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女子寮前・50メートルの攻防  作者: 青葉盛生
1/10

門限と傘と、あの夜の距離

忘れかけた過去の「グッとくる瞬間」に、もう一度スポットライトを当ててみませんか。

たとえば、週末の終わり――日曜の夜にふと訪れた、あの気配。

誰かと交わした視線や、言いそびれた一言、ただ並んで歩いた距離。

もう話題にもならないような時間だけれど、それでもなぜか、思い出そうとすると胸の奥が少しだけ動く。

この物語は、そんな“名もなき心の揺れ”を拾い上げてみた試みです。

派手な事件も、劇的な告白もありません。

けれど、確かに彼らは「何かになろうとしていた時間」を生きています。

どうぞ、彼らの距離感と沈黙に、少しだけ耳を澄ませてみてください。


上野の居酒屋に、三十年ぶりの笑い声が揺れた。

テーブルを囲む七人は、かつて基礎ゼミで時間をともにした仲間たち。

焼き鳥とポテトサラダの香り、グラスの氷が解ける音が、遠い記憶に染み入る。


「寮限定の合コン、あったよね」

「“新月寮”だっけ?踏切のそばにあった」

「門限十時、遅れると“御謝会”で注意されるっていう」

笑い混じりの回想に、悠人は静かに耳を傾けていた。

新月寮は、彼にとって“生活の場”ではなく、ひとつの“記憶の場所”だった。


――あの雨の夜。


コンビニの軒下で濡れた髪を気にする彼女――遥。

「送ってくよ、乗ってく?」

ぎこちない言葉に、彼女は細く笑った。

十年落ちの中古ワンダーシビック。助手席には一本の置き忘れた傘。

「使う?」と差し出したその持ち手は、彼女の指先の少し手前で止まった。

髪を耳にかける仕草が、静かな答えとなった。


「……門限まで、間に合うか微妙で」

悠人は何も言わずに遠回りの坂を選び、車をゆっくりと下った。

ワイパーの音だけが車内に響いていた。

遥は窓の外を眺めながら、言いかけて、やめた。

そして寮の坂の手前で「ここで」と言い、傘を開いて一度だけ振り返り、軽く会釈した。


悠人はその背中を見送りながら、初めて「門限」と「彼女との距離」を意識した。

あの夜の言葉が、彼女の夜のリズムに、少しだけ踏み込んでしまった気がした。


それから長い年月が流れた今も、雨の日になるとあの傘を思い出す。

差し出した言葉が、遥の中でどんな記憶になっているのか――それは、今でもわからない。


---


「遥って、卒業してすぐ関西に行ったっけ?」

誰かがふと口にしたその名に、周囲は軽い回想を交わす。

「控えめな子だったよね」「あんまり喋らないタイプだった」

悠人はグラスの氷を見つめたまま、言葉を挟まず、ただポテトサラダを掬った。


彼の中ではまだ、傘の持ち手が宙に浮いている。

そしてその沈黙こそが、誰にも語らなかった想いの形だった。


グラスの水面に揺れる灯りが、車内灯の記憶を映した気がした。


「……また集まれたらいいね。次は、雨の日とかに」


その言葉に誰かが「それいい」と笑い、焼き鳥を摘んだ。

悠人の言葉が誰に向けたものだったのか――誰も知らないまま、夜は続いていた。

30年ぶりの居酒屋の笑い声に包まれながら、あの夜の記憶が少しずつ形を持ち始めたのかもしれません。

「送ってくよ」と言ったときの自分の声。

振り返って会釈した彼女の肩の角度。

それらが、いま思えば「語ることのできる記憶」へと変わっていたことに気づかされました。

門限という小さな制度や、25万円の中古シビック。

何気ない素材のひとつひとつが、僕らの青春を形づくっていたのだと――

そしてあの夜の50メートルは、ずっと届かない距離ではなく、いつか振り返るために存在していたのかもしれません。

読んでくださって、ありがとうございました。



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― 新着の感想 ―
ああ、自分の記憶と交差します。 そう、寮とか門限とかコンパとか、あの頃に引き戻してくれました。 雨の日にまた集まってくださいね。
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