬことを伝える。そして最後に、荷の中から何か穏当な品を出し、商人あるいは旅人である印象を添える。これで完璧とは言わぬ。だが、現時点で吾輩が取りうる策としては、最も破綻が少ないように思われた。
決めると、かえって緊張が増した。計画というものは、立て終えると急に現実味を帯びる。生前も原稿の構想だけならいくらでも弄れたが、いざ一行目を書く段になると、自分の手が急に重くなったものだ。いまも同じである。違うのは、一行目を誤れば赤が入るのではなく、石が飛んでくるかもしれぬ点だ。
吾輩はゆっくりと一歩進み、そこで止まった。
少女は乳搾りの手を止めた。羊の方はのんきなもので、吾輩の存在など世界の端の曇りほどにも気にしていないようである。家畜というものは、ときに人間よりよほど哲学的だ。
吾輩は両手を肩の高さまで上げて見せた。何も持っていない、という合図のつもりである。外套の袖口から覗く手の色が、薄闇の中でもやや不穏であることには、見て見ぬふりをするしかない。次いで、喉へそっと手を当て、咳き込む真似をした。生前の病弱がこんなところで役に立つとは、人生はおかしな因果でできている。
少女は逃げなかった。ただし、安心もしていない。その目つきでわかる。恐れてはいるが、すぐ悲鳴を上げるほどではない。よろしい。この「逃げないが、警戒している」という状態は、交渉の出発点としては上等である。人間は完全に安心しきっていても油断しすぎるし、完全に恐れていても手が出る。半信半疑くらいが一番話が通る。
吾輩はさらにゆっくりと荷を下ろし、結び目を解いた。ここで慌てるとすべてが台無しになる。怪しい者ほど動作が速い。これは偏見のようでいて、案外当たっている。人は自分でも説明しづらい緊張を感じると、妙な速さで手を動かす。吾輩はその逆を行くべく、ずいぶんゆっくりと動いた。内心では心臓がうるさいくらい打っていたが、幸いその音までは外へ聞こえまい。
袋の中から、色の濃い青石を一つ取り出した。森の沢で拾ったもので、磨けば幾分か見栄えがしそうな代物である。売り物と呼ぶには少々心もとないが、少なくとも毒々しい骨片よりは印象がよい。吾輩はそれを地面へそっと置き、二歩ばかり後ろへ下がった。
少女の眉が、ほんの少しだけ動いた。驚いたのか、興味を持ったのか、その両方かもしれぬ。人間の表情は複雑だが、娘や少年の顔にはまだ筋が残っている。年を取るほど、人は感情の上に礼儀や計算を塗り重ねる。若い顔が読みやすいのは、そのせいであろう。
ここで、吾輩はふとあることを思い出した。生前、吾輩は時おり、言葉より先に物が関係を作る場面を見たことがある。旅先で土産を差し出す、家を訪ねて菓子を持って行く、子供が石ころを拾って友に見せる。人間は、案外、物を介して心を置く。言葉が立派であっても、手ぶらでは気まずいことがある。逆に、口下手でも何か差し出せば、そこから間が持つ。つまり贈与というのは、一種の会話の前口上なのである。いま吾輩の青石がその役を果たしてくれれば、これほどありがたいことはない。
少女はちらと家の方を見た。吾輩はその視線を見て、少し肝を冷やした。大人を呼ばれては厄介である。しかし彼女はすぐには叫ばず、代わりに手元の桶を少し脇へ寄せて立ち上がった。その動作は慎重だが、完全な拒絶ではない。よし、と吾輩は内心で小さく頷いた。人は、逃げる時と近づく時で重心が違う。彼女はいま、逃げる体勢ではない。
もっとも、ここで吾輩が勝手に希望を膨らませるのは危険である。半歩進んだと見えた場面が、次の瞬間には一歩退くこともある。それでも、何もしなければ何も起こらぬ。吾輩がいまやるべきことは、さらに言葉を重ねることではなく、沈黙を破綻させぬことである。ややこしいようだが、つまり余計なことをしないということだ。
しかし、余計なことをしないというのは、考えすぎる人間にとって非常に難しい。吾輩など、その最たるものであろう。頭の中ではすでに、この先の十通りほどの展開が勝手に始まっている。少女が青石を拾う場合、拾わぬ場合、質問する場合、家を呼ぶ場合、羊が鳴く場合、こちらの外套の裾から足が覗いて怪しまれる場合――。まったく、想像力というものは文学には資するが、こういう実地では少々騒がしすぎる。
吾輩はそこで、もう一つだけ手を打つことにした。
荷の中から、小さな乾草の束を取り出したのである。もとは薬草のつもりで集めていたが、見た目にはただの香りのよい草である。これを羊の方へ、いや、正確には羊の少し手前へ、そっと差し出してみる。家畜に危害を加える意図がないことを示せるし、場合によっては「家畜に慣れた旅人」という印象も添えられるかもしれぬ。むろん、羊が興味を示さなければただの間抜けだが、間抜けであることは怪物であることより害が少ない。
案の定、一匹の羊がのそのそと首を伸ばしてきた。ありがたい畜生である。少女もそれを見て、ほんの少しだけ表情を緩めたように見えた。家畜は正直だ。危険な相手にはそれなりの反応をする。羊が平然としていることが、吾輩にとっては何よりの弁護になった。
なるほど、言葉がなくとも会話の端緒は作れるらしい。
この発見は、吾輩に小さくない勇気を与えた。もちろん、ここから先が本番である。青石一つ、草一束、喉を押さえる仕草だけで、いきなり信頼が得られるほど世の中は甘くない。だが少なくとも、最初の恐慌を避けることには成功しかけている。文学でいえば、これはまだ題名と冒頭の一段落にすぎぬ。けれども、題名と冒頭をしくじれば、その先は読まれぬのだ。人生もおおよそ同じである。
少女は一歩、こちらへ近づいた。
吾輩は動かなかった。動きたい気持ちをぐっと抑えた。こういう時、歓迎のつもりで不用意に近寄ると、人間はたいてい後ずさる。距離とは、相手に選ばせる方がよい。これもまた、文体に似ている。読者を押しつけがましく引っぱるより、一歩分だけ余白を残した方が、かえって向こうから近づいてくることがある。
もっとも、そんな文学めいた感慨に浸っている場合でもない。吾輩の外套の下では、脚が少し震えていた。緊張か、夜気のせいか、その両方だろう。だがここまで来た以上、引き返すわけにもいかぬ。第一歩がなければ第二歩もない。ゴブリンとして生きるにせよ、人間社会に紛れ込むにせよ、いま目の前にあるこの数歩分の沈黙を渡らねば、何も始まらぬのである。
吾輩は、喉に手を当てたまま、もう一度だけ静かに頭を下げた。
言葉の代わりになるものを、人は案外たくさん持っている。手の向き、重心、差し出す物、引く間合い、そして頭を下げる角度。生前の吾輩は、言葉こそが人間の本丸だと思っていたが、いまは少し考えが変わりつつある。言葉はたしかに大事だ。しかし言葉の前にも、そして後にも、まだいくつもの文法がある。吾輩はようやく、その初歩を怪物の身で学び始めたのかもしれぬ。
さて、少女はこの沈黙をどう読むだろうか。そこから先は、もはや吾輩一匹の思索では決まらぬ。会話というものは、結局いつだって二人以上のものだからである。




