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女子寮前・50メートルの攻防  作者: 青葉盛生
9/10

最後の寮坂、手前で止まる彼女

「あと15メートル」が、ずっと終わらない。


寮坂の手前で足を止める遙。今日が終わることに、ほんの少しだけためらいを覚えた彼女と、その背を見つめる悠人。

送ることが、ふたりをつなげていた時間――でも、引っ越しの報せとともに“役目の終わり”が静かに訪れる。


これは、静かな坂の途中で交わされる、関係性の最後の会話。

1990年代の空気感と、“アッシー君”という言葉に込められた距離感を描いた第九章です。

 寮へ続く坂は、大学の裏手にそっと伸びていた。

 舗装された下り坂。部屋へ戻る道。けれど今日は、その距離がやけに遠く感じた。


 遙は、坂の入口で立ち止まっていた。

 雨はとっくに止んでいたが、地面にはまだ濡れた記憶が残っていた。

 遠くを車が通り過ぎる音だけが、夜の始まりを知らせていた。


 悠人は、15メートルほど手前から彼女の背を見つけた。

 進もうとした足を、ほんのわずかためらわせる空気があった。


 彼女は、坂をじっと見下ろしている。

 視線の奥には、なにか“終わってしまうもの”が映っているようだった。


「……今日は、降りるのがちょっと怖いかも」


 遙が呟いた。声は小さく、でも確かに今の空気のなかで響いた。


「あと15メートルなのに?」

「うん。“あと15メートル”が、ずっと終わらない気がして」


 その言葉には、時間を止めようとする願いが込められていた。

 進んでしまえば、今日が終わる。でも、進まなければ、今日に残れる。


 悠人は、そっとベンチのそばまで歩いていき、斜めに腰かけた。

 互いの距離は15メートルのまま。でも、心はそれを越えようとしていた。


「……この前、雨のコンビニのとき」

 遙がぽつりと話し出した。


「“乗ってく?”って言ってくれたの、すごく、うれしかった」

「覚えてるよ。静かな夜だった」


「車の中も。何も話さなくていいのに、話したくなる感じがして」

「送るよ、って言ったとき、遙がうなずいてくれたの、なんか忘れられない」


 風が吹いた。遙の髪が少し揺れた。坂の街灯が、二人を長く照らしていた。


「今日、言おうと思ってたことがあるの」


 悠人は、彼女の方を見た。


「引っ越し、決まったんだ。来月の頭」

「……そっか」

「駅の近く。便利そうで、人も多いし、夜でも安心っぽい」


 彼女は少し笑った。

 その笑顔が、ふたりの時間に風穴を開ける予感がした。


「だから……もう送らなくていいよ」


 悠人の胸の奥に、静かな音が響いた。

 それは“役目の終わり”の音。送る時間の終わり。つながる理由の終わり。


「……うん、わかった」

 そう言った声が、自分のものじゃないように感じた。


「ありがとう、たくさん送ってくれて。悠人って、ほんと丁寧な人だった」


 それは、感謝の言葉以上に、“終わりの言葉”だった。

 坂道の下にある寮の玄関が、少しだけ遠くなった。


 遙は鍵を取り出し、背を向けた。

 悠人は、それを追いかけることなく、しばらくそこに立っていた。


 そして、ゆっくりと歩き出す。

 追いかけるものがない夜道は、やけに広くて、やけに静かだった。

この章は、“終わらない15メートル”という距離に、関係の名残を重ねて描きました。


送ることが日常だったふたりにとって、それが終わることは、言葉では表しきれない喪失でもあります。

車の中の沈黙、コンビニ前の呼びかけ、寮坂の手前で立ち止まった遙の背――どれも、言葉になる直前の感情を拾い上げるような時間でした。


「もう送らなくていいよ」という一言が、優しさと哀しさを含んだ“関係の最後の一言”であること。

その静けさが、90年代の「アッシー君」的な立ち位置に繋がる気がしています。


次の章では、悠人の時間がどう動いていくのか。

遙の「一人で向かう場所」が、ふたりの記憶に何を残すのか――少しずつ、続きを紡いでいきます。

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