樹里ちゃん、隅田川美波を送り出す
俺は杉下左京。自宅の隣に事務所を構える私立探偵だ。
先日、疑惑の調査員である隅田川美波さんに対して、苦肉の策とも思える「お弁当のお返し」をした。
我が愛妻である樹里の発案だったが、俺はそれを見くびっていた。
まだ隅田川美波さんが小学校低学年だった頃、彼女は偶然にも樹里の家の近所に住んでいた。
樹里のお母さんである由里さんが超売れっ子占い師だったため、樹里のお姉さんの璃里さんと樹里は、年の離れた妹達の面倒を見ながら、家事もこなすという忙しい毎日を送っていた。
そんな中、毎日の献立に困っていた璃里さんと樹里が、近所にいた美波さんのお母さんにお惣菜の作り方や魚の料理の仕方、捌き方を教わっていた。
少し年下だった美波さんは、璃里さんと樹里を本当のお姉さんのように慕い、仲良く料理を作っていたらしい。
美波さんはおぼろげながら記憶していたのだが、樹里はほとんど覚えていなかったので、璃里さんに確認した。
「そうだったんですか。あの時の可愛い女の子が、隅田川美波さんだったのですか」
璃里さんは感慨深そうに言った。
その時の思い出が、美波さんの悪意を打ち消したのだ。
美波さんは、それから数年後、お母さんを亡くしている。
実は父親が借金をして別の女と逃亡し、知らない間に保証人になっていたお母さんは寝る間を惜しんで働きづめだった。そのせいで、病気の発見が遅れ、亡くなったのだ。
そんなお母さんを見ていた美波さんは、人を信じれば裏切られ、優しくすれば付け込まれると考えた。
そこから、美波さんは人を信じず、優しくしてくれる人には裏があると思い、心を開かなかった。
そのため、美波さんは友達が一人もいない。それを別に悲しい事だとも思わなかった。
むしろ、信じていた友人に裏切られて酷い目に遭った人を何人も見てきて、自分の生き方は正しいと考えたそうだ。
高校を卒業すると、近くにあった探偵事務所でアルバイトをし、生計を立てた。きょうだいもいない美波さんは、お母さんが亡くなった事で天涯孤独になったのだ。
探偵事務所の所長は、絵に描いたような善人で、美波さんは毎日軽蔑しながら働いていた。
調査料が支払えない人からはもらわない所長を見て、美波さんは自分のバイト料が堪えなくなると思い、
「仕事をしたのに料金をもらわないのは間違っています」
意見をした。すると所長は、
「そんな悲しい事を言わないでくれ。心配要らない、貴女のアルバイトの給料はきちんと支払うから」
逆に諭されてしまった。美波さんは所長の考え方が理解できず、更に軽蔑するようになっていった。
そして、所長は資金繰りに詰まり、依頼を何でも受け、暴力団とも付き合うようになってしまった。
やがて、事務所にはヤクザが出入りするようになり、美波さんはそこを辞めた。
(そら見た事か。人を信じた者は酷い目に遭うんだ)
美波さんは自分の考え方が間違っていないとますます思うようになり、別の探偵事務所で働くようになった。
才能があったのか、美波さんはその事務所でメキメキと力を発揮して、最年少ながら業績トップになった。
それは他の調査員達の嫉妬や羨望を集め、いじめにつながっていった。
しかし、美波さんは負けなかった。何よりもお母さんのために。
貧乏で、お墓も建ててあげられなかったので、それだけを思い、どんな嫌がらせや屈辱にも堪えた。
数年後、所長が病に倒れ、仕事が激減すると、多くの所員は辞めていったが、美波さんは残り、遂にその事務所を実質的に運営する立場になる。
所長が亡くなり、その家族も美波さんに事務所を譲った。こうして、隅田川美波探偵事務所ができた。
それから更に数年が経ち、美波さんは勝美加弁護士の専属事務所となり、金に無頓着な美加さんをいいように操り、儲けていった。
ところが、美加さんが俺達と関わるようになり、状況は一変。美波さんは美加さんから仕事をもらえなくなった。
仕事が回ってこなくなったのは、杉下左京のせいだと判断した美波さんは、次に俺の事務所乗っ取り計画を考える。
有栖川倫子さんや黒川真理沙さんの活躍で、それは阻む事ができたが、美波さんは諦めなかった。
俺を犯罪者(それも性犯罪者)に仕立て上げ、事務所を乗っ取ろうとしたのだ。
しかし、結果はそうはならなかった。樹里がその昔、一緒に料理をしたり遊んだりしたお姉ちゃんだとわかったからだ。
「ご迷惑をおかけしました。これからはもっと人に優しい人間になりたいと思います」
美波さんは涙を目に浮かべて言った。
「そうなんですか」
樹里も涙目になりながらも、笑顔全開で応じた。俺ももらい泣きしそうだ。
「また事務所を開くのか?」
俺は目にゴミが入ったふりをして涙を拭いながら尋ねた。美波さんは微笑んで、
「はい。勝先生が、戻って来てほしいとおっしゃってくれましたので」
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じた。俺は鼻の頭を掻いて、
「そうか。それは少し残念だな」
「ありがとうございます」
美波さんは最後に俺の右手を両手で包み込むようにして握手をすると、にこやかに事務所を去っていった。
「左京さん」
樹里の声に思わずビクッとしてしまう。顔がデレッとしていたのかな?
「隅田川さんには申し訳ない事をしました。私、すっかり忘れていたので」
樹里は気まずそうに俺を見る。俺は微笑んで、
「仕方ないさ。二十年近く前の事なんだからさ。俺なんか、昨日の夕食に何を食べたのかも思い出せないよ」
冗談のつもりで言ったのだが、樹里はびっくりした顔になり、
「左京さん、それはまずいです。すぐに病院に行きましょう。脳ドックを受診した方がいいですよ」
真面目な口調で言ったので、俺は軽く落ち込み、
「そうなんですか」
樹里の口癖で応じるのが精一杯だった。
「早速、予約をしましょう」
樹里は知り合いがいる総合病院に連絡を始めた。
まあ、年齢的にそろそろ気をつけた方がいいかな。最近、頻尿気味だしな。
子供達のためにも、健康でいたいものだ。




