あと十分の静けさ
21時50分。車の時計が、通学通りに点々と並ぶ街灯の明かりとともに、静かに時間を刻んでいた。
寮前まで送るには、坂の途中にあるカーブで止まるしかない。最後の50メートルほどは徒歩でしか入れない。門限が近づく頃になると、恋人と思われる車たちは次々そこに留まり、女の子たちが1人、また1人とドアを開けて降りていく。
けれど、助手席の遥はまだ降りなかった。ドアに手はかけているのに、開ける素振りはない。外では虫の音が静かに響き、どこかの部屋で流れているラジオの声が、夜気に混じって車内へ届いていた。
「門限って、22時までなんだよね?」
僕が声をかけると、彼女はうなずいた。
「はい。あと10分くらいです」
それ以上、言葉が続かない空気が漂っていた。助手席の窓は少しだけ開いていて、そこから夜風がゆるやかに流れ込んでくる。涼しいはずなのに、彼女の指先はバッグの縁をぎゅっと握りしめていた。
「前に門限、少しだけ遅れたことがあるって……言ってたよね?」
「……あります。去年、ほんの数分だけ」
「そのとき、“御謝会”ってやつ、呼ばれるんだよね」
遥は笑わなかった。ただ、表情を変えずに「はい」とだけ答えた。
「集会室で反省文を書かされます。遅れた理由を800字で。誤字があったら訂正されて、名前と学年も書いて提出。御謝会では、寮長、副寮長などの役員5人に囲まれて、尋問と謝罪をしなければなりません」
「……本格的なんだな」
「叩かれたり、殴られたりはしません。ただ……その場では、時間だけが過ぎていくんです。静かに、自分が否定されていくような……そんな感覚になります」
その言葉は、助手席の窓の隙間から夜へ抜けていくようだった。車内は狭いはずなのに、彼女の語る時間はその外に広がっているように感じた。僕は運転席にいるけれど、その場所には立ち入れない気がした。
遥は続けた。
「高校卒業後の1年間、住み込みの社員寮にいました。そこでは、食事があるかないかとか、帰りが遅れるとか……連絡さえしていれば特に咎められることはなかったんです。だから、この寮のルールには、正直、驚きました」
「声をかけられる方が、まだ……救われるのかもな」
「はい。叱られても、怒られても……そこに感情があるなら、そのほうが安心します」
バッグから鍵を取り出す彼女の指先が、かすかに震えていた。それに触れないように、僕はラジオの音量を少しだけ下げた。夜の静けさが、いっそう濃くなったように思えた。
「今も……その感覚って、残ってる?」
一呼吸置いて、遥は首を小さく振った。
「今は、自分で考えて、自分で動いています。ただ……門限が近づいてくると、急に体が冷えるような感じがするんです。あの時間に戻るような、そんな感覚が少しだけ」
カーライトが点滅した。前に停まっていた送迎車が、1人の女子寮生を見送ってバックで坂道を下っていく。角をまわると、ヘッドライトがふわりと夜の壁を照らした。
「今日は間に合うよ。あと7分ある」
「……はい。間に合います」
遥は鍵をバッグにしまい直すと、ゆっくりとドアに手をかけた。開ける前に、ふとつぶやいた。
「去年、その会のあと、泣いてる子がいて。でも、誰もそれについて何も言わなかったんです。その空気が……ずっと残ってて」
「残るね、そういうのは」
彼女はドアを開けた。夜気が、いっそう濃く車内に流れ込んできた。彼女は1度だけこちらを振り返って、「ありがとうございました」と小さく言った。
その声の温度は、門限の緊張の外にあるように思えた。
僕は窓から、彼女の背を目で追った。寮坂の途中で、遥は少しだけ立ち止まり、それから歩き出した。最後の50メートル――その距離は、彼女にとって短くて、長い時間なのかもしれない。
21時57分。助手席のドアは静かに閉じられ、車の中にまた、僕ひとりの夜が戻ってきた。