第五話 静けさの中で
新幹線「のぞみ」は、定刻通り東京駅を静かに離れた。
軽やかな振動とともに、車体は次第に加速してゆく。
午後の光が斜めに差し込む窓の外を、美也子は一瞥してから、不思議そうに口を開いた。
「課長のお父さんって、たしか富士市のゼネコンの会長さんなんですよね?」
「……ああ、そうだな」
「じゃあ、“帰郷”ってのは?」
神谷は一瞬、返事を躊躇った。
視線を窓の外に向け、流れる景色を見つめながら、静かに言葉を紡ぐ。
「帰郷と言ってはいるが、正確には……父方の実家だ」
言葉とともに、缶ビールに手を伸ばす。
プシュッという音が、車内の静けさに微かに響いた。
「祖父と祖母が静岡に移り住んでな。最初は小さな大工仕事から始めて、二人三脚で、会社を大きくしていった」
そう言って、ひと口含む。
缶の冷たさが、わずかに緊張を和らげた。
「でも祖父が亡くなって……しばらくしてからだ。祖母が広島に戻りたいって言って、特養に入った」
「広島に?」
「故郷に、骨を埋めたいってさ。あの人の口癖だった」
言い終えて、神谷は缶を軽く揺らした。
中で氷のように冷えた炭酸が、音を立てる。
美也子はそれ以上、何も聞かなかった。
無言のうちに頷いて、それが一つの家族の歴史なのだと受け止めた。
窓の外には、午後の陽を受けた平野と、時折立ち上がる工場の白い煙。
どこか遠い記憶をたどるように、神谷はそれをじっと見つめていた。
広島。
祖母。
そして、あの戦争の記憶が宿る土地へ――
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新幹線は、まっすぐ西へと向かっていた。
「課長のお婆様って、どんな方なんですか?」
新幹線が静岡を過ぎた頃、美也子がビール片手に尋ねた。
「私、はじめてお目にかかるのに、それらしい洋服持ってきてないんですよ。
失礼にならないといいんですが」
神谷は思わず苦笑した。
「“お目にかかる”って……おまえ、それ、まるで婚約の挨拶じゃないか」
「え? あら、私そのつもりでしたよ?」
あっさりと、しかし満面の笑顔で返してくる美也子に、神谷は目を丸くした。
「課長だって、のんびりしてると、あっという間に“シジュー”のオジサンですよ」
「ほっとけ」
「私が全部お世話するので、手を打ちましょうよ」
ビール缶を軽く掲げ、冗談とも本気ともつかない声で言った。
その無邪気さが、逆に照れくさく、神谷は視線を窓の外に向けた。
陽光の向こうに、ぼんやりと富士山の影が浮かんでいた。
「祖母はな……うるさい人だったよ。気が強くて、よく笑って、でも厳しくて」
「へえ、課長のルーツって感じですね」
「……そうかもな」
ぼそりと返す神谷の表情は、どこか懐かしげだった。
もう何年も会っていない祖母。
それでも、彼の記憶のなかで、彼女の笑い声ははっきりと残っていた。
「……会えるうちに会っとかないとな。そういう歳になったってことかもしれん」
「……それ、フラグですから。泣けるやつ」
美也子が小さく笑って、缶をコツンと神谷の缶に当てた。
軽やかな音が、車内に響いた。