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女子寮前・50メートルの攻防  作者: 青葉盛生
8/10

名前のない距離

冬休みに入り、駅前では門松の土台だけがぽつんと置かれていた。

晴れているけれど、風は冷たく、アスファルトの色が冬だった。


前日、放送部の倉庫で遙に声をかけられた。


「……明日、高崎まで帰るんだけど。車、もし空いてたら、送ってもらえたりする?」


その声は、いつも通りだった。

少しだけ急いでいて、でも悠人の顔は見ていなかった。


悠人は「うん」とだけ返した。

あとは何も聞かなかったし、遙も何も言わなかった。


待ち合わせ場所すら決めていなかったけれど、悠人は駅前の改札のベンチに向かった。

そこに、遙がいるような気がしたからだった。


彼女は、毛糸の帽子をかぶっていて、小さなトートバッグと茶色い紙袋を持っていた。

立ち上がると、「ごめん、混んでなかった?」とだけ言った。


車に乗るまでの間も、車に乗ってからも、ほとんど言葉はなかった。

でも沈黙は、寒さよりもやさしくて、長く続いても重くならなかった。


高崎へ向かう途中、遠くの稜線だけが、ほんの少しだけ白く染まっていた。



駅からさらに十五分ほど、住宅街の先に、小さな公園があった。

木々は葉を落としていて、遊具のペンキが少し剥がれていた。


「ここ、昔、写生大会で来た」


遙がぽつりとつぶやいた。


「なに描いたかは、忘れたけど」


悠人はベンチの端に座って、遙と並ぶ。

言葉は探さなかった。ただ、目の前の鉄棒が冬の光を反射していた。


「家族って、思い出そうとすると、場所ばっかり出てくるよな」


遙は、指先でベンチの端をなぞった。


「色とか、風の匂いは思い出せる。でも、誰が言ってくれたとか、もう曖昧」


「それでも、ここに座ったってことは、残ってるんだな」


「……父親がね、昔ラジオよく流してて。寝る前、天気予報とか短いニュース聞かされてた」


「今も聴いてるの、そういう理由?」


「うーん……たぶん、“置いてかれないように”聴いてたのかも。

周りがどんどん変わるのに、音だけは変わらないから」


公園の端で、小学生が自転車を止めて立ち話していた。

遙はそれを少し見つめていたが、すぐに目をそらした。


「それ、ちゃんと“思い出”じゃん」


「……かもね。でも、なんで今ここで話してるのか、よく分かんない」


悠人は、言葉を一度飲み込んでから、言った。


「俺さ、あの放送部のテープ、今でもちょっと持ち歩いてる。編集したやつ。

たぶん、あれ聴いてると、なんか黙ってる時間でも“話せてる”感じがする」


遙はふっと笑った。


「それって……なんか不思議だけど、分かる気がする。

沈黙って、“何もない”ってことじゃなくて、“話したいことを持ってる”ってことなんだよね」


空は、まだ明るかった。

けれど風が吹くと、午後四時の空気が沈黙のように冷えてくる。


遙が、そっと立ち上がった。


「母、そろそろ仕事終わる時間だから。送ってくれて、ありがと」


「うん。……俺、ただの車係じゃないよな?」


遙は少しだけ目を丸くして、それからまっすぐ前を向いて言った。


「“沈黙のときに、隣にいてくれる人”って、たぶんそれだけで特別だよ」



実家の前に車を止めると、玄関の明かりがすでに灯っていた。

遙が降りると、母親がドアの奥から姿を見せた。


「あら、遠くまで送ってくれたのね。寒かったでしょう?」


「いえ、平気です」


悠人がそう答えると、母は少し微笑んでから、ふと娘の方を見た。


「遙、ちゃんとお礼言った?」


「……うん」


その会話だけで、悠人はもう車のドアに手をかけていた。


扉を閉めようとすると、母がもう一度静かに言った。


「ありがとうね。冬は冷えるから、道、気をつけて」


悠人は軽く頭を下げて、ハンドルを握った。



帰り道。

車の中では放送部のテープが静かに再生されていた。


数日前に録音したままの一曲が、いつもよりゆっくり聴こえた。


遙の声が重なっていないはずなのに、なぜかその音の隙間に彼女の気配があるような気がした。


空は暗くなり始めていたが、街灯の下を通るたび、少しだけ景色がよみがえった。


悠人は、言葉を探そうとしなかった。

そのかわり、“沈黙のままでも届くもの”が、本当にあるのかもしれないと思った。


そして、そのひとつを今日、自分の手で運んできたのだと――気づいた。

今回のエピソードは、静かな冬の移動時間の中で、“沈黙のそばにいること”の意味を少しだけ掘り下げてみました。

ただの送迎では終わらない、言葉にならない気配をひとつ積み重ねられた気がします。

ちなみに悠人の帰りの高速代とガソリン代ですが、ご安心を。

実家前でお母さんが「ありがとね」とあたたかく声をかけてくださり、お茶を一杯いただいたあとで、そっと小さな封筒を渡してくださいました。

“送り届けてくれた沈黙”への、静かな感謝だったのかもしれません。


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