樹里ちゃん、さめざめと泣く
俺は杉下左京。警視庁特捜班の敏腕警部であり、班長だ。
今、俺は幸せの絶頂にいる。
遂に、あの御徒町樹里と婚約したのだ。
長かった。何度も酷い目に遭いながら、この日が来るのを信じて進んだ。
願いは叶う。そう思った。
あの樹里のサクランボのような唇。
そして、あのマシュマロのような……。
コホン。
俺は樹里の身体が目当てではない。
身体だけが目当てなら、同僚の神戸蘭でもまだOKだ。
う。今、殺気が……。
それにしても意外だったのは、樹里の母親の由里さんだ。
てっきり本当に俺と結婚するつもりだと思っていたのだが。
占いで、樹里の理想の相手は俺だと出たので、ずっと樹里が自分の言葉で俺に告白するのを待っていたのだという。
惚れてしまいそうです、お母さん。貴女は何て良い人なんだ。
更に意外だったのは、蘭だ。あいつ、最初は樹里を親の仇のように嫌っていたのに。
何があったのだろう? 突然、「応援する」とか言い出して。
ようやく、自分の性格の悪さに気づいたのだろうか?
そして亀島。あいつは最後まで俺に敵対心を燃やしていたが、突然諦めた。
しかも謎の言葉を言ったのだ。
「私は、警視庁にいたいんです」
どういう意味だ? わけがわからん。
「左京、刑事部長がお呼びよ」
特捜班室に入ると、蘭が言った。
「部長が? 何だ?」
「結婚の事じゃないの?」
疑問が次々に湧いて来るが、行ってみるしかない。
俺は特捜班室を出た。
「来たか。まあ、かけたまえ」
部長は俺が部屋に入ると、席を立ってソファに移った。
「失礼します」
俺は部長と向かい合って座った。
「結婚するそうだな」
「はい」
何だ、やっぱりその事か。ちょっと安心した。
「おめでとうと、一応言っておこう」
「は?」
何だ? 妙に嬉しそうな部長が怖い。
「君も警察官なのだから、結婚相手に制約がある事は知っているね」
「はい」
制約? そんなの、あったっけ? 取り敢えず返事をしてしまった。
「警察官は中立的でなければならんから、特定の政治団体や宗教団体等の関係者とは結婚できない事になっている。もちろん、これは個人の自由を奪うものであるから、倫理規定に過ぎない」
「はい」
??? 樹里は政党関係者ではないし、宗教にも入っていないぞ?
もしかして、由里さんが占い師なのがやばいのか?
それとも、樹里を崇める妙な団体があるらしいから、それがまずいのか?
しかし、部長が指摘したのは、そのいずれでもなかった。
「君の婚約者は、以前風俗で働いていた事があるらしいね」
「!」
俺は度肝を抜かれた。確かに樹里は違法風俗で働いた事がある。
何て事だ。それを楯に、部長は俺に結婚を諦めろと言うのか?
「いやあ、残念だよ、杉下君」
え? 残念? どういう意味だ?
「君はその女性の事を非常に愛しているらしいね。だから、仕事ではなく、結婚を選ぶのだとか」
「はあ?」
言われている事が理解不能だ。
「警察官の職を捨ててまで、その女性と添い遂げる。うーん、美しい生き方だよ」
部長の笑顔の理由がわかった。
樹里との結婚にこじつけて、俺という厄介者を警視庁から追い出すつもりだ。
亀島の謎の言葉は、この事だったのか……。
俺は考えた。
樹里との結婚は捨てられない。彼女は何者にも代えがたい存在だ。
一方、警視庁なんてヤクザな組織、いつ辞めても構わない。
しかし、この部長の企み通りに辞めるのは癪に障る。
どうしたらいい、樹里?
その時、樹里の声がした。
いや、明らかに空耳なのだが、俺には聞こえた気がした。
「そんな事考えないで下さい、杉下さん」
素直が服を着ているような樹里なら、必ずそう言うはずだ。
俺は決心した。
「はい。ありがとうございます。つきましては、部長に仲人をお願いしたいのですが?」
これくらいの嫌味はいいだろう。
「ハハハ、申し訳ないね。私はまだ上を目指したいので、経歴に瑕がつく事はできんのだよ」
以前の俺なら、確実にぶん殴っているセリフだ。しかし俺は冷静だった。
「そうですか。私も部長のような生き方ができれば、もっと上を目指せたのでしょうね」
ムッとする部長を無視し、
「失礼します」
と部屋を出た。
俺は特捜班室に戻り、何か言いたそうな蘭と亀島を無視し、便箋を取り出した。
「左京、それは?」
勘のいい蘭は気づいたようだ。
「辞表だよ。今日で辞める」
「ええ?」
蘭と亀島が異口同音に叫んだ。
「こんなもんだろ」
俺はサッと辞表を書き上げ、封筒に入れた。
「人事に行って来る」
「左京!」
「杉下さん!」
二人が呼び止めるのも聞かず、俺は人事部に向かった。
人事部には、刑事部長から連絡があったらしく、非常に事務的に辞表を受理された。
これくらいあっさりしていると、俺も後腐れがなくていい。
「左京、考え直してよ」
「杉下さん」
特捜班室に戻ると、蘭と亀島が騒がしい。
「今まで世話になったな」
俺はダンボールに私物を放り込み、二人に言った。
「じゃあな。後は頼んだぞ」
それ以上長くいると、お互い支障があると思い、俺は特捜班室を出た。
そしてその夜、俺は樹里のいる居酒屋に行った。
営業時間の間は、俺は何も言わず、楽しく酒を飲んだ。
さすがの杉下左京も、素面で未来の女房に「仕事辞めた」とは言いにくい。
居酒屋の営業時間が終わり、俺は表で樹里を待った。
「お待たせ致しました」
樹里が笑顔で出て来た。
「おう」
二人で歩き出す。
「あの」
樹里が口を開く。
「え?」
「何かお話があるのではないですか?」
「ああ、そうだった」
俺は酔いが冷め切らないうちに言おうと思い、立ち止まる。
樹里も立ち止まって俺を見た。
「実は、仕事を辞めて来た」
樹里のせいで辞めたとは言えない。
彼女のせいではないと思っているから。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開だ。
「探偵事務所でも開こうと思ってる」
「そうなんですか」
樹里は全く驚いていない。
「だから、苦労かけるかも知れない。許してくれ」
「はい」
え? 樹里が泣いている。真珠のような涙が、左右の目からポロポロとこぼれている。
「どうしたんだ、樹里?」
俺は驚いて彼女の肩を掴んだ。
「杉下さんが、優しいから……」
「え?」
その時はどういう意味かわからなかったが、俺は涙を流す樹里を抱きしめた。
後で知った事なのだが、あの腐れ刑事部長の奴、ご丁寧にも樹里に電話をして、今回の件を全部話したらしい。
樹里は俺が辞めた理由を知っていたのだ。
部長を殺しに行こうかと思った。
しかし、そんな事をしても何も解決しない。
そして何より、樹里が喜んではくれない。
それにしても、これからどうしよう?
俺は一気に現実に引き戻された。