第四話 八月の約束
翌朝、神谷諒一の姿は、霞が関の警察庁本庁舎、その六階にある自身の執務室前にあった。
朝の日差しが廊下の磨かれた床に反射して、やけに眩しい。
Yシャツの首元を緩めながら、彼は扉の前で一度立ち止まり、耳をすませた。
「だからぁ、美也子さん、それじゃキャリーじゃなくてほとんどトランクでしょ」
「広島っていっても国内よ? 海外出張じゃないんだから」
「だって現地暑いんだもん! 気候に応じて服もいろいろ要るでしょ」
中から、園部美也子の楽しげな声が聞こえてきた。
諒一は眉をひとつ上げて、思わず小さく笑った。
「遊びに行くんじゃないぞ」
ドアを開けながら、そう口に出してみたが、自分自身の心のどこかにも、
“久々の広島帰郷”という言葉が浮かんでいたのは否めなかった。
――そうだ、帰るのは何年ぶりになるだろうか。
父の三回忌以来だから、かれこれ……七年近くになる。
墓参りすらまともにしていないことを思い出し、
少しだけ気が咎めた。
「神谷課長、おはようございます! 今日の広島、天気バッチリですよ」
にこやかに手を振る園部美也子が、すでに小型スーツケースを足元に置いて待機しているのを見て、
諒一は思わず苦笑した。
「……仕事だぞ」
「はーい。“一応”分かってまーす!」
元気よく答える園部に、諒一は小さく息を吐いた。
**
今回の出張の目的は、表向きには「国際テロ対策における原爆ドーム周辺の警備態勢の視察」とされていた。
だが、諒一の中では、それとは別の“私的な動機”が少しずつ膨らんでいた。
祖母――早苗のことだった。
ここ数年、どこか影が濃くなった彼女の表情が、ずっと気にかかっていた。
昨日の夜、仏壇に手を合わせる彼女の姿を思い出す。
あれは、まるで別れの儀式のようだった。
「……会いに行くべきだと思っただけだよ」
心のなかでそう呟きながら、神谷は静かに執務室の鍵を閉めた。
*
― 八重洲の昼 ―
新幹線は、昼過ぎ発ののぞみ号を予約していた。
まだ少し時間に余裕がある。
神谷と園部は、東京駅の八重洲口にほど近い地下のレストラン街へと足を向けた。
「せっかくですし、ちょっと腹ごしらえしていきましょうよ」
そう言い出したのは園部だった。
神谷も特に異論はなく、むしろ朝からコーヒーしか口にしていなかったことを思い出し、静かに頷いた。
「あそこ、どうかな」
神谷が目を向けたのは、彼が昔から時折訪れていた広島風お好み焼きの店だった。
鉄板の音、ソースの匂い――
一瞬、懐かしさに胸がざわついた。
「広島行くのに、今広島焼きって、どんな腹の構えなんですか、課長」
園部があきれたように眉を上げ、肩をすくめた。
「……たしかに」
神谷も苦笑する。
そして気づけば、そのすぐ隣の、仙台牛タンの暖簾をくぐっていた。
「ほら、牛タンは東京で食べる方が旨いって言いますし」
「誰が言ってんだ、それ」
「私が言ってます。いま言いました」
どこか得意げな園部に、神谷はまた肩をすくめる。
そうして案内されたカウンター席に腰を下ろすと、ほっとしたように息を吐いた。
ああ、そういえば、こういう時間も悪くない。
そう思いながら、彼は心のなかで小さく呟いた。
**
牛タン定食がほどなく運ばれてきて、香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。
七味唐辛子をさっとかけて、ひと口――
「……うん、これはこれでありだな」
「だから言ったじゃないですか」
園部が勝ち誇ったように笑う。
その笑顔に、神谷も口元をほころばせた。
出張。いや、帰郷。
今日という一日が、何かを変えるような気がしていた。