最後の寮坂、手前で止まる彼女
「あと15メートル」が、ずっと終わらない。
寮坂の手前で足を止める遙。今日が終わることに、ほんの少しだけためらいを覚えた彼女と、その背を見つめる悠人。
送ることが、ふたりをつなげていた時間――でも、引っ越しの報せとともに“役目の終わり”が静かに訪れる。
これは、静かな坂の途中で交わされる、関係性の最後の会話。
1990年代の空気感と、“アッシー君”という言葉に込められた距離感を描いた第九章です。
寮へ続く坂は、大学の裏手にそっと伸びていた。
舗装された下り坂。部屋へ戻る道。けれど今日は、その距離がやけに遠く感じた。
遙は、坂の入口で立ち止まっていた。
雨はとっくに止んでいたが、地面にはまだ濡れた記憶が残っていた。
遠くを車が通り過ぎる音だけが、夜の始まりを知らせていた。
悠人は、15メートルほど手前から彼女の背を見つけた。
進もうとした足を、ほんのわずかためらわせる空気があった。
彼女は、坂をじっと見下ろしている。
視線の奥には、なにか“終わってしまうもの”が映っているようだった。
「……今日は、降りるのがちょっと怖いかも」
遙が呟いた。声は小さく、でも確かに今の空気のなかで響いた。
「あと15メートルなのに?」
「うん。“あと15メートル”が、ずっと終わらない気がして」
その言葉には、時間を止めようとする願いが込められていた。
進んでしまえば、今日が終わる。でも、進まなければ、今日に残れる。
悠人は、そっとベンチのそばまで歩いていき、斜めに腰かけた。
互いの距離は15メートルのまま。でも、心はそれを越えようとしていた。
「……この前、雨のコンビニのとき」
遙がぽつりと話し出した。
「“乗ってく?”って言ってくれたの、すごく、うれしかった」
「覚えてるよ。静かな夜だった」
「車の中も。何も話さなくていいのに、話したくなる感じがして」
「送るよ、って言ったとき、遙がうなずいてくれたの、なんか忘れられない」
風が吹いた。遙の髪が少し揺れた。坂の街灯が、二人を長く照らしていた。
「今日、言おうと思ってたことがあるの」
悠人は、彼女の方を見た。
「引っ越し、決まったんだ。来月の頭」
「……そっか」
「駅の近く。便利そうで、人も多いし、夜でも安心っぽい」
彼女は少し笑った。
その笑顔が、ふたりの時間に風穴を開ける予感がした。
「だから……もう送らなくていいよ」
悠人の胸の奥に、静かな音が響いた。
それは“役目の終わり”の音。送る時間の終わり。つながる理由の終わり。
「……うん、わかった」
そう言った声が、自分のものじゃないように感じた。
「ありがとう、たくさん送ってくれて。悠人って、ほんと丁寧な人だった」
それは、感謝の言葉以上に、“終わりの言葉”だった。
坂道の下にある寮の玄関が、少しだけ遠くなった。
遙は鍵を取り出し、背を向けた。
悠人は、それを追いかけることなく、しばらくそこに立っていた。
そして、ゆっくりと歩き出す。
追いかけるものがない夜道は、やけに広くて、やけに静かだった。
この章は、“終わらない15メートル”という距離に、関係の名残を重ねて描きました。
送ることが日常だったふたりにとって、それが終わることは、言葉では表しきれない喪失でもあります。
車の中の沈黙、コンビニ前の呼びかけ、寮坂の手前で立ち止まった遙の背――どれも、言葉になる直前の感情を拾い上げるような時間でした。
「もう送らなくていいよ」という一言が、優しさと哀しさを含んだ“関係の最後の一言”であること。
その静けさが、90年代の「アッシー君」的な立ち位置に繋がる気がしています。
次の章では、悠人の時間がどう動いていくのか。
遙の「一人で向かう場所」が、ふたりの記憶に何を残すのか――少しずつ、続きを紡いでいきます。