樹里ちゃん、訴状を渡される
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドです。
先日、新たに不甲斐ない夫の杉下左京の不倫相手になった隅田川美波の件で、坂本龍子弁護士、勝美加弁護士、斎藤真琴の三人に詰め寄られました。
「不倫相手じゃない! 調査員だ!」
すぐに反応して地の文に切れる左京です。
樹里は弁護士二人の理論責めにも負けずに論破して、形勢不利と見た真琴が二人を引きずるようにして撤退しました。
それから一週間後、今度は別の方面からの攻撃を受けました。
「勝弁護士に訴えられた?」
左京は事務所で美波から話を聞き、驚いていました。
「はい。契約は確かに更新していなかったので違反にはならないが、精神的ショックを受けたので、慰謝料を請求すると告げられました」
美波は涙ぐんで言いました。
(やっぱりこの子、可愛いな)
根がスケベな左京は思いました。
「思ってねえよ!」
適当な妄想をでっち上げた地の文に切れる左京です。
履歴書で生年月日を確認し、樹里より若いのを知り、乗り換えようと考えています。
「やめろ!」
実際に美波が樹里より年下なので、興味が湧いたのは事実です。
「くはあ……」
真実を暴露され、血を吐いてしまう左京です。
「助けていただけませんか、先生?」
美波に上目遣いで見つめられ、「先生」と殺し文句を言われたせいで、左京は理性が吹っ飛びそうです。
(堪えろ、俺!)
樹里の笑顔と真顔を思い出して、何とか我慢する左京です。
「わかった。勝先生に話をしてみよう」
左京が言うと、
「ありがとうございますう、先生!」
左京の右手を両手で握りしめ、涙ぐむ美波です。
左京は我慢できなくなり、美波とすぐにホテルへ直行しました。
「してねえよ!」
ギリギリのところで踏み留まった左京が地の文に切れました。
(死ぬ……。こんな生活が続いたら、死ぬ……)
左京はぐったりして椅子に身を沈めました。
「では、昨日の案件の調査を更に進めてみます」
美波は嬉しそうに仕事に出かけました。
「仕方ない。気乗りはしないが……」
左京は机の引き出しから名刺ホルダーを取り出して、美加の名刺を引き抜くと、事務所の電話番号を確認してかけました。
「お電話ありがとうございます、勝美加弁護士事務所です」
美加が直接出ました。
「おはようございます、勝先生。探偵の杉下左京です」
「おはようございます、左京さん。どうなさいましたか?」
美加は余所行きの声で尋ねました。左京はその声に苦笑いをして、
「うちで採用した隅田川美波さんの件でお話ししたいのですが?」
すると美加は、
「その件に関しましては、お話しするつもりはありません。失礼致します」
電話を切ってしまいました。左京は唖然としました。
(これは想像以上に厄介そうだな)
左京は席を立つと、事務所を出ました。どうやら、今日の不倫相手は坂本弁護士のようです。
「違う!」
確かに龍子に会いに行こうとしていたので、地の文の指摘にビクッとして切れる左京です。
(坂本先生に間に入ってもらって、何とか和解させるしかないだろう)
弱気な左京は裁判では勝ち目がないと思っています。ダメな男です。
「うるせえよ!」
正しい事を述べただけの地の文に理不尽に切れる左京です。
その頃、樹里は五反田邸に到着したところでした。
「では樹里様、お帰りの時にまた」
セリフが少なくても謙虚にこなす昭和眼鏡男と愉快な仲間達です。
「ありがとうございました」
樹里は深々と頭を下げてから、邸に入って行きました。
五反田氏はまだ帰国していないのですが、愛娘の麻耶の高校の夏休みが終わるので、妻の澄子と先に戻って来ます。
そのため、樹里は食料の買い出しと各部屋の掃除を始めているのです。
「樹里さん、おはようございます」
ようやく産後の肥立ちが落ち着いた目黒弥生が挨拶しました。
「おはようございます」
樹里は笑顔全開で応じました。すると弥生は苦笑いをして、
「先程、弁護士の勝先生からお電話があって、これからこちらに見えるそうです」
「そうなんですか」
それにも関わらず、樹里は笑顔全開で応じました。
「いろいろと大変ですね」
弥生がねぎらいの言葉をかけましたが、
「そうなんですか?」
首を傾げて応じる樹里です。
左京は坂本龍子の弁護士事務所に着いていました。
「美加がですか?」
左京から事情を聞いた龍子は目を見開きました。
「あの子は以前から何かというとすぐに訴訟を起こしていました。仕方のない子ですね」
龍子は左京と相向かいでソファに腰を下ろしました。スカートが短いので、左京は目のやり場に困りました。
「私に任せてください。すぐに訴状を取り下げさせますので」
身を乗り出した龍子の胸元が大きく開いているので、また左京は目のやり場に困りました。
(大丈夫なんだろうか?)
顔を引きつらせる左京です。
五反田邸でも、美加がやって来て、樹里と応接間のソファで向かい合って座っていました。
「一応、樹里さんも関係者ですので、訴状の写しをお持ちしました。お改めください」
美加は鞄の中からA4サイズの封筒を取り出して、樹里に渡しました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で受け取って、中身を取り出すと、速読術を駆使して、たちまち読み終えました。そして、
「このような事が起こった時のために対処方法を隅田川さんからお聞きしています」
「はい?」
意外な返事に美加はキョトンとしました。樹里は横に置いていた茶封筒を手に取り、中からクリアファイルを取り出しました。
「お改めください。勝先生が隅田川さんの名字を言い間違った年月日と時間、そして間違えた時の川の名前が克明に記されたメモ帳のコピーです」
樹里の説明に美加の顔色が変わりました。
「それだけの数の川の名前に言い間違えるという事は、意図的に間違えているとしか思えないので、ある種のハラスメントと考え、訴えさせていただくそうです」
美加は仰天しました。嫌な汗が大量に噴き出します。
「し、失礼致しました」
美加は何も反論せずに逃げるように帰って行きました。あまりにも早かったので、樹里と弥生が見送れない程でした。
そして、左京に頼まれた龍子が美加のところに連絡すると、
「何の事?」
美加にとぼけられてしまいました。
(ちょろい、ちょろい。杉下左京探偵事務所なんて、すぐに乗っ取ってあげるわ)
ある大通りの舗道を歩きながら、ニヤリとする美波です。