昼のFMとトイレ練習
午後6時45分。住宅街の細道を抜ける車の窓から、まだ涼み切らない風が入り込んできた。
助手席の遥は、食材メモのページをめくりながら言った。
「今日さ、チョコバナナのクレープ、昼休みの後半でもう完売だったらしい」
メモの端に、“昼休み・売り切れ”と赤ペンで走り書きがしてある。
「やっぱ、追加で買い足ししとくべきだったな」
悠人はハンドル越しにゆっくりと頷いた。
「でも、昼前に駅前の青果店寄っておいたのは正解だったろ。バナナ、あそこが火曜だけ3割引になるの、覚えてたし」
「悠人、ほんと地元の店詳しすぎる。あのコンビニの値引きより早いってわかってたもんね」
「おかげで買い物係に選ばれたようなもんだけどな。選ばれし者の嗅覚だよ」
「それ、昨日のFMで流れてた曲みたいな言い方。地味だけど光るやつ」
ふたりは笑った。車内には音楽は流れていない。ただ、住宅街を抜ける風の隙間に、昼間の記憶がひっそり溶け込んでいる。
「今日の昼、学食でFMラジオ流れてたよね。懐かしい曲だった」
遥がぽつりとつぶやく。悠人は目線を前方に向けたまま、小さく笑った。
「誰の曲だった? 名前、聞いてた?」
「わかんない。DJの人、たしか曲名言ってた気がするけど……学食騒がしくて聞き逃した。あの人、声低いからさ」
「でも歌詞に“坂道”ってあったよな。なんかその瞬間、窓から見えるバス通りが、いつもより“風景っぽく”見えた」
「うん……不思議だけど、思い出になる感じだった」
ふたりの間に少し沈黙があった。風がエンジン音に紛れて通り過ぎていく。
「ハガキ出そうかな。あの番組に。“昼のFM、○曜日の午後に流れた曲について教えてください”って」
「そういう問い合わせって通じる?」
「FM雑誌に宛先載ってたと思う。学食で聴いた感じも書けば伝わるでしょ」
悠人はハンドルを少しだけ右に切りながら、ふと口を開いた。
「俺、中二のとき、FMの人にハガキ送ったことあるんだ」
「え、まじで? 何について?」
「ギター始めたばっかで、“どうしたらうまくなりますか”って聞いたんだ」
「で、返事来たの?」
「来た。放送で読まれてさ。DJの人が言ってた——“トイレに行く時もギターを持ちなさい”って」
「それ、熱血超えて伝説。トイレ練って……ギター抱えて個室かよ」
「でもなんか、それがすごく残ってるんだよな。真面目な話か冗談か分かんないけど、あの頃の空気って、そういう感じだった」
ふたりはまた、静かに笑った。
ライトが寮前の坂道を照らし、門限前に帰ろうとする学生たちの影がちらほら見える。車が緩やかに停車した。
「悠人、明日、昼休み空いてる?」
「多分、学食には行けると思うけど……FM、番組違うかもしれないな」
「でも、“坂道のやつ”また流れる気がする。今度こそ、曲名聞き逃さないようにしたい」
「学食ってさ、後ろの卓球部がうるさいじゃん。あと、DJの人ってたまに早口になるからなぁ」
「じゃあ、耳すませる練習する? トイレ練よりむずいけど」
「それ、もはや修行じゃん」
ふたりは軽く笑いながら降りる準備をする。ドアの開閉音のあと、夜の空気が、学食の昼とはまるで違う“無音”で包み込んできた。
FMラジオの音は今、流れていない。でも、昼の曲——歌詞に“坂道”があったそれは、ふたりの記憶のどこかで静かに流れ続けていた。