樹里ちゃん、水無月皐月の悩みを聞く
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドです。
今日は変則です。樹里はベビーカーに四女の萌里を乗せて、散歩していました。
樹里が産休を取った事を知らない昭和眼鏡男と愉快な仲間達はいつものように樹里を迎えに行き、衝撃の事実を不甲斐ない夫だった杉下左京に告げられ、肩を落として帰って行きました。
樹里の護衛以外、何もしている様子のない不審な連中なので、早いうちに連行した方がいいと思う地の文です。
「我々は不審者ではありません!」
JR水道橋駅前で警察官に職務質問をされ、いきなり叫んだので、応援を呼ばれ、取り囲まれました。
眼鏡男が左京の携帯番号を知っていたお陰で、何とか解放されました。
普段は役に立ちませんが、元警視庁の警部だったのは使えるのです。
「いろいろうるせえ!」
いくつか放ったボケに対して、まとめて地の文に切れる左京です。
「すみません、御徒町樹里さんですか?」
いきなり長身の男が声をかけて来ました。新手のナンパでしょうか?
「いいえ、違います」
樹里は笑顔全開で応じて、そのまま歩き去ろうとしました。
「いやいや、皐月から聞いています。貴女は御徒町樹里さんですよね?」
男は樹里の前に立ちふさがって言いました。
「違います。杉下樹里です」
樹里は笑顔全開で真っ直ぐなボケをかましました。
「ああ、すみません、そうでしたね。正式なお名前は、杉下樹里さんでしたね」
男は顔を引きつらせて言いました。
「私は水無月皐月の幼馴染の霜月翔です」
男は名刺を差し出しました。
「名刺屋さんですか?」
樹里は鉄板のボケをかましました。
「違います。防衛省に勤務しています」
霜月は嫌な汗を掻きながら言いました。
「そうなんですか」
樹里は名刺を真島氏と見て言いました。
「ここでは何ですから、喫茶店で話しましょう」
霜月は早速正体を現し、樹里を連れ去ろうとしました。
「違う! 皐月の事を訊きたいだけだ!」
すぐに新しい登場人物を悪者認定する地の文に切れる霜月です。
「それなら、私の家の方が近いですから、そこで話しましょう」
樹里は笑顔全開で応じると、家へと歩き始めました。
「いや、その、樹里さんのお宅には皐月がいるので……」
霜月はあたふたしながら言いました。
「そうなんですか? 皐月さんがいると、何かまずいのですか?」
樹里は小首を傾げて言いました。
「いや、まずいというか、皐月が怖いというか……」
霜月は苦笑いをしました。
「皐月さんは優しい人ですよ。大丈夫です」
樹里はそれだけ言うと、また歩き始めました。
「あいつは他人には優しいんですよ。でも、私には鬼のように怖いんです」
霜月が皐月をディスり始めた時、
「誰が鬼のように怖いんですって?」
仁王立ちの皐月がいきなり登場しました。レベルが無限大になっています。
「うわあ!」
霜月は昭和のコントのように驚いて腰を抜かしました。
「ああ、皐月さん、ちょうどよかったです。この方が皐月さんの事を訊きたいとおっしゃったので、家まで案内しているところなんです」
まるで状況を理解していない樹里が笑顔全開で言いました。
「逃げましたよ」
皐月は呆れ顔で言いました。樹里が振り返ると、霜月はもういませんでした。
「そうなんですか」
それでも樹里は笑顔全開で応じました。
「申し訳ありませんでした。最近、あちこちに出没していたので、警戒していたのですが」
皐月は樹里に謝罪しました。
「そうなんですか」
樹里はそれでも笑顔全開で応じました。皐月は苦笑いしました。
「もうあいつの話は聞かないでください。どうせロクでもはない事を言うんですから」
皐月も樹里の家へと歩き出しました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で授乳全開です。
皐月はその大きさに目を見張り、周囲にいた人達は固まってしまいました。
「あの方が皐月さんの好い人なのですよね?」
樹里は全く悪気なく尋ねました。皐月はビクッとして樹里を見ると、
「違いますよ。あいつは只の幼馴染です」
大股で歩きました。
「そうなんですか?」
樹里は小首を傾げて応じました。
左京はまた不審な男がうろついているのを見て、門扉の周囲を見て回っていました。
「どうしたのですか、左京さん?」
樹里と皐月が戻って来ました。
「ああ、今、水無月さんの彼氏がいたので……」
左京が言いかけると、
「彼氏じゃありません! 只の幼馴染です!」
皐月が大声で言ったので、萌里が目を覚まして泣き出しました。
「ああ、すみません」
またやってしまった皐月はオロオロしました。
「大丈夫ですよ」
樹里は萌里を抱き上げて、ゆっくりと揺すりました。すると萌里はすぐに眠ってしまいました。
「あの男は妄想癖がありますので、相手にしないでください」
皐月はそれだけ言うと、探偵事務所の方へ駆けて行きました。
左京はパンチラしないかなと思いながらそれを見送りました。
「やめろ!」
少し思っていたので焦って地の文に切れる左京です。
「左京さん、お仕事だったのではないですか?」
また樹里は全く悪気なく左京に尋ねました。
「ああ、そうだった、そうだった」
左京は顔を引きつらせながらも、仕事があるふりをして門の外へ行きました。
そして、どうしたものかと歩いていると、
「あの……」
電柱の陰から霜月が現れました。
「あ、貴方は……」
左京は言いかけましたが、名前を知りませんでした。
「私は霜月翔と言います。皐月の幼馴染です」
「ああ、そうですか。私は杉下左京です」
「お話、いいですか?」
霜月は皐月がいないか周囲を気にしながら言いました。
そして二人は近所の喫茶店に入りました。
霜月は左京に事情を説明しました。
霜月と皐月は多摩郡大江戸村の出身で、小さい頃、親同士の勝手な約束で許婚になったのです。
霜月はそれをずっと嬉しく思っていましたが、皐月は嫌がり、高校を卒業して大学に入学すると、アパートを借りて実家を離れました。
その辺りから、皐月は音信不通になったそうです。
霜月も都心の大学を選び、皐月を探しましたが、わかりませんでした。
「皐月より先に、六本木さんに会いました」
霜月が苦笑いをして言いましたが、左京には六本木さんがわかりません。
人の名前を忘れる名人ですから、覚えていないのです。
しかも悪い事に霜月は六本木厚子が怪盗ベロトカゲだと知りません。
更に皐月が怪盗ドロントだとも知らないのです。
(なるほど、水無月さんが会いたくない理由はそこか)
左京は何となく二人の事情を理解しました。
一方、樹里もリヴィングルームで皐月から話を聞いていました。
皐月は霜月が嫌いではないのです。只、親同士が決めた事に逆らっただけでした。
それで霜月を傷つけてしまったと後悔しているのです。
「只、彼は私のその後の事を全く知りません。そして、私の両親も彼の両親も知らないのです。今、会ったりすると、全てが壊れてしまうような気がして」
皐月は涙ぐんでいました。
「そうなんですか」
それでも樹里は笑顔全開です。
「では、このまま一生会わない事にしますか? それとも、全てを打ち明けますか?」
樹里が真顔で尋ねたので、皐月はハッとしました。
(本当にこのままでいいの?)
皐月は自問しました。
「決心がついたら、ここに電話してください」
樹里は霜月から受け取った名刺を渡しました。
皐月はそれを握りしめて目を閉じました。




