樹里ちゃん、左京を応援する
俺は杉下左京。自宅の隣に事務所を構える私立探偵だ。
その経歴を買って、調査員として採用した隅田川美波さん。
ところが、裏の顔があるとわかって来て、考えを改めなければならなくなった。
決め手は、隅田川さんが作って来たおにぎりだった。
「このおにぎり、何かかけられています。おそらく、イランイランではないかと」
樹里が勤務している五反田邸の住み込み医師である黒川真理沙さんが言った。
最初は信じられなかった俺だったが、樹里の様子がおかしかったのは、そのイランイランのせいだとわかり、確信した。
やはり、隅田川さんは裏の顔を持つ怖い人なのだと。
今まで、隅田川さんの仕事ぶりに惑わされて、どうしても訊けなかったが、今度こそは訊かなければならない。
樹里が健康を害する程の量のイランイラン(惚れ薬と言われているものだ)をかけたおにぎりを俺に食わせて、何を企んでいたのか?
俺がイランイランのせいで隅田川さんに何かしてしまう事を想定したのではないか?
「左京だったら、そんな惚れ薬なんかなくても、若い女と二人きりでいたら、何かすると思う」
一応、備えあれば憂いなしなので、元同僚である警視庁の平井蘭警部に伝えたら、そんな嫌味を言われた。
「する訳ねえだろ!」
即座に反論した俺だったが、隅田川さんの正体がわかっていなければ、いい子だと思って、どんどん心を許していたかも知れない。
そして、気がついた時には、事務所を乗っ取られていただろう。
俺は、真理沙さんが容器を分析して結果を持ってくるまで、今まで通り、隅田川さんと接する事にした。
隅田川さんは容器の事を何も言わなかったので、俺も敢えて口に出さなかった。
「はい、所長。今日は混ぜご飯で作ってみましたよ」
何も知らない隅田川さんは別の容器を包んだ違う柄のランチョンマットを差し出した。
「ああ、ありがとう」
俺はドキドキしながら受け取った。いつ隅田川さんが前の容器の事を持ち出すか、気が気でなかったのだ。
もしかして、何か気づいてしまったのだろうか? いや、それはないだろう。
自分を落ち着かせて、隅田川さんが出かけるのを見送った。
何故容器の事を訊かなかったのだろう? そればかりが気になった。
そんな日が数日あり、真理沙さんから連絡があった。
「イランイランの推定量は、健康を害する程ではありませんでした。樹里さんは匂いに敏感なので、症状が出たのかも知れません。隅田川美波を告発するのは難しいですね」
「そうですか」
俺はがっかりしたと同時にホッとした。少なくとも、隅田川さんは俺を苦しめようとしているのではないと思いたかったのだ。
「これ以降、隅田川美波に対してどう臨むのかは、左京さん次第です」
真理沙さんの言葉が胸に響く。
「わかりました。一応、イランイランがおにぎりに混ぜられていたのは何故なのか、訊いてみようと思います」
俺は慎重に言葉を選んで告げた。
「そうですね。それは言った方がいいと思います。もし、相手が逆上したり、強く否定したりしたら、宥めるようにして、悪い方向に行かないようにしてください」
「はい」
通話を終え、スマホをポケットに戻すと、時計を見た。そろそろ隅田川さんが帰ってくる頃だ。
あれから、俺はおにぎりを食べたふりをして、容器から取り出し、ファスナー付きの袋に入れて保管している。
そして、こっそり家に戻り、朝飯の残りを食べているのだ。
「只今戻りました」
隅田川さんが玄関のドアを開いて言った。
「お帰り。ご苦労様」
俺は微笑んで応じた。隅田川さんは鞄の中から茶封筒を取り出して、
「本日の調査対象の行動報告書と、写真です」
俺はそれを頷いて受け取った。
「浮気の調査は、何度しても嫌な感じがします」
隅田川さんは苦笑いをして言った。
「そうだな。他人の粗を探す仕事だからな。俺もあまり好きじゃないが、仕事だと思って割り切っているよ」
「もちろん、私もそのつもりでしています」
隅田川さんは姿勢を正して俺を見た。
「わかっているよ。君は今までの調査員の中で抜群に優秀だからね」
「ありがとうございます」
隅田川さんは本当に嬉しそうに微笑んだ。これも演技なのだろうかと思ってしまう。
「ところで」
俺は意を決して言った。
「はい?」
隅田川さんはキョトンとした顔をした。
「作ってきてくれているおにぎりにイランイランという惚れ薬がかけられていたようなんだが、理由を教えてくれるか?」
俺は隅田川さんが怒り出すかと思ったのだが、
「やだ、さすが所長ですね。ばれちゃいましたか。そうです、イランイランをかけました」
妙に艶っぽい顔で俺を見つめてきた。ギクッとしてしまう。隅田川さんは机を回り込んで俺に近づくと、
「所長に私の事を好きになって欲しいからです」
予想に反して、そっちの方向へと舵が切られたので、狼狽えた。そして、
「お、俺は妻子ある男だぞ?」
間の抜けた声で言ってしまった。すると隅田川さんは俺の右手を両手で包み込んで、
「わかっています。でも、好きになってしまったんですもの」
目をウルウルさせるという反則技を繰り出してきた。
もし、何の情報もなかったとしたら、俺は彼女に惚れていたかも知れない。だが、取り込まれる訳にはいかない。
「そうやって、以前勤務していた探偵事務所を乗っ取ったのか?」
ここまで言えば、本性を現すと思った。ところが、
「その話、どこでお聞きになったのですか? 私、そんな女に見えます?」
今にもあふれんばかりの涙を溜めて、更に顔を近づけてきた。
「その話は嘘です。探偵事務所を引き継いだのは確かですが、それは元の所長が倒れてしまって、仕事を続けられなくなったので、一番長く働いていた私が引き継いだのです。乗っ取ったなんて、酷過ぎる嘘です……」
とうとう隅田川さんは涙をこぼした。
俺は女の涙にとことん弱い。そこからは彼女を宥めて、今日は帰りなさいと言い、その場を収めた。
隅田川さんは泣きながら帰宅した。
そして、夜になり、樹里が帰宅した。俺は夕食の後、樹里に全てを話した。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じた。そして、
「左京さんは女性に優しいので、仕方ないですよ。だから私も左京さんを好きになったのですから」
俺は顔が熱くなるのを感じた。
「私はどこまでも左京さんの味方です。応援していますから、隅田川さんとよく話し合ってください」
樹里の笑顔全開のその言葉に、俺は今度こそ隅田川さんときちんと話そうと思った。