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女子寮前・50メートルの攻防  作者: 青葉盛生
5/10

昼のFMとトイレ練習

 午後6時45分。住宅街の細道を抜ける車の窓から、まだ涼み切らない風が入り込んできた。


 助手席の遥は、食材メモのページをめくりながら言った。


「今日さ、チョコバナナのクレープ、昼休みの後半でもう完売だったらしい」


 メモの端に、“昼休み・売り切れ”と赤ペンで走り書きがしてある。


「やっぱ、追加で買い足ししとくべきだったな」


 悠人はハンドル越しにゆっくりと頷いた。


「でも、昼前に駅前の青果店寄っておいたのは正解だったろ。バナナ、あそこが火曜だけ3割引になるの、覚えてたし」


「悠人、ほんと地元の店詳しすぎる。あのコンビニの値引きより早いってわかってたもんね」


「おかげで買い物係に選ばれたようなもんだけどな。選ばれし者の嗅覚だよ」


「それ、昨日のFMで流れてた曲みたいな言い方。地味だけど光るやつ」


 ふたりは笑った。車内には音楽は流れていない。ただ、住宅街を抜ける風の隙間に、昼間の記憶がひっそり溶け込んでいる。


「今日の昼、学食でFMラジオ流れてたよね。懐かしい曲だった」


 遥がぽつりとつぶやく。悠人は目線を前方に向けたまま、小さく笑った。


「誰の曲だった? 名前、聞いてた?」


「わかんない。DJの人、たしか曲名言ってた気がするけど……学食騒がしくて聞き逃した。あの人、声低いからさ」


「でも歌詞に“坂道”ってあったよな。なんかその瞬間、窓から見えるバス通りが、いつもより“風景っぽく”見えた」


「うん……不思議だけど、思い出になる感じだった」


 ふたりの間に少し沈黙があった。風がエンジン音に紛れて通り過ぎていく。


「ハガキ出そうかな。あの番組に。“昼のFM、○曜日の午後に流れた曲について教えてください”って」


「そういう問い合わせって通じる?」


「FM雑誌に宛先載ってたと思う。学食で聴いた感じも書けば伝わるでしょ」


 悠人はハンドルを少しだけ右に切りながら、ふと口を開いた。


「俺、中二のとき、FMの人にハガキ送ったことあるんだ」


「え、まじで? 何について?」


「ギター始めたばっかで、“どうしたらうまくなりますか”って聞いたんだ」


「で、返事来たの?」


「来た。放送で読まれてさ。DJの人が言ってた——“トイレに行く時もギターを持ちなさい”って」


「それ、熱血超えて伝説。トイレ練って……ギター抱えて個室かよ」


「でもなんか、それがすごく残ってるんだよな。真面目な話か冗談か分かんないけど、あの頃の空気って、そういう感じだった」


 ふたりはまた、静かに笑った。


 ライトが寮前の坂道を照らし、門限前に帰ろうとする学生たちの影がちらほら見える。車が緩やかに停車した。


「悠人、明日、昼休み空いてる?」


「多分、学食には行けると思うけど……FM、番組違うかもしれないな」


「でも、“坂道のやつ”また流れる気がする。今度こそ、曲名聞き逃さないようにしたい」


「学食ってさ、後ろの卓球部がうるさいじゃん。あと、DJの人ってたまに早口になるからなぁ」


「じゃあ、耳すませる練習する? トイレ練よりむずいけど」


「それ、もはや修行じゃん」


 ふたりは軽く笑いながら降りる準備をする。ドアの開閉音のあと、夜の空気が、学食の昼とはまるで違う“無音”で包み込んできた。


 FMラジオの音は今、流れていない。でも、昼の曲——歌詞に“坂道”があったそれは、ふたりの記憶のどこかで静かに流れ続けていた。

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