樹里ちゃん、上から目線作家の映画の撮影にゆく
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドです。
今日は樹里は子供達を姉の璃里に頼み、上から目線作家の大村美紗原作の映画の撮影に来ています。
五反田邸から程近い室内スタジオなので、樹里はいつも通りの出勤です。
「では、樹里様、お帰りの時にまた!」
未だに撮影所の警備員さん達に顔を覚えてもらえない眼鏡男達は涙ぐんで告げると、敬礼をして立ち去りました。
樹里はプロデューサーの榊原徹に出迎えられ、撮影が行われる第一スタジオへと向かいました。
監督の板倉敦がいると、型通りのボケをかましてしまうので、榊原が先に行かせたのです。
「ご機嫌よう、樹里さん」
第一スタジオに入ると、ソファに仰け反って座っている美紗が言いました。
樹里のお陰で今がある事を自覚し、跪いて出迎えるべきだと思う地の文です。
その図々しい根性が許せませんね。
「今、間違いなく、私を罵った人がいるわ! 聞き違いではなくてよ!」
興奮して立ち上がって叫ぶ美紗ですが、誰も相手にしていません。
「今日は、『黄泉の国のシンデレラ』の主人公である比良坂那美の幸せだった頃のシーンの撮影が主になります」
板倉が笑顔で告げました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じました。
(やっぱり、主人公の那美は樹里さんにしかできないわ。さっすが、私)
美紗は自分で自分を褒めるという有◯裕子さんのような事をしようとする美紗ですが、最初から樹里に主役をしてもらおうと考えて小説を書くという卑怯を絵に描いたような事をしたのですから、褒める必要など微塵もないと思う地の文です。
「またよ! また誰かが私の悪口を言っているわ! どうして誰も聞こえないのよ!?」
また大声を出す美紗ですが、あまりにも頻繁に前触れもなく怒鳴り出すので、誰も反応しなくなっているのを理解できていないようです。
「ううう……」
完全無視をされた美紗は、項垂れてソファに座りました。
「そうなんですか」
台本を確認しながら、笑顔全開で応じる樹里です。
「那美の恋人役の川崎彗星君です」
そこへ美紗が自分の好みで選んだ人気俳優の川崎彗星が現れました。
(ああ、癒されるわ。私が那美を演じたいくらいよ)
川崎の登場で、美紗は完全復活しました。
「今日はよろしくお願いします」
川崎は樹里に近づいて、握手を求めました。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
樹里は笑顔全開で川崎の右手を握りました。川崎は顔を赤らめました。
「憧れの樹里さんと恋人の役をできるなんて、物凄く光栄です」
川崎は樹里の右手を包み込むように握り返しました。
(あああ!)
それを見て、思わず嫉妬してしまう美紗です。
ここに不甲斐ない夫の杉下左京がいたら、気絶していると思う地の文です。
(今からでも、私を本人役で出せないかしら? それで、川崎君とラブシーンを……)
妄想が暴走し始める美紗です。
もし、貴女が出るとしたら、川崎君のお祖母さん役だと思う地の文です。
「まただわ! また、誰かが私の悪口を言ったわ! 今度こそ、聞こえたわよね!?」
美紗は立ち上がってスタッフを見渡しましたが、誰も目を合わせてくれません。
川崎に至っては、樹里と楽しそうに台詞のやり取りをしていて、美紗の存在に気づいていないかのようです。
「くうう……」
ショックのあまり、ソファに倒れ込んでしまう美紗です。
(邪魔だな。次からは、呼ばないようにしよう)
榊原は美紗の言動を見て思いました。
「では、恋人の伊佐凪雄と那美のキスシーンのカメリハ、入ります」
助監督の若い女性が言いました。
「あ、はい」
川崎は樹里から離れ、自分の椅子に台本を置くと、スタンバイしました。
樹里も川崎のそばへ行き、スタンバイしました。
「はっ!」
川崎と樹里のキスシーンと聞き、また復活する美紗です。ゾンビみたいだと思う地の文です。
美紗は地の文の誘いに乗らず、ジッと川崎を見ています。ちょっと悔しい地の文です。
川崎と樹里はカメラ位置を確認しながら、顔を近づけ、キスをするふりをします。
「もう少し、ゆっくりにしましょう。見つめ合う時間を長くして、情感を醸し出してください」
板倉が演出をつけました。
「はい」
川崎は樹里より年下なので、緊張気味です。
(樹里さん、可愛いな。本当に三十歳を過ぎているの?)
川崎は樹里の若々しさに驚いています。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じました。
(ああ、樹里さんを本当に好きになってしまいそうだ)
川崎には、現実の恋人であるモデルの貫井美優がいます。
美優は樹里とのキスシーンを知り、酷く嫉妬していました。
美優は以前、バラエティ番組で樹里と共演して、樹里信者になりましたが、川崎と樹里が恋人役をすると知り、また樹里を敵視しています。川崎の気持ちを知ったら、激怒しそうです。
「では、本番、いきます」
女性の助監督が言いました。スタジオ全体に緊張が走りますが、美紗は全然その雰囲気にそぐわないうっとりとした顔で川崎を見ています。
「用意、スタート!」
助監督がカチンコを鳴らし、撮影が始まりました。
「那美さん」
川崎が樹里を見つめます。
「凪雄さん」
樹里が川崎を見上げます。二人の顔が接近して、唇が触れ合いました。
「カァット!」
板倉が叫び、撮影は一旦終わりました。
(樹里さんの唇、美優のより柔らかい)
川崎はまた顔を赤らめました。
「お疲れ様です、川崎さん」
樹里は何事もなかったかのように笑顔全開で言いました。
「お疲れ様です、樹里さん」
川崎は樹里をまともに見られず、俯きました。
(まずいな。彗星が本気で樹里さんを好きになりかけている)
榊原は川崎の異変に気づいていました。
先が気になる地の文です。