樹里ちゃん、映画の撮影の続きにゆく
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドです。
樹里の不甲斐ない夫の杉下左京が失踪して一週間が過ぎました。
「失踪してねえよ! 山神村で事件の調査をしているんだよ!」
最近妄想癖が酷くなった左京が、山神村で切れました。
「うるせえ!」
地の文の描写に更に切れる左京です。そして、出番は終了です。
今日は日曜日です。樹里は上から目線作家の大村美紗の窮状を救うために彼女の小説が原作である映画の主演を引き受けました。
どこまでも心優しい樹里です。
「また誰かが私の悪口を言っているのが聞こえるけど、幻聴なのよ! 反応してはダメなのよ!」
撮影の日程を教えてもらえなくなって、イライラが募っている美紗がどこかで叫びました。
何故、日程を教えてもらえなくなったのかというと、監督の板倉敦にいちいち口出しをして、撮影をストップさせるだけではなく、自分を重要な役で出演させるようにプロデューサーの榊原徹に圧力をかけているからです。
当然の事ながら、監督もプロデューサーもそんな圧力には屈せず、順調にスケジュールをこなしています。
「第一の殺人事件の犠牲者役の大河内悟志さんです」
助監督の若い女性が紹介をしました。神経質そうな顔をした中堅の俳優です。
(この映画で名をなして、樹里さんの相手役になってやる!)
妻も子もある人ですが、鳴かず飛ばずで生活は苦しいようです。
もっと安定した職に就いた方がいいと思う地の文です。
「私は大学を出てからずっと、役者一筋なんだよ! 他の職なんて、考えられない!」
生活の心配をした地の文に理不尽に切れる大河内です。
「よろしくお願いします」
樹里と川崎が大河内に言いました。
「こちらこそ」
有名人に声をかけられた大河内は緊張して顔を強張らせました。
ど素人だと思う地の文です。
「うるさい!」
また地の文に切れてしまう大河内です。
「そうなんですか」
樹里はいつものように笑顔全開で応じました。
樹里は今日はオープンセットがある撮影所に来ています。
そして、娘達は姉の璃里が面倒を見てくれています。
そこまでの護衛をこなした昭和眼鏡男と愉快な仲間達は、セリフの一つも得られず、肩を落として立ち去りました。
「本日は、第一の殺人事件が起こる街中のメインストリートでの撮影をします。よろしくお願いします」
NGを一回も出さずに完璧な演技をする樹里には、監督は感謝しているので、とても低姿勢です。
その代わり、助監督には当たり散らしているのは内緒です。
「当たり散らしてねえよ!」
事実を捏造する地の文に切れる監督です。
撮影場所は、実際に存在する有名な大通りを再現したものです。ですから、通り過ぎる人達は全員エキストラです。
こうしないと、撮影が予定通りに進まないのです。
主演は樹里で、相手役は若手俳優のホープである川崎彗星だからです。
(最近、大村先生がいらっしゃらないので、撮影が順調だけど、先生、体調でも悪いのだろうか?)
裏事情を知らない川崎は、美紗の心配をしました。美紗が知ったら、血圧が急上昇して、本当に体調が悪くなると思う地の文です。
「はい、では、通りを楽しそうに歩く那美と凪雄のカットから撮影始めます。本番です」
助監督が言いました。現場に緊張が走り、大河内は震え出しました。
(私がしくじると、皆さんに迷惑をかけてしまう……)
大河内は手のひらに人という字を書いて落ち着こうとしました。
「用意! スタート!」
板倉監督が号令をかけました。カメラが動き、歩く樹里と川崎を捉えます。
二人の後ろに大河内が現れ、歩き出します。樹里と川崎が微笑み合った時、大河内が苦しみ出して舗道に倒れるのですが、緊張している大河内はずっと二人の後ろを歩いてしまいました。
「カットォッ! ダメだよ、すぐに苦しんで倒れないと!」
板倉が怒鳴りました。
「すみません、すみません!」
大河内は平謝りしました。樹里と川崎は元の位置に戻り、大河内はカメラからはけました。
「用意! スタート!」
板倉が叫び、撮影が再開されました。今度は大河内はすぐに苦しみ出して、舗道に倒れました。
「オッケー! 次、倒れた男のカット!」
板倉がスタッフに指示を出して、大河内は口に血糊を含みました。樹里と川崎は大河内のシーンを見学です。
「倒れた男は、咳き込みながら血を吐く。いいね? では本番! 用意、スタート!」
板倉の号令で、大河内は咳き込み、血糊を吐きました。
「オッケー! 次、人だかりに取り囲まれるシーン!」
板倉は撮影が順調なので、上機嫌です。
(大村先生がいないと、本当にスケジュールが押さずにすむな。もうずっと教えないようにしよう)
榊原は密かに決意しました。
「お疲れ様です」
撮影を終えた大河内に樹里が声をかけて、ペットボトルを手渡しました。
「あ、ありがとうございます!」
大河内は深々と頭を下げて受け取りました。
「さすが、舞台を長くなさっている方は、演技がしっかりしていて、お上手ですね。勉強になります」
川崎がハンドタオルを差し出して言いました。
「いえ、自分はまだまだ半人前ですから」
主役の二人に優しくされて、大河内は顔を真っ赤にしました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じました。
(ああ、樹里さん、綺麗だ。この人と共演したい。同じ映画に出るだけではなく、絡みたい)
大河内も川崎と同じく、樹里の虜になっていました。
(御徒町樹里ィッ! 私の彗星とキスしたばかりか、心まで奪って! 許さないから!)
樹里をセットの片隅から睨んでいるのは、川崎の本当の恋人であるモデルのみゆゆこと貫井美優です。
自分は俳優の加古井理にちょっかいを出していたくせに、図々しいと思う地の文です。
「うるさいわね!」
正当な事を述べたはずの地の文に切れるみゆゆです。
波乱の予感がして、ドキドキしてしまう地の文です。