樹里ちゃん、隅田川美波の押しに困惑する?
俺は杉下左京。自宅の隣に事務所を構える私立探偵だ。
あれこれ事情があって、調査員として採用した隅田川美波さん。
仕事は素早くこなすし、事務所の掃除、洗い物を手際よくすませる。
以前いたような気がするぐうたらの権化の加藤ありさとは雲泥の差だ。
ところが、樹里が勤務している五反田邸の同僚(でいいのか?)の有栖川倫子さんと黒川真理沙さんからの情報によると、隅田川さんは裏の顔を持ち、以前勤めていた探偵事務所の顧客を自分の個人的な顧客にして、最終的には乗っ取りのような事をして事務所を開いたという。
俺は一週間程、隅田川さんの仕事ぶりを観察し、顧客に確認の電話を入れたりしたが、隅田川さんの裏の顔がわかるような事はなかった。
一時は有栖川さんと黒川さんの話を疑ってしまった。決して、二人が「怪盗ドロント一味」かも知れないという事に引きずられた訳ではない。
隅田川さんは、俺の昼食のおにぎりを見て、
「それなら、今度は私が作ってきましょうか?」
それを聞いた俺は危うく飯粒を噴き出してしまいそうになった。
結局、隅田川さんの押しに負けた俺は、その提案を承諾した形になった。
決して、隅田川さんに心を惹かれた訳ではない。
しかし、お帰りのキスをした時、樹里に、
「心が離れてしまいそうな顔をしていましたから」
心臓に堪えるような事を言われ、後ろめたくなった。
「左京は女なら誰にでも優しいんだから」
以前にありさに皮肉っぽく言われた事がある。確かにそれは否定できない。
只、その性格が樹里と出会い、結婚までいくのに役立った事もあったので、直そうとは思っていないのも事実だ。
だが、このままだと、隅田川さんにどんどん押し切られ、彼女の思い通りにされてしまうかも知れない。
そうか。そういう事なのか? 俺を籠絡して、事務所を乗っ取るつもりか?
いや、彼女は事務所をまだ借りたままらしいから、俺の顧客を全部奪ってしまうのか?
これから先、俺は隅田川さんとどう対処していけばいいのか、迷ってしまった。
樹里と長女の瑠里を送り出し、次女の冴里と三女の乃里を保育所に送り届けて帰宅すると、すでに隅田川さんは事務所に来ていた。
「おはようございます、所長。おにぎり、作ってきましたよ」
爽やかな笑顔で告げる隅田川さん。この笑顔を見ていると、彼女がそんな悪人とは思えなくなる。
ああ、いかん。また悪い癖が出そうになった。
ありさは確かに手癖が悪かったが、事務所を乗っ取ったり、潰そうとしたりする事はなかった。
坂本龍子先生は、仕事に託けてデートをしようとしたりはしたが、業務を妨害するような事はなかった。
斎藤真琴さんは、無給で働いてくれた上、あれこれ俺のために動いてくれた。ちょっと怖い時もあったけど。
勝美加先生は、最初は樹里を逆恨みしていたが、やがては坂本先生と仲直りして、今は何も仕掛けてきてはいない。
今までいろいろな意味で事務所に関わってきた女性達は、悪人という事はなかったのだ。
ありさはギリギリだが。
隅田川さんはその誰とも違う。はっきり言えるのは、俺に一切恋愛感情はないという事。
こう見えても、それなりに恋愛経験は豊富な俺にはわかる。
隅田川さんは色目を使ってはいるが、ありさのように過剰なボディタッチや身体を接触してくる事はない。
坂本先生や真琴さんのように露出の多い服でアピールしてくる事もない。
あくまで気の利いた所員の範疇の行動なのだ。色目について言えば、俺の自意識過剰とも考えられる。
「はい、どうぞ」
隅田川さんはそんな俺の妄想を気づいているのかいないのか、給湯室でコーヒーを淹れてくれた。
「ああ、ありがとう」
「所長、一つご相談があります」
隅田川さんは机を挟んで立ち、俺を見た。
「何かな?」
急に緊張感のある声で言われたので、思わずドキッとして彼女を見上げた。
「今取り掛かっている四ツ谷様の案件なのですが、先方様が報酬のお振込をしたくないとおっしゃっているのです」
隅田川さんは上目遣いで俺を見下ろした。高度なテクニックだな。
「報酬を支払いたくないという事か?」
俺は目を背けずに尋ねた。
「いえ、そうではありません。お振り込みではなく、現金でお支払いになりたいようなのです」
当事務所は、ありさのネコババ事件以来、報酬は全て振り込みにしてもらっている。
その方が確実だし、確定申告の時に煩雑な処理をしなくてすむからだ。
まさか? 現金で受け取って、差額を横取りするのか? いや、そんなわかり易い事をするだろうか?
ありさのような能天気な奴だったら、やりかねないが。
「所長が開業以来、全て報酬は振り込みでされてきたのは重々承知しているのですが、四ツ谷様は大の銀行嫌いで、口座を全く持っていらっしゃらないのです」
隅田川さんは申し訳なさそうに言った。
「わかった。では、事務所に持ってきてもらえばいいだろう」
俺は隅田川さんがどう反応するのか見るために、彼女の顔を見て告げた。
「そうですね。そうしてもらいます」
ところが、隅田川さんは樹里に負けないくらいの笑顔で応じた。ちょっと肩透かしを食った気がしてしまう。
「これが四ツ谷様との契約書と調査報告書の写しです。お改めください」
隅田川さんが差し出した茶封筒を受け取り、中身を確認した。不審な点はない。
「それから、これが所長に作ってきたおにぎりです。お昼にお食べください」
隅田川さんはバッグの中から可愛いランチョンマットに包まれた弁当箱を手渡された。
「あ、ありがとう」
つい狼狽えて応じてしまった。
「では、本日の案件のクライアントのところに行って参ります」
隅田川さんはニコッとして出かけていった。
「気をつけてな」
俺は手を振って出て行く隅田川さんに手を振り返した。
本当なのだろうか? また有栖川さん達を疑ってしまう。それとも、隅田川さんの演技力がすごいのだろうか?
しばらくして、昼になった。俺は隅田川さんから受け取った弁当箱を開いてギョッとした。
小さな弁当箱には、おにぎりが二個詰められていた。どちらも海苔を巻いたものだ。
その海苔は「LOVE」と切り抜かれていた。鼓動が早まり、嫌な汗が身体中から噴き出してきた。
隅田川さんは夕方になると直帰の連絡を入れてきた。
「おにぎり、美味しかったよ」
とても「LOVE」の意味を訊けなかった。
俺は自宅に戻り、瑠里を出迎え、冴里と乃里を迎えに行き、夕食の支度をした。
樹里が帰宅した。子供達は大好きなワン太夫の放送を観ているので、玄関には来ない。
「左京さん」
樹里が笑顔全開で携帯の画像を見せてくれた。それを見た時、心臓が止まるかと思った。
隅田川さんがおにぎりの画像を樹里に送っていたのだ。
「これから所長のお昼ご飯は私が作りますとメールと共にこれが送られてきました。そうなんですか?」
樹里に言われた。俺は気を失いそうになったが、
「いや、それは俺にもわからない……」
最後の方はゴニョゴニョになってしまった俺だった。
「そうなんですか」
樹里はお帰りのキスもしないまま、リヴィングルームへと行ってしまった。
杉下左京、人生最大のピンチかも知れない。