樹里ちゃん、板挟みに遭う
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドです。
今日も樹里は笑顔全開で出勤します。
「いってらっしゃい、ママ!」
長女の瑠里と次女の冴里も笑顔全開が言いました。
「らっしゃい、ママ!」
三女の乃里もお姉ちゃん達に負けない笑顔全開です。
「行ってらっしゃい」
不甲斐ない夫の杉下左京は、不倫がバレて意気消沈しています。
「不倫はしてねえよ!」
地の文のちょっとした冗談にも過敏に反応してしまう左京です。
「行って参ります」
樹里は笑顔全開で応じて、いつの間にか来ていた昭和眼鏡男と愉快な仲間達と共にJR水道橋駅へと向かいました。
一言も台詞がないのに文句一つ言わずに去る眼鏡男達です。
「いってくるね、さーたん、のり!」
瑠里は元気いっぱいで言うと、集団登校の列に加わりました。
「ううう……」
一人だけ言ってもらえなかった左京は項垂れています。
実は、瑠里の宿題を手伝ったのですが、その答えが間違っており、瑠里は大恥を掻いたのです。
更に事情を知った樹里にお説教をされたので、左京を恨んでいるのでした。
そして、瑠里の宿題を過剰に手伝った事を知られた左京も、樹里にこんこんとお説教をされたのでした。
情けない父親なので、責任を取って離婚すべきだと思う地の文です。
「くうう……」
反論の余地がないので、悶絶して苦しむ左京です。
「パパ、はやくしないといっちゃうよ!」
「ちゃうよ!」
冴里と乃里が仁王立ちでほっぺを膨らませて言ったので、
「わかったっよお、冴里、乃里」
鼻の下を伸ばして応じる立ち直るのが早い左京です。
「ワンワン!」
ゴールデンレトリバーのルーサが、
「お前、単純だな」
そう言っているかのように吠えました。
樹里はいつものように何事もなく五反田邸に到着しました。
「では樹里様、お帰りの時にまた」
眼鏡男はようやく台詞を言えた喜びを噛み締めながら敬礼し、立ち去りました。
「ありがとうございました」
樹里は深々と頭を下げて応じました。すると、バッグの中にある携帯電話が鳴りました。
シリーズ始まって以来、樹里がバッグを持っているのを初めて描写したのに驚く地の文です。
「おはようございます、弥生さん」
電話は元泥棒からでした。
「それは言わないでー!」
電話の向こうから地の文に切れる目黒弥生です。
「すみません、門のところまで行くのに時間がかかってしまいそうなので、電話しました。今日、またあの弁護士が来るそうです」
弥生が言いました。すると樹里は、
「マターノ弁護士さんですか? 変わったお名前ですね」
電話の向こうで誰から転ける音がしました。
「違いますよ、勝美加弁護士ですよ。もうすぐ着くそうです」
「そうなんですか」
樹里はそれだけ言うと、まだ何か話している弥生を無視するかのように携帯電話をバッグに戻すと、邸に向かって歩き出しました。
「樹里さん、話を最後まで聞いてくださいよ!」
玄関の扉を開けて、涙目で叫ぶ弥生です。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じました。
「あ、来ましたよ!」
弥生が門の方を指差して言いました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じると、素早く玄関から入り、更衣室で着替えを済ませ、キッチンで紅茶を入れると、応接間へ運びました。
「おはようございます、弁護士の勝です」
作り笑顔全開で弥生に挨拶する美加です。
「おはようございます」
弥生も負けずに作り笑顔全開で応じました。
「どうぞ」
そして、樹里が待つ応接間へと案内しました。
「おはようございます」
樹里は美加が入っていくと、深々とお辞儀をしました。
「おはようございます、樹里さん。今日はまた坂本龍子の事でお話に伺いました」
会釈をして告げる美加です。
「どうぞ、おかけになってください」
樹里は美加にソファを勧めました。美加はソファに座るなり、
「先日、樹里さんのご主人に坂本龍子と会わないように通告したのですが、その後も頻繁に会っているようですので、奥様の樹里さんからもご主人におっしゃっていただけませんか?」
鞄から分厚い書類を出して、テーブルの上に置きました。
「どうしてですか?」
樹里は笑顔全開で尋ねました。美加は若干イラッとして、
「樹里さんもご承知かと思いますが、龍子は樹里さんのご主人の杉下左京氏に恋心を抱いています。それを知っていながら、何度も会う左京氏は男として最低です。龍子の女心を弄んでいます」
右手でバンと書類の山を叩きました。
「夫は仕事で会っているのですから、何も問題はないと思います」
樹里は笑顔全開で正論を言いました。すると美加はまたイラッとして、
「そうかも知れませんが、左京氏は龍子が自分を好きだという事をご存じで、それにも関わらず、平然と会うのはあまりにも無神経で、酷い行いだと思います」
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じました。美加は樹里の応対に更にイラッとして、
「そうなんですかってどういうつもりですか? 貴女は龍子の思いを全く考えた事がないのですか?」
立ち上がって、樹里に詰め寄りました。
(やばいな、こいつ)
覗き見常習犯の弥生がドアの隙間から見ていて思いました。すると、
「ちょっと、失礼します」
後ろから声をかけられて、
「ヒイッ!」
思わず飛び上がって悲鳴をあげました。振り返ると、そこにはいつの間に入ってきたのか、左京の前の不倫相手の斎藤真琴がいました。
「前の不倫相手じゃないわよ!」
地の文にサッと切れて、応接間に入っていく真琴です。
(樹里さんに言いそびれてたら、来ちゃったわ!)
弥生が樹里に伝えられなかったのは、真琴も来るという話でした。
「真琴さん、いらっしゃいませ」
樹里は笑顔全開で言いました。
「えっ?」
美加はビクッとして真琴を見ました。
「あんたね、どれだけ龍子の事が嫌いなのよ!? いい加減にしないと、只じゃおかないわよ!」
真琴はミニスカートを履いているのも気にせずに、大股で美加に近づきました。
「う、うるさいわね! 貴女には関係ないでしょ!」
怯えながらも反論する美加です。
「関係なくないわよ! 龍子は私の親友よ。その親友が訳のわからない弁護士に悪者にされようとしているのを黙って見ていられる程、不人情じゃないのよ」
真琴の方が身長が大きいので、美加は思わず一歩退いてしまいましたが、
「悪者になんかしていないわよ! 悪いのは杉下左京氏よ!」
更に反論しました。でも、足の震えは止まりません。真琴は樹里を見て、
「樹里さん、こんな弁護士の言う事、気にしなくて大丈夫ですよ。それに左京さんは悪者じゃないですから」
「そうなんですか」
樹里はそれにも関わらず、笑顔全開で応じました。
「ここで貴女と口論していると、樹里さんの仕事の邪魔になるから、外でやりましょうか」
真琴は美加の右腕を掴むと、強引に応接間から連れ出しました。
「痛い痛い、何するのよ、馬鹿力女!」
涙ぐみながら抵抗しようとする美加ですが、全然抵抗にはならず、そのまま玄関の外へ連れて行かれました。
「失礼しました」
樹里と弥生が見送るために玄関へ行くと、真琴は嫌がる美加を扉から引き剥がし、扉を閉めました。
「何なのでしょうか、あの二人?」
弥生が樹里に尋ねました。樹里は笑顔全開で、
「仲のいいお友達だと思いますよ」
弥生は大きく項垂れてしまいました。
めでたし、めでたし。