樹里ちゃん、沖田総子に宣戦布告される
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドです。
人を疑ったことがない樹里は、不甲斐ない夫の杉下左京が税理士の沖田総子の事を可愛いと思い始め、不倫するしかないと考えているとは夢にも思っていません。
「そんな事考えてねえよ!」
理路整然とした地の文の推理に切れる左京です。でも、可愛いと思った事は否定しませんでした。
「かはあ……」
反論の余地がないので、血反吐を吐く左京です。
そして、いつものように樹里は四女の萌里をベビーカーに乗せて出勤し、長女の瑠里と次女の冴里は集団登校で小学校へ向かいました。
「パパ!」
妄想が激しい父親に仁王立ちで凄む三女の乃里です。
「悪かったよお、乃里ィ」
デレデレしながら謝る左京です。
こうして、滞りなく、いつものシーンをいつものように描写した地の文です。
「我らはどうなったのですか!?」
登場を割愛した地の文に抗議する昭和眼鏡男と愉快な仲間達ですが、地の文は知らぬ存ぜぬを貫きました。
「どうしたの、総子?」
朝早くから、事務所兼自宅に顔を出した総子に欠伸を噛み殺しながら応じる坂本龍子弁護士です。
「覚悟を決めました」
総子は眼鏡をクイッと上げて言いました。
「覚悟?」
龍子は何の事かわからず、首を傾げました。
「それだけです」
総子は一礼すると、サッサと帰ってしまいました。
「何なのよ、あの子?」
また首を傾げる龍子です。
その頃、樹里は五反田邸に着いていました。
「おはようございます、樹里さん」
もう一人のメイドで、もうすぐクビになる目黒弥生が挨拶しました。
「やめて!」
涙目で地の文に懇願する弥生です。
「おはようございます、弥生さん」
樹里は笑顔全開で応じました。
「今日は特に連絡事項はありません」
弥生が言いました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じました。弥生の登場はこれでおしまいです。
「何でよー!?」
雄叫びをあげる弥生ですが、地の文にはどうする事もできません。
「あ」
ゴールデンレトリバーのルーサの散歩を終えた左京は、メールが来ているのに気づきました。
(龍子さんからだ)
左京は不倫の誘いだったら断ろうと思いました。
「そんな事思わねえよ!」
妄想が激しい地の文に切れる左京です。
(沖田先生の様子がおかしいので注意してください? どういう事?)
疑問に思った左京は龍子に電話をしました。
「おはようございます」
龍子はワンコールで出ました。
「さっきのメール、どういう事ですか?」
左京が尋ねると、
「実は……」
龍子は朝の事を話しました。
「覚悟を決めた? 何の覚悟ですかね?」
左京は呑気な事を言いました。
「左京さんに告白するつもりではないかと思います」
龍子の突拍子もない推理に左京は苦笑いをして、
「それはないですよ。最近、沖田先生は目も合わせてくれないのですから」
「え? そうなんですか?」
左京の話は龍子には意外でした。
「前に左京さんが話しかけてきて困るって言っていたので、それは当たり前のことだからって諭したんですけど、ダメだったんですね」
龍子の話を聞いて、左京はちょっと落ち込みました。
「まだ怖がられているんですね。どうしたらいいんだろう?」
すると龍子は、
「怖がってはいないと思いますよ。目を合わせてくれないのは、恥ずかしいからだと思います」
「そうなんですかねえ。とにかく、気をつけます」
左京は龍子の気持ちもわかっているので、曖昧な返事をしました。
「はい、そうしてください」
龍子との通話はそれで終わりました。
その日は左京にしては珍しく仕事が立て込み、事務所の電話を転送してスマホにかかるようにして出かけました。
「左京にしては珍しくって言うな!」
地の文の言い回しにいちいち切れる左京です。
(結局、沖田先生からは連絡はなかったな。アポなしでいきなり来るような人ではないから、今日は来ないのかな)
左京はスマホを革ジャンのポケットに入れると、事務所に入りました。
その後も総子から連絡はなく、夜になりました。
「只今帰りました」
樹里が眠っている萌里を抱いて玄関に入ってきました。
「お帰り……」
そこまで言った左京は樹里の後ろに総子が立っているのに気づき、ビクッとしました。
「門の前で、沖田先生とお会いしました」
樹里は笑顔全開で言いました。
「夜分遅くに申し訳ありません」
総子は深々と頭を下げました。
「いえ、構いませんよ。どうぞお上がりください」
左京は引きつった顔で言いました。
瑠里達はお風呂に入るように樹里に言われ、そそくさとリヴィングルームを出て行きました。
「おねえさん、おっぱいおっきいね」
胸の大きさには鋭い冴里が言いました。
「そ、そうですか?」
自覚していない総子は苦笑いしました。左京は引きつりましたが、
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じました。
「どうされましたか?」
左京はソファを勧めながら尋ねました。総子はソファに腰を下ろして、
「奥様に聞いていただきたい事があります」
樹里を見上げました。
「そうなんですか」
樹里は萌里に授乳をすませてから左京と隣り合って総子の向かいに座りました。
(何を言うつもりなんだろう? まさか、龍子さんが言うように、告白?)
その時、左京はある事に気づきました。
(あれ? 沖田先生、酒を飲んできたのか?)
かすかにアルコールの匂いがしたのです。
(俺がわかるんだから、樹里も気づいているよな)
左京は樹里を見ましたが、樹里は笑顔全開のままで、どう思っているのかはわかりません。
「奥様、お気を悪くなさるかも知れませんが、お話をしたい事があります」
左京は、総子の目が座っているように思えました。
(沖田先生、酒乱?)
一瞬、嫌な予感がしました。
「そうなんですか」
樹里は相変わらず笑顔全開です。
「ご主人に対して、奥様はあまりにも無関心だと思います。私のような女が昼間に一人で事務所を訪れて、二人きりで何時間も一緒にいるのに、全く心配なさる事はないのですか?」
左京は総子の口調がいつもと違って速いので、ハッとしました。
「ありませんよ」
樹里はそれでも笑顔全開で応じました。
「そうですか。私のように魅力のない女がご主人と二人きりで何時間も同じ空間にいても、全然差し支えないという事なのですね?」
総子は涙ぐんで言いました。
(え? 泣き上戸なの?)
また顔が引きつる左京です。
「沖田先生は魅力的な女性ですよ」
樹里は笑顔全開で言いました。左京はどう反応したらいいかわからず、固まっていました。
「わかりました。では私は、ご主人にどんどん迫る事にします。ご承知おきください」
総子は急に立ち上がると、大声で言いました。
「沖田先生、悪酔いしていますね? お座りください」
左京が言うと、
「うるさい! 貴方は黙っていなさい!」
総子は左京を睨みつけました。そして次の瞬間、コテンとその場に倒れてしまいました。
「沖田先生!」
左京が驚いて立ち上がると、
「大丈夫です。眠っているだけです」
樹里が素早く看護師の顔になり、総子を看ました。そして、
「左京さん、もう少し、沖田先生に優しくしてあげてくださいね」
笑顔全開で左京を窘めました。
(俺が悪いの?)
納得がいかない左京ですが、
「そうなんですか」
樹里の口癖で応じるしかありませんでした。
めでたし、めでたし。




