樹里ちゃん、左京に相談される
俺は杉下左京。自宅の隣に事務所を構える私立探偵だ。
先日、勝美加先生の事務所で仕事を受けていた私立探偵の隅田川美波さんんが、仕事をもらえなくなって困っていると相談してきた。
隅田川さんは、十年近く探偵をしているので、俺より先輩だ。そんな人材が来てくれれば、当事務所は仕事が増え、左うちわになるだろうと思い、樹里の勧めもあって隅田川さんを調査員として採用する事にした。
実際に仕事をさせてみると、手際もよく、お客さんにも評判がいい。
更に営業能力もあり、新たな顧客を開拓してくれた。
以前働いていた加藤ありさとは比べ物にならない。まあ、ありさはありさで、「幽体離脱」という特殊能力があるので、使える事は使えるのだが、何しろぐうたらな上、手癖も悪かったので、夫である加藤真澄と相談の上、辞めてもらった。
隅田川さんは、勝先生に逆恨みされ、裁判を起こされそうになったが、逆に訴える材料があったらしく、樹里に訴状の写しを見せた翌日には訴えを取り下げていた。
隅田川さんが勝先生に対して水増し請求をしていた事実はあったようだが、それ以上に勝先生のパワハラが酷かったので、勝先生も引き下がるしかなかったようだ。
最近、何かと多いパワハラ事件だが、証拠として残せるものがいろいろとできたので、使う側ももう少し節度を以って仕事をしなければならないと思った。
樹里が仕事を再開したので、俺も頑張らなければならないと思い、事務所に行った。
「おはようございます」
すでに隅田川さんは出勤しており、掃除も終えていた。
「おはよう」
こんな清々しい事務所は、樹里が掃除を毎日してくれていた五反田の事務所以来だ。
自宅を新築して(悲しい事に資金のほとんどは樹里が出した)、その隣に事務所を構え(これも樹里が出した)、ありさがまた事務員として働くようになり、所内は瞬く間に汚れていった。
樹里ができる時は掃除をしてくれていたのだが、それよりもありさが汚すスピードが早く、綺麗になった事がなかったのだ。
「どうぞ」
俺が綺麗になった事務所に感心しているうちに、隅田川さんがコーヒーを淹れてくれた。
「ありがとう」
俺は夏でもホットコーヒーを飲む。それも気づいてくれていた。
真冬でもアイスコーヒーを出したありさとは違う。
俺は鼻に入ってくるかぐわしいコーヒーの香りを楽しみ、一口飲んだ。
温度も程よく、熱過ぎない。素晴らしい。
「では、昨日の続きの調査をしてきます」
隅田川さんは微笑んで告げると、事務所を出て行った。
こうしてはいられない。俺も仕事をしなくては。
机の中の書類を取り出し、中身を確認する。
坂本龍子先生が回してくれた案件だ。浮気の調査か。六十代? うは、元気な旦那だな。
水曜日に来て欲しいとメモがある。これは後回しか。
次の書類を取り出した。あれ? これはすでに隅田川さんが取り掛かっているものだ。
間違えてここに入れてしまったのか。
それからいくつもの案件の書類を見たが、皆隅田川さんが取り掛かっているか、予定が先かのどちらかだった。
仕事が早い人だ。坂本先生に頼んでいるものだけでは足りなくなりそうだ。
いい事だ。俺が一人だった時、ここまで仕事はこなせなかった。隅田川さんに来てもらって、本当によかった。
その時、ドアフォンが鳴った。
「はい、杉下左京探偵事務所です」
俺は机の上の受話器を取って応じた。
「おはようございます。五反田邸の住み込み医師をしております、黒川真理沙です」
モニターに映ったのは、女優のように綺麗で品のある黒川さんだった。
「お久しぶりです。どうなさいましたか?」
俺はすぐにドアに駆け寄り、開いた。
「お久しぶりです。お時間、大丈夫ですか?」
真理沙さんは真顔で言った。
「はい、大丈夫ですよ。実はうちには優秀な調査員が入ったんですよ」
俺は少し誇らしげに告げた。すると真理沙さんは、
「知っています。実はその事でお話があって、参りました」
俺は苦笑いをして、
「そうでしたか。どうぞ」
真理沙さんをソファへ誘導した。ところが真理沙さんはドアを後ろ手に閉じると、
「いえ、手短にお話し致しますので、ここで結構です」
「え?」
真理沙さんの口調に俺も何かあると思い、彼女を見た。
「左京さんは隅田川さんの評判をお聴きになった事がありますか?」
真理沙さんは俺を睨めつけるように見る。俺はギョッとしながらも、
「はい。お客さんにはすごく評判がいいですよ」
「そうではありません。ここに来る以前の彼女の評判です」
真理沙さんはいくらか食い気味に言った。
「どういう事ですか?」
俺は眉をひそめて尋ねた。真理沙さんは声を低くして、
「隅田川さんは、以前にいた探偵事務所の顧客を次々に自分の個人的な顧客にして、独立したそうです。勝先生の依頼者からも、先生を通さずに受けた仕事がたくさんあるようです」
おいおい、今話題の「直営業」ってやつか?
「隅田川さんは仕事が早く、長引くと思われる案件もすぐに片付けてしまうと言われていますが、それは違うのです」
真理沙さんの顔が近い。不覚にもドキドキしてしまう。
「どういう事ですか?」
俺は真理沙さんの答えを待った。
「終わったように見せかけて、自分の仕事に切り替え、残りの調査料を独り占めしているのです」
「何ですって?」
俺の大声に、真理沙さんは自分が近寄り過ぎたのに気づいたのか、慌てて後ずさった。
「今、私と有栖川先生で証拠を集めています。しばらくは彼女を泳がせておいてください。では」
それだけ言うと、真理沙さんはスッと事務所を出て行ってしまった。
有栖川先生と、か。二人が怪盗一味の「ドロント」のメンバーではないか、いやきっとそうだと思っているが、それ以上に助けてもらった事があるので、その事に関しては不問に付す事にしている。
とにかく、樹里が帰ってきたら、今後の事を話し合おう。それにしても、うちにはまともな所員が来てくれないのか?
その後、隅田川さんが戻っても、俺は素知らぬ顔をして通常通りに接し、彼女は定時で帰った。
俺は夏休みボケが治らない長女の瑠里がきちんと毎日の勉強をしているのか確認してから、次女の冴里と三女の乃里を保育所まで迎えに行った。
やがて、樹里が帰宅した。どうやら、樹里は有栖川先生から事情を聞いたらしく、俺が切り出すまでもなく、隅田川さんの話をしてくれた。
「どうしますか?」
食事の後、瑠里達を風呂に入らせてから、樹里がリヴィングルームで言った。
「お二人に任せるしかないだろう。しばらくはこの事は誰にも話さないでくれ」
「わかりました」
樹里は笑顔全開で応じた。
妙にシリアスな展開なので、最終回が近いのかと思う俺だった。




