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記憶の底  作者: 56号
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第七話 再会


翌日、朝の陽が高くなり始めた頃、神谷と園部はタクシーで特別養護老人ホームを訪れた。

施設の玄関先には、あらかじめ連絡を受けていたのか、早苗が車椅子に乗って待っていた。

介護士が後ろに控えている。


「諒一……!」


一瞬、目を細めたあと、早苗はパッと表情をほころばせた。

その頬の皺が、まるで笑いそのもののように深く刻まれる。


「諒一、あんたは“仕事のついで”って言ってたけど――お嫁さん連れて来たのかい?」


声に張りがある。

思わず神谷が目を丸くすると、それを見ていた美也子が、ニッと笑って一歩前へ出た。


「そうなんです。ご挨拶が遅れましたぁ」

わざとらしくお辞儀をし、声のトーンを上げてみせる。


「まあまあ、いい娘さんじゃないの! ほら、私が元気なうちに諒一のお嫁さんの顔を見せてくれって言ってたの、覚えてたのねぇ」


「いや、ばあちゃん、それはちょっと……」


神谷がたじろいで手を振ると、美也子がすかさず追い打ちをかけた。


「課長、否定するなら今しかないですよ。3、2、1――はい黙った! 認定!」


早苗がケラケラと笑う。

その笑い声が、長い間この施設の壁の中に沈んでいた空気を明るく弾かせたように思えた。


**


「久しぶりだねえ。あんた、顔が少し痩せたようだよ。ちゃんと食べてるのかい?」

「ばあちゃん、俺はもう子どもじゃないんだから」

「いや、子どもよ。私から見りゃ、みんな子どもだよ」


早苗の手を握ると、その指先は冷たく、骨ばっていた。

けれど、その力は意外にもしっかりとしていた。


「今日は、久しぶりに三人で昼でも食べに行こうかと思ってたけど、ここで一緒に食べてもいいってさ。外は暑いしね」


「はい、私も広島の給食メニュー、楽しみにしてきました!」

「給食とは言わないよ。もうちょっとマシなもんが出るさ」


また笑い声が広がった。


その一瞬、神谷の心のなかに、ひとつの思いが浮かぶ。


――この人は、もうじき、何かを残して去っていくのだ。


何を残すのか。

何を伝えようとしているのか。


神谷は、まだそれを知らなかった。



昼ごはんは、野菜中心の煮物と、塩サバの焼き物だった。

副菜にひじきの煮付けと、小さな卵焼き。

白飯と、薄味の味噌汁が並ぶ。


「どう? 薄味だけど、まあまあイケるでしょ」


早苗が、ちょっと得意げに言う。

美也子は箸を止めずに頷いた。


「うん、しっかり味はついてますね。でも、ちょっと……しょっぱいかな」


「そりゃあ、サバはねえ。えんみ(塩気)がないとサバじゃないよ」


神谷も黙ってうなずいた。

確かに全体としては優しい味付けだったが、塩サバだけは思ったより“効いて”いた。

だがその強さが、なぜか妙に懐かしくも感じられた。


「ここに来る前、祖母がよく焼いてくれたな。サバ。身が崩れやすいのに、ちゃんと皮パリにして出してきた」


「そりゃあね、あんたが“パリッとしてない”って文句ばっか言うからよ」


「……言ってたかもな」


そんなやり取りをしながら、三人の食卓はゆっくりと時間を刻んでいった。

箸の音。味噌汁をすする音。

ときおり笑いが混ざりながらも、どこか穏やかで、少しだけ胸に刺さるような沈黙もあった。


ふと、早苗が箸を置いた。


「……あの日も、暑かった」


声は、小さく、けれど確かだった。


神谷は反射的に顔を上げた。

美也子もまた、箸を止めて早苗のほうを見た。


「サバを焼いてたのよ。母さんが。

 昼近くになって、急に空が暗くなってね――それからは、よく覚えてない。

 音と、光と、熱と……とにかく、何もかもが壊れたのよ」


語り出すつもりはなかったのかもしれない。

でも、言葉は止まらなかった。


「サバの匂いが……消えなかったの。焼け焦げた匂いと、まざってね。

 それがずっと鼻について……」


神谷は言葉を挟めなかった。

ただ、目の前で語る祖母の声を、しっかりと受け止めていた。


「ごちそうさまでした」


早苗はぽつりとそう言って、また箸を取り、最後のひと口を静かに食べた。


その姿に、神谷は胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚を覚えていた。



昼食を終え、少し談笑したあと、神谷と園部は早苗に別れを告げて施設を後にした。

玄関口で車椅子に座る早苗が、最後まで見送ってくれていた。


ドアに手をかけようとしたそのとき、背中越しに声が飛んだ。


「美也子さん!」


振り返ると、早苗がにこにこと目を細めていた。


「はい?」


「あなたね、脚力には自信があるって言ってたでしょ?」


美也子がきょとんとした顔をしたあと、すぐにニッと笑って、


「ええ、ありますとも。シジューのオジサンに逃げられたりしませんから!」


きっぱりと、まるで勝者のように断言した。


「ほう、頼もしいねえ」


早苗が声を上げて笑う。

神谷は一歩遅れて、そのやりとりの意味を理解し、吹き出した。


「そういえば……お前、中高って、たしかテニスの埼玉県選抜に選ばれてたな」

「ですよ。しかもダブルスもシングルスも。伊達じゃないですよ?」


「伊達公子?」


「課長、ダジャレのセンスが昭和ですよ」


ふたりの笑い声が、玄関先の午後の空気にやさしく溶けていった。

蝉の声がどこからか響いてきて、夏の終わりがほんの少し近づいていることを感じさせた。


**


車に乗り込み、施設を後にする。

バックミラーに映る早苗の姿が、小さくなる。


神谷は、もう一度だけ振り返った。

そして心の中でそっと呟いた。


――また来るよ。


それは、約束ではなかった。

けれど、確かに“何か”が胸の奥で結ばれたような気がしていた。



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