樹里ちゃん、またしても映画の撮影にゆく
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドです。
今日は、樹里は仕事を休んで、映画の撮影です。
NGを出さない樹里のおかげで、撮影は順調です。原作者が現場に来ないのもいい影響が出ています。
「撮影はいつしているのよ!?」
一向にスケジュールを教えてもらえない上から目線作家の大村美紗は、未だに家で連絡を待っていました。
結構、おバカだと思う地の文です。
「また悪口が聞こえたような気がするけど、幻聴なのよ!」
必死に抵抗している美紗です。
さて、順調な進行のおかげで、遂にクライマックスシーンの撮影に入っています。
今日は、東京郊外の森の中で、真犯人と樹里演じる比良坂那美が対峙するカットです。
「信じたくなかった。貴方が犯人だという事を」
涙を流しながら告げる樹里です。
「よくわかりましたね。さすが、僕の愛した女だ」
真犯人は川崎彗星演じる伊佐凪雄でした。全く意外ではない犯人ですが、川崎をキャスティングする事で、その辺りをうまくぼやかせたと思っているプロデューサーの榊原です。川崎は今まで、刑事や探偵は演じて来ましたが、犯人役は初めてなのです。
事務所的には、社長以下重役達が猛反対しました。川崎に悪いイメージがつくと思ったからです。
しかし、相手役が樹里と知り、役員達は一斉に賛成しました。樹里の後ろに五反田氏を見たからです。
樹里が主演の映画で、役柄に難癖をつけるのは、五反田グループの怒りを買うと判断したのです。
非常に大人の数学が絡む嫌な展開だと思う地の文です。
(ああ、樹里さんの涙、美しい……)
実際に樹里に好意を持ってしまっている川崎は、樹里の流す涙に感動していました。
そのせいで、本当の恋人であるみゆゆこと貫井美優と別れてしまいました。
みゆゆも、樹里に心を奪われるという複雑な三角関係なのを知らない川崎です。
「何故です? 何故、あんな事を?」
樹里は溢れる涙を拭おうとせずに川崎に詰め寄りました。
(ああ、樹里さん、今すぐにでも抱きしめたい!)
逸る心を抑えて、川崎は演技を続けます。
「何故? 肉親を殺された復讐だからですよ。これで僕も、ようやく姉や妹のいるところへ行ける」
凪雄は那美に涙を見せないために背を向けました。
「貴方はお姉さんや妹さんのところへは行けません。今ここで自ら命を断てば、貴方は地獄へ行くからです」
那美の言葉にハッとして振り返る凪雄です。
「何故それを?」
凪雄は自分が毒をあおって死のうとしている事を那美に見抜かれているのを知り、目を見開きました。
「貴方は私にだけわかるように犯行を続けた。それは貴方が最初から死ぬつもりだからだとわかりました」
那美はそこでようやく右手の人差し指で涙を拭いました。
二人の鬼気迫る演技を監督以下スタッフは固唾を呑んで見守っています。
「そうか。わかってくれていたんだね、那美。やはり君は、僕が生涯で只一人本当に愛した女性だ」
凪雄も泣いていました。もらい泣きしている女性スタッフもいます。
「凪雄さん。生きてください。生きて、罪を償い、お姉さんや妹さんの分まで幸せになってください。それが私の望みです」
那美は凪雄に近づくと、そっとその右手を両手で包むように握りました。
「カアットーッ!」
板倉監督の声で撮影が一旦止まりました。樹里と川崎は微笑み合いました。
「さすが樹里さんです。圧倒されました」
川崎が言いました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じました。
「川崎さんの演技に、自分の台詞を忘れそうになりました」
樹里が言いました。社交辞令でも何でもなく、本心だと指摘する地の文です。
「嬉しいです、樹里さん」
川崎は両手で樹里の右手を握りしめました。
「ほらほら、彗星、休憩だよ」
川崎のマネージャーの中年のおじさんが川崎を引き離し、ロケバスへ連れて行きました。
「樹里さん、紅茶が入りましたよ」
助監督の女性が樹里に言いました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じました。
「川崎が樹里さんに本気になっていると思われる。演技以外で樹里さんに近づこうとしたら、すぐに止めろ」
榊原が助監督に囁きました。
「わかりました」
助監督も樹里ファンなので、真顔で応じました。
「川崎のマネージャーにも伝えてある。連携して、阻止してくれ」
榊原は板倉に近づきながら、告げました。
「承知しました」
助監督は敬礼して応じました。まるであの変態集団みたいだと思う地の文です。
「我らは変態集団ではありません!」
どこかで聞きつけて地の文に切れる昭和眼鏡男と愉快な仲間達です。
「彗星、まさかと思うけど、樹里さんに好意を持っていないよな?」
マネージャーはロケバスに乗り込むと、川崎を問い質しました。
「まさか。そんな訳ないですよ」
川崎は笑って否定しました。
「そうかあ? みゆゆが愚痴を言って来たからさ。彗星が樹里さんに入れ上げてるって」
マネージャーの追求に川崎は一瞬顔を引きつらせましたが、
「美優の勘繰りですよ。あいつ、嫉妬深いから」
川崎はスポーツドリンクを一口飲んで言いました。
「それならいいんだけどな。樹里さんはフリーで事務所に所属していないけど、あの五反田グループの信望厚い人なんだよ。五反田さんを怒らせると、芸能界どころか、どこの世界でもやっていけなくなるぞ」
マネージャーは川崎の隣の席に座って告げました。
「わかってますよ。そもそも、樹里さんは既婚者ですよ。あり得ないです」
川崎はまた笑って言いました。
「まあ、そうだな」
マネージャーは席を立つと、ロケバスを出て行きました。
「樹里さん……」
川崎はペットボトルを握り潰しました。
今までにない純真なタイプだと思う地の文です。
「樹里さん、ご主人とは連絡取れたんですか?」
助監督が訊きました。夫でヘボ探偵の杉下左京が行方不明なのです。
「行方不明じゃねえよ! 群馬県の山神村にいるよ!」
どこかで切れる左京です。
「取れましたよ。今は群馬県の山神村にいます。弁護士の坂本龍子先生と一緒だそうです」
樹里は笑顔全開で言いましたが、
「そうなんですか」
それって不倫してるんじゃないの? 助監督は邪推しました。
めでたし、めでたし。