樹里ちゃん、花火大会にゆく
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドです。
樹里は五反田氏の一家が世界一周旅行に出かけているので、一ヶ月の夏季休暇をもらいました。
不甲斐ない夫の杉下左京は、樹里がずっと家にいるので、不倫ができずにストレスが溜まっています。
「違う!」
ある意味真実を告げた地の文に理不尽に切れる左京です。
(樹里が家にいると、確かにきつい)
左京は思いました。樹里が何を言う訳でもなく、何をするでもないのにストレスが溜まるようです。
いっその事、離婚をしてはどうかと思う地の文です。
「やめろ!」
血の涙を流して地の文に切れる左京です。
(俺は何て酷い夫なんだ。樹里は何も悪くない)
反省する左京です。それなら、いっその事……。
「勘弁してください」
全面的に自分が悪いと気がついた左京は、土下座をして地の文に懇願しました。
「左京さん」
不意に樹里に背後から声をかけられたので、
「ウヒャア!」
口から魂が出てしまいそうになった左京です。
出てしまえばよかったのにと思う地の文です。
「うるさい!」
また地の文に切れる左京です。
「今夜は町内で花火大会があるのですが、左京さんはどうしますか?」
樹里は笑顔全開で尋ねました。
「いや、俺は調査報告書を明日クライアントに渡さなければならないから、家にいるよ」
左京はあっさりと嘘を吐き、不倫相手の沖田総子税理士と出かけるつもりです。
「そんな事はない! 不倫相手でもない!」
核心を突いたはずの地の文に切れる左京です。
「そうなんですか」
それにも関わらず、樹里は笑顔全開で応じました。
(樹里、少しは寂しそうにしてくれよ)
複雑な思いで樹里を見る左京です。
「では、申し訳ありませんが、娘達を連れて行ってきますね」
樹里は更に笑顔全開で告げました。
「そうなんですか」
左京は引きつり全開で応じました。でも、ようやく一人の時間が持てると、内心は大喜びです。
「大喜びしてねえよ!」
深層心理まで読み解いたはずの地の文に激ギレする左京です。
そして、いつも通り、左京の出番は終了しました。
「何でだよ!?」
地の文に食い下がる左京ですが、地の文は某首相のようにうまくかわしてとぼけました。
そして、夜になりました。
樹里は長女の瑠里、次女の冴里、三女の乃里、四女の萌里を連れて町内の花火大会に行きました。
瑠里は樹里に頼んで、萌里をベビーカーに乗せて押しています。
冴里はそれを羨ましそうに見ています。乃里はママが独占できるので、大喜びです。
「ヤッホー、樹里」
そこへ松下なぎさが、夫の栄一郎と現れました。栄一郎は長男の海流と長女の紗栄を連れています。
「わっくん!」
冴里がひときわ嬉しそうに海流に駆け寄りました。海流は顔を赤くして、俯いています。
「ママ、さーたんはわっくんがすきなんだよ」
瑠里がニヤニヤして樹里に囁きました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じました。
「さえちゃん」
乃里は自分がお姉さんぶれる紗栄がお気に入りです。紗栄も乃里が優しいので大好きなようです。
「四人共樹里にそっくりだね。見分けがつかないよ」
なぎさが言いました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じました。
「樹里さん、大丈夫なんですか? 私達は町内の人間ではありませんが」
栄一郎が尋ねました。
「大丈夫ですよ。皆さんは私のお友達枠での招待という事にしてありますから」
樹里は笑顔全開で内情を明かしました。
「そ、そうですか」
栄一郎は嫌な汗を掻きながら応じました。
「あ、屋台だ!」
なぎさが子供達よりも早く叫び、駆け出しました。
「なぎちゃん、まって!」
瑠里はベビーカーを押しているので、早く行けません。
「なぎちゃん、まって!」
冴里と乃里が駆け出しました。海流と紗栄はそれに引きずられるようについていきます。
「なぎささん、子供が真似するから、やめてください」
栄一郎が言いましたが、なぎさは聞こえていないのか、次々に屋台を見て回っています。
「そろそろ始まりますよ」
樹里が言って、夜空を見上げました。
「え?」
なぎさはチョコバナナをパクつきながら上を見ました。
「わあ!」
瑠里と冴里が同時に叫びました。夜空を大輪の花が彩っていました。
「きれいだね、わっくん」
冴里が海流に顔を近づけて言いました。
「うん……」
海流はまた俯いてしまいました。
「わーい、わーい!」
乃里と紗栄は万歳をしています。
「ねえ、わっくん」
冴里は海流の顔を覗き込みました。
「な、なに?」
海流は近過ぎる冴里の顔のせいで顔が真っ赤になりました。
「はなびとさーたん、どっちがきれい?」
冴里が訊きました。
「うわ。さーたん、せめてる!」
聞きつけた瑠里は目を見開きました。乃里と紗栄は花火に夢中です。
「ねえ、どっち?」
冴里が答えない海流に詰め寄りました。海流は冴里から顔を背けて、
「さ、さーたん……」
まさに蚊の鳴くような声で言いました。
「ありがとう、わっくん!」
冴里は海流の右の頬にキスをしました。左京がいたら、失神していたでしょう。
「うわわ!」
海流は更に顔が赤くなりました。
「ああ、海流、熱があるの? 帰る?」
勘違いしたなぎさが言いました。
「だいじょうぶだよ、なぎたん。さーたんがついているから」
冴里も心なしか顔が赤くなっていました。
(やるう、さーたん!)
瑠里は思いました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じました。
(今、確かに冴里ちゃんが海流にキスをした。これは大丈夫なのか?)
コンプライアンス的にどうなのかと考えてしまう法律バカの栄一郎です。
「よかったね、さーたん。そうしそうあいだね」
意味もわからずに言う瑠里です。
「えへへ!」
舌を出して戯けてみせる冴里です。
その時、その夜一番の大きさの花火が打ち上げられました。
「そうなんですか」
更に樹里は笑顔全開で応じました。
めでたし、めでたし。




