キラキラじゃない時間
忘れかけていた文化祭の夜。
展示を終えたあとの女子寮に流れる、疲労とやさしさが混じった空気。
藤枝は関西出身の福祉系サークルの先輩。言葉は率直だけど、思いやりに満ちた性格。
結衣は同室の友人で、控えめながらも穏やかに場を支える存在です。
そんなふたりに囲まれながら、遥は「好き」の手前にある揺れを、アイスの甘さとラジオの静けさのなかで確かめようとします。
気遣いも言葉も、それを言わない沈黙も――誰かを想う気持ちは、いつも形にならないまま揺れています。
小さな会話と静かな気配に、耳を澄ませてみてください。
文化祭展示の撤収を終えた夜、女子寮の三階の廊下には、どこか静かな疲労の気配が漂っていた。遥は部屋のドアを開け、結衣の背中越しに冷蔵庫の中身をのぞき込む。
「アイス、まだあったっけ?」
「あるよ。チョコミントと…あ、バニラも。遥ちゃん、ミント苦手だったよね」
「うん。バニラ、もらってもいい?」
「もちろん。じゃあ私はミントの方で」
そのとき、部屋のドアがノックもなくするりと開いて、少し明るい声が滑り込んできた。
「ちょっとだけ、冷たいもん差し入れに来たよ~。展示、おつかれさま!」
結衣が目を丸くする。「恵ちゃん、また来たの? 今晩は静かにしようって言ってたのに~」
「大丈夫やって。これ、赤穂の塩使ってるんやで~、限定アイス。うちの地元、ちょっとだけ自慢」
「しょっぱい系か~」結衣が苦笑する。「遥ちゃんはどうかな」
遥は袋を見て、小さく首を傾げる。「……うち、ちょっとしょっぱいの苦手かも」
「そっか、ごめんな。こっちのバニラにしとき。うちがそれ食べるわ」
藤枝は笑顔のまま、ふたを開ける。「それにしても、ほんま展示、よう片付いてたなあ。見てるだけで背中バキバキやったわ」
ラジオのカセットをセットしながら、結衣が言う。「遥が助けてくれたからだよ。最後のとこ、机運んでくれたし」
「悠人くんも、手伝いに来てたやろ? 遥ちゃん、また送ってもろたん?」
遥はスプーンを止める。
「……うん。展示のあと、ちょっとだけ話して、それで」
「ふ〜ん」恵が頷く。「ああいうのって、やっぱええよな。ひとの気遣いって、ほんま距離を縮める思う」
「……気遣い、っていうより……」
言いかけて、遥は言葉を飲んだ。結衣が静かに補うように言った。
「彼って、そういうタイプじゃないよ。“やってあげてる”って感じじゃない」
「そうなん? でも毎日送ってきてくれてるんやろ? 寮までって、なかなかやで」
「うん。でも、それが目的じゃない気がする」
遥がぽつりと言う。
「空気、みたいな感じ。会話なくても、なんか……流れる時間に一緒に乗ってるっていうか」
「……なんやそれ、FMみたいな?」
「そうかも。今のラジオでも言ってた。“静かな時間を共有する”って、大事って」
ラジカセからは、DJの落ち着いた声が流れ続けている。二人の言葉に、藤枝がうっすら笑って言う。
「そういうの、好きやけど……うちはどっちかいうと、ハッキリ伝えた方がええと思ってまうな。“好き”なら“好き”って言うて、“関係”にせな。福祉の現場でもさ、曖昧にしてたら誤解生まれるって、ようあるで」
「藤枝さん、それってさ……」結衣がアイスの空きカップを手に、ゆっくり言った。
「ラジオじゃなくて、接客トークやん」
「ええ〜、そやけど、やっぱ言わんと伝わらへんもんやろ? 遥ちゃん、どっちなん? 彼のこと」
遥はしばらく黙っていた。
「……好きかって言われると、すぐには言えへん。けど、離れたらきっと……さみしいと思う」
その言葉に、部屋の空気がほんの少しだけ、やわらかくなる。
「ほな、それでええやん。うちはそれ、十分好きやと思うで」
「……うん。でもさ、好きってだけじゃ、追いつかへんこともあると思う」
恵は目を瞬く。「そういうこと、あるんやな」
結衣がラジカセのボリュームを少しだけ上げる。「この回、遥ちゃんが一番好きなんだよね」
「うん。なんか、遠くで聴こえてくるみたいで……海の音みたい」
窓の外から、車が一台通り過ぎる音が、かすかに響く。
それを聞いた遥は、ふと目を伏せて微笑んだ。
まるで、その音が悠人の存在を知らせてくれるかのように。
アイスの味やラジオの声、夜の車の音――
それぞれが記憶のなかで、遥にとって“海の音”のようになっていた気がします。
この章を書いていて思ったのは、「関係」という言葉のありかです。
好き、とは言い切れない。けれど、離れたら寂しい。
誰かと一緒に流れる時間に身を預けること――
それが、今の彼女にとっての“近さ”なのかもしれません。
そして、藤枝や結衣という静かな対話者がいてくれることで、その気持ちに少しだけ輪郭が与えられていく。
この章は、はっきりと語らないまま繋がっていく、そんな夜の物語です。
お読みくださり、ありがとうございました。