樹里ちゃん、保育所の怪異に挑む
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドです。
五反田氏が長期の出張になるので、妻の澄子と愛娘の麻耶を連れて、渡米しました。
麻耶は高校三年生ですが、すでに一学期の授業は終わっているので、事実上の夏休みに入っています。
「何も問題ないわ、お父様」
麻耶は迷っていた五反田氏に言いました。五反田氏はそれで家族全員で渡米する事に決めたのでした。
樹里ともう一人のメイドの目黒弥生は、休業補償として給料の九十パーセントを受け取れる事になっています。
五反田氏一家が帰国するのは九月末なので、エロい弥生は早速妄想を膨らませました。
「エロくありません!」
地の文の妄想に切れる弥生です。登場はこれだけです。
メイドの仕事の収入が減ってしまう事を心配した樹里は、不甲斐ない夫の杉下左京に相談しました。
「きゅ、九十パーセント?」
普通はそんな休業補償はないと思った左京は仰天しました。
「はい。申し訳ありませんが、少しお給料が減ってしまいます」
樹里が本当にすまなそうに告げたので、ほぼ無職同然の左京は胸が痛みました。
「無職じゃねえよ! 仕事がないだけだ!」
自営業なのをいい事に、見え透いた嘘を吐く左京です。
先日の猫誘拐事件も、実質的には樹里が解決したので、少なくとも成功報酬に関しては、左京は稼いだとは言えません。
「ううう……」
容赦のない地の文の指摘に項垂れる左京です。
「左京さんには苦労ばかりかけていますから、しばらくの間、お仕事を手伝いますね」
樹里の全く悪気のない言葉に更に打ちのめされてしまう左京です。
「苦労をかけているのは俺の方だよ、樹里。ありがとう」
それでもプライドを捨てて、樹里に手伝ってもらう事にした左京です。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じました。
そして、長女の瑠里を見送り、次女の冴里と三女の乃里を保育所まで二人で送り届けました。
「ああ、今日は奥さんもいらっしゃるのですね」
欲と二人連れの所長が出てきました。
「違います!」
地の文の推理を真っ向から否定する所長です。
「実は、ご相談したい事があります。お時間よろしいですか?」
所長が言うと、
(まさか、保育料を上げさせてくれとか言い出すんじゃないだろうな?)
左京は訝しそうに所長を見ました。
「ご主人はお忙しいようでしたら、お帰りになってくださっても大丈夫ですよ」
所長が微笑んで告げたので、
「いや、お話を伺いますよ」
ムッとして応じる左京です。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じました。
(人の好い樹里を丸め込もうと考えたんだろうが、そうはいくか)
してやったりの顔をする左京です。
二人は保育所の奥にある応接室に通され、ソファに座りました。
「どうぞ」
女性職員が冷たいお茶を出してくれました。
「ありがとうございます」
樹里は笑顔全開で応じましたが、左京は真顔全開です。そのせいでビクッとする女性職員です。
「実はですね、ここ数日、おかしな事があるんです」
向かいに座った所長がまるでこれから怪談話でもするかのような語り口で言いました。
「そうなんですか」
それにも関わらず、樹里は笑顔全開です。
(おや? 保育料の値上げの話じゃないのか?)
早速推理が外れるヘボ探偵です。
「うるさい!」
正直に現状を説明しただけの地の文に切れる左京です。
「誰もいないはずのトイレから、声が聞こえるのです」
ますますホラーめいた顔と口調で話す所長です。左京は思わずギクッとしましたが、
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開です。
「現場を見させていただけますか?」
探偵面をした左京が言いました。
「探偵なんだよ!」
更に地の文に切れる左京です。
「こちらです」
所長が先導して、職員専用の女子トイレに案内しました。
「ご主人はここまででお願いします」
所長の止められて、左京は廊下で待たされました。
(何故だ?)
納得がいかない左京ですが、不審者を女子トイレに入らせる訳にはいかないと思う地の文です。
「不審者じゃねえよ!」
正確な人物描写をした地の文に切れる左京です。
樹里は所長について奥へ進みました。両側に個室が並んでいます。
「ご覧の通り、誰も使用しておりません。耳をすませていただけば、声が聞こえるはずです」
所長は言い、口を閉じました。トイレの中は静寂に包まれました。
すると、か細い声がどこからともなく聞こえてきました。男とも女ともつかない声です。
あまりにも小さい声なので、何を言っているのかわかりません。
確かに気の弱い人だったら、怖くなりそうです。
「洗面台が汚れていますね」
突然小姑のような事を樹里が言い出したので、
「それはあの、皆さん怖くてしばらく使っていないので、掃除もできない状態なのです」
所長は一刻も早くこの場から逃げ出したそうな顔で言いました。
「そうなんですか」
樹里は全く恐れる事なく、更に奥へと進みました。
「奥さん、気をつけてください! 取り憑かれるかも知れませんよ!」
所長が叫びました。すると樹里は、
「大丈夫ですよ。聞こえてくる声は生きている人間のものです」
「ええっ!?」
樹里の言葉に驚愕する所長です。奥に進んだ樹里は耳を欹てて、
「周波数からして、男性の声ですね。この中のようです」
ドアノブに手をかけてひねると、ドアを開きました。すると、中からガラガラと掃除用具が雪崩を打って崩れてきて、最後に青白い顔をしたやせ細ったひげ面の男が倒れ込みました。
「ヒイイ!」
所長はそれを見て悲鳴をあげました。
「どうした?」
廊下で待っていた左京が飛び込んできました。
「左京さん、覗き魔さんです。警察に連絡してください」
樹里が笑顔全開で告げたので、
「そうなんですか」
樹里の口癖で応じる左京です。
左京は男を取り押さえ、園児が使っている縄跳びの縄で捕縛しました。
男は保育所の柵を乗り越えて侵入し、女性職員の用を足しているところを覗き見ようと考え、掃除用具を入れてある個室に忍び込みました。
ところが、雑に積んであった用具が崩れ落ちてきて、身動きが取れなくなってしまい、三日の間、そこで過ごしたそうです。
「セキュリティに問題があるのではないですか? 子供達に何かあったらどうするつもりですか?」
保育料の値上げをしばらく言い出させないようにするために、左京は所長を追及しました。
「申し訳ありません……」
所長はしょんぼりして謝罪しました。
やがて近くの交番から制服警官が三人やって来て、男を連れて行きました。
「調査料はおいくらでしょうか?」
所長は恐る恐る左京に尋ねました。左京はふっかけてやろうと思いましたが、
「いつも冴里と乃里がお世話になっていますから、結構ですよ」
樹里が笑顔全開で言ったので、何も言えなくなりました。
めでたし、めでたし。




