寮坂の50メートル
雨の夜から数日後。春の風に混じって、街には新歓のにぎやかなポスターが貼り出されていた。
新月寮の前、踏切のカンカンという音が、夕暮れのテンポを決めている。
悠人は車を寮坂の手前に止めていた。
あれから何かが変わったわけではないが、気づくと彼女――遥のことを考える時間が増えていた。
「アッシーじゃなくていい。ちょっとだけ話がしたいだけで」
そんな思いが、アクセルに乗るまでには至らず、ただ窓を開けて外気を感じていた。
すると、坂の下に姿を現した遥は、思ったよりも早く彼を見つけたようだった。
「また……乗せてくれるの?」
その声には、あの夜と同じ“迷い”が混じっていた。でも、その迷いの輪郭は、少しだけ柔らかかった。
「乗ってく?」と悠人。窓越しに笑顔を見せながら。
「うん。でも、ちょっとだけ、遠回りしてもいい?」
車は寮坂をすっと通り過ぎ、線路沿いの道に向かった。そこは、学生街には珍しく静かな通りだった。
「ここの桜、好きなんだ」遥が言った。車窓から見える一本の樹が、まだ五分咲きだった。
「門限、間に合う?」悠人は小さく聞いた。
「今日は……ルームメイトが鍵持ってるから。ちょっとなら平気」
ゆっくりと走る車内には、あの日の雨の音ではなく、春の匂いとエンジンの微かな鼓動が流れていた。
信号で停まったとき、遥は助手席の傘を指して言った。
「あの日、ほんとに助かったんだよ。あんな偶然、ないよね」
悠人は小さく笑い、「偶然じゃなくて……たぶん、タイミングだと思う」とつぶやいた。
その言葉に、遥がどんな表情をしていたかは、信号が青になってすぐに動き出したため見逃してしまった。
ただ――あの50メートルの寮坂が、ふたりの距離感を測る定規になった気がした。