樹里ちゃん、探偵に戻る?
俺は杉下左京。自宅の隣に事務所を構える私立探偵だ。
主な仕事は猫探し。たまに浮気調査をする事があるが、修羅場に立ち会うのはお断りしている。
現在、妻の樹里は長期の休業中だ。
勤務先である大富豪の五反田邸の主人の五反田六郎氏がアメリカへ長期出張中で不在だからだ。
金持ちのやる事はすごい。愛娘の麻耶さんは高校三年生だが、母親の澄子さん共々、五反田氏に同行して、渡米している。
五反田邸に勤務している人達は、その全員が休業補償を受けており、樹里は給与の九十パーセントを支給される事になっている。
どこぞの銭ゲバ芸能事務所とは大違いだ。これなら、闇の副業をする必要はない。
まあ、以前の樹里は新聞配達と喫茶店勤務と居酒屋勤務をこなしていたから、仮に副業が許されるのであれば、朝から深夜まで働いてしまうだろう。
娘が三人いるから、そんな事はしないだろうが。それに夫としてされたくはないし。
「左京さんのお仕事のお手伝いをしますね」
何もしなくても、俺の一ヶ月あたりの収入より多い手取り額の給料をもらえるのだから、手伝ってくれなくてもいいと思う。
いや、手伝ってもらったりしたら、申し訳ない。
「樹里、手伝ってもらう程の仕事はないから、大丈夫だよ」
俺は苦笑いをして告げた。すると、
「そんな訳にはいきません。御徒町家の家訓は、働かざる者、食うべからずなのです。手伝わせてください」
全く悪気なく、俺の心をグリグリと削り取るような言葉を返してきた。
確かにその通りなのだが……。ああ、涙が出そうだ。
「そうなんですか」
思わず樹里の口癖で応じてしまった。
「自治会長さんの家の猫がいなくなってしまったそうだから、奥さんに話を訊いてきてもらえるかな?」
仕方なく、本日唯一の仕事を任せる事にした。
「わかりました。でも、初めてで不安なので、左京さんも一緒に来てください」
笑顔全開でそんな事を言われてしまうと、断れない。
だって、樹里はこの町一番の美人で、自慢の妻だからだ。おっと、惚気ている場合ではない。
長女の瑠里は小学校、次女の冴里と三女の乃里は保育所。
今は樹里と二人きりだ。何だか、新婚時代を思い出してしまう。
探偵事務所を始めたばかりの頃は、樹里もいろいろとびっくりするような事をしてくれた。
そして、もっと困ったのは、腐れ縁の加藤ありさだ。
生死の境を彷徨ったせいで、幽体離脱が自由自在にできるようになったお調子者だ。
ありさには調査料をネコババされたり、事件を引っかき回されたりとろくな事がなかった。
「左京さん、何をしているのですか? 行きますよ」
樹里はすでに紺のスカートスーツに着替え、準備万端になっていた。
「あ、すまん、すぐ行く」
俺は肩掛け鞄を持つと、樹里と共に事務所を出た。
自治会長の家は、俺達の家から百メートル弱の距離にある。
付近にたくさん不動産を所有していて、結構な金持ちだ。もちろん、五反田氏と比べれば、貧乏人になってしまうだろうが。
「今日は奥さんも一緒なの? 仲がいいわね、あなた達は」
出迎えてくれたのは、予想通り奥さんだ。一週間に十日くらいの勢いであらゆる習い事に通っている有閑マダムだ。
自治会長とは大恋愛で結婚したと聞きたくもない話をされた事がある。
自治会長は元教師で、奥さんはその教え子。少女漫画によくある設定を現実世界で実現した自治会長は男として羨ましい。
いや、周囲の人から言わせると、俺のようなろくでなしが樹里のような若い妻を持つ事の方が余程羨ましい事だと会長に言われた事があった。
だから、今日は会長が留守なので、ホッとしている。根掘り葉掘り訊かれそうだからだ。
奥さんも話好きなので、喋り出さないうちにと、すぐに本題に入った。
「いなくなった猫ちゃんの事を訊かせてください」
俺は奥さんがお茶を出すと同時に切り出した。
「そんな慌てなくてもいいわよ。まずは貴方にはもったいないくらいの可愛い奥さんとの馴れ初めを教えてちょうだい」
奥さんはニヤニヤしてジッと樹里を見つめている。
俺は樹里を褒められると弱い。途端に話に応じてしまいそうになったが、
「奥様、猫ちゃんは今、どこかで怯えているかも知れません。一刻も早く探しに行かないとならないのです」
樹里が笑顔全開で言ってくれた。助かったのかな?
「そ、そうなの?」
奥さんは仕方なさそうに猫がいついなくなったのか、話し出した。
今朝の六時頃。いつものように朝食の缶詰を開けて、猫がいる定位置に行くと、姿が見えなかった。
トイレかと思い、猫用のトイレを覗いたが、そこにもいない。
いそうなところを全部見て回ったが、六時半になっても見つからなかった。
そして、朝の散歩から帰ってきた会長に尋ねると、玄関を開けた時に外に出て行ったのを見かけたとの事。
「どうしてその時すぐに言ってくれなかったのかと怒ったのよ。でも主人はどこ吹く風で、謝りもせずに朝食をすませると出かけてしまったのよ。どうしようもないでしょ?」
奥さんは憤懣やるかたないという顔で話してくれた。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じた。俺は猫が外に行ってしまったのを知り、長期戦になると密かに喜んだ。
探偵の仕事は日当だ。すぐに猫が見つかってしまうと、実入りは少ないのだ。
「では、早速外を探してみます」
樹里はそう言うと、俺を追い立てるように会長の家を出た。
「どうしたんだ、樹里? もしかして、ああいう奥さん、苦手か?」
俺は樹里に小声で尋ねた。すると樹里は、
「自治会長さんを探しましょう。それで全てがわかるはずです」
思ってもみなかった事を言った。
「ええ?」
俺は一体どういう事なのか、全然見当がつかなかった。
会長が行くとすれば、近くの囲碁クラブだ。確かそこは、有名なプロ棋士が子供の頃通っていたと言われている有名なところだ。
「あ」
絶妙なタイミングだった。ちょうど会長が中から出てきたのだ。
「おはようございます、会長」
俺が声をかけると、何故か会長はビクッとしたように見えた。どういう事だ?
「会長さん、猫ちゃんの事で何かご存知ですね?」
樹里が笑顔全開で尋ねた。
「知らんよ。わしは何も知らん」
会長は俺達と目を合わせずに逃げようとした。
「話してください」
俺は会長の前に立ちはだかって言った。会長は溜息を吐いて、
「わかったよ。ここじゃ何だから、公園に行こう」
背中を向けて歩き出した。俺は樹里と顔を見合わせてから、会長を追いかけた。
会長は公園のベンチに腰掛けると、
「実はな、散歩に出かける時、猫が玄関で死んでいたんだよ」
「ええ!?」
俺は仰天したが、樹里はごく冷静な顔をしていた。わかっていたのか?
「年が年だったので、老衰だったのだろう。ここんところ、身体の調子があまり良くない女房が知れば、ショックが大きいと思って、散歩に行くふりをして、裏庭に穴を掘って埋めたんだよ」
会長は目を潤ませて言った。なるほど、そういう事だったのか。
「このまま、行方知れずにしといてくれないか? 今日の日当は払うから」
会長の提案に俺はすぐに乗る気になったのだが、
「ダメですよ。奥様は猫ちゃんが戻るまで、気持ちが休まらないと思います。きちんと事情を説明して、奥様に謝ってください」
樹里がその提案を一蹴してしまった。ああ……。でも、それが正論だな。
「わかったよ。すまなかったな、迷惑かけて」
会長は樹里の言葉に納得し、家に帰っていった。
「申し訳ありません、仕事をなくしてしまって」
帰り道、樹里が頭を下げたので、
「気にするな。樹里のした事は正しい。謝る事はないよ」
俺はそっと樹里の肩を抱き寄せた。樹里は頭をもたれかけてきた。
それにしても、奥さんの話から、会長が何か知っていると見破ったのはさすがだ。
事務所の所長を頼もうかなと思ってしまった。