名前のない距離
冬休みに入り、駅前では門松の土台だけがぽつんと置かれていた。
晴れているけれど、風は冷たく、アスファルトの色が冬だった。
前日、放送部の倉庫で遙に声をかけられた。
「……明日、高崎まで帰るんだけど。車、もし空いてたら、送ってもらえたりする?」
その声は、いつも通りだった。
少しだけ急いでいて、でも悠人の顔は見ていなかった。
悠人は「うん」とだけ返した。
あとは何も聞かなかったし、遙も何も言わなかった。
待ち合わせ場所すら決めていなかったけれど、悠人は駅前の改札のベンチに向かった。
そこに、遙がいるような気がしたからだった。
彼女は、毛糸の帽子をかぶっていて、小さなトートバッグと茶色い紙袋を持っていた。
立ち上がると、「ごめん、混んでなかった?」とだけ言った。
車に乗るまでの間も、車に乗ってからも、ほとんど言葉はなかった。
でも沈黙は、寒さよりもやさしくて、長く続いても重くならなかった。
高崎へ向かう途中、遠くの稜線だけが、ほんの少しだけ白く染まっていた。
*
駅からさらに十五分ほど、住宅街の先に、小さな公園があった。
木々は葉を落としていて、遊具のペンキが少し剥がれていた。
「ここ、昔、写生大会で来た」
遙がぽつりとつぶやいた。
「なに描いたかは、忘れたけど」
悠人はベンチの端に座って、遙と並ぶ。
言葉は探さなかった。ただ、目の前の鉄棒が冬の光を反射していた。
「家族って、思い出そうとすると、場所ばっかり出てくるよな」
遙は、指先でベンチの端をなぞった。
「色とか、風の匂いは思い出せる。でも、誰が言ってくれたとか、もう曖昧」
「それでも、ここに座ったってことは、残ってるんだな」
「……父親がね、昔ラジオよく流してて。寝る前、天気予報とか短いニュース聞かされてた」
「今も聴いてるの、そういう理由?」
「うーん……たぶん、“置いてかれないように”聴いてたのかも。
周りがどんどん変わるのに、音だけは変わらないから」
公園の端で、小学生が自転車を止めて立ち話していた。
遙はそれを少し見つめていたが、すぐに目をそらした。
「それ、ちゃんと“思い出”じゃん」
「……かもね。でも、なんで今ここで話してるのか、よく分かんない」
悠人は、言葉を一度飲み込んでから、言った。
「俺さ、あの放送部のテープ、今でもちょっと持ち歩いてる。編集したやつ。
たぶん、あれ聴いてると、なんか黙ってる時間でも“話せてる”感じがする」
遙はふっと笑った。
「それって……なんか不思議だけど、分かる気がする。
沈黙って、“何もない”ってことじゃなくて、“話したいことを持ってる”ってことなんだよね」
空は、まだ明るかった。
けれど風が吹くと、午後四時の空気が沈黙のように冷えてくる。
遙が、そっと立ち上がった。
「母、そろそろ仕事終わる時間だから。送ってくれて、ありがと」
「うん。……俺、ただの車係じゃないよな?」
遙は少しだけ目を丸くして、それからまっすぐ前を向いて言った。
「“沈黙のときに、隣にいてくれる人”って、たぶんそれだけで特別だよ」
*
実家の前に車を止めると、玄関の明かりがすでに灯っていた。
遙が降りると、母親がドアの奥から姿を見せた。
「あら、遠くまで送ってくれたのね。寒かったでしょう?」
「いえ、平気です」
悠人がそう答えると、母は少し微笑んでから、ふと娘の方を見た。
「遙、ちゃんとお礼言った?」
「……うん」
その会話だけで、悠人はもう車のドアに手をかけていた。
扉を閉めようとすると、母がもう一度静かに言った。
「ありがとうね。冬は冷えるから、道、気をつけて」
悠人は軽く頭を下げて、ハンドルを握った。
*
帰り道。
車の中では放送部のテープが静かに再生されていた。
数日前に録音したままの一曲が、いつもよりゆっくり聴こえた。
遙の声が重なっていないはずなのに、なぜかその音の隙間に彼女の気配があるような気がした。
空は暗くなり始めていたが、街灯の下を通るたび、少しだけ景色がよみがえった。
悠人は、言葉を探そうとしなかった。
そのかわり、“沈黙のままでも届くもの”が、本当にあるのかもしれないと思った。
そして、そのひとつを今日、自分の手で運んできたのだと――気づいた。
今回のエピソードは、静かな冬の移動時間の中で、“沈黙のそばにいること”の意味を少しだけ掘り下げてみました。
ただの送迎では終わらない、言葉にならない気配をひとつ積み重ねられた気がします。
ちなみに悠人の帰りの高速代とガソリン代ですが、ご安心を。
実家前でお母さんが「ありがとね」とあたたかく声をかけてくださり、お茶を一杯いただいたあとで、そっと小さな封筒を渡してくださいました。
“送り届けてくれた沈黙”への、静かな感謝だったのかもしれません。