樹里ちゃん、嫉妬する?
俺は杉下左京。自宅の隣に事務所を構えている私立探偵だ。
妻の樹里、娘の瑠里、冴里、乃里とは非常にうまくいっていて、幸せな家庭生活を送れている。
おっと、それから、ゴールデンレトリバーのルーサとは、毎朝散歩をする仲だ。
少しだけ気になるのは、ルーサが俺を下に見ているらしい事だ。
まあ、心が広いので、その程度ではイラついたりしないが。
いつものように、樹里を見送り、瑠里を送り出し、冴里と乃里を保育所へ送り届けると、ルーサと散歩に出かけた。
「おはようございます、杉下左京さん」
その途中で、美人に会った。あれ? 誰だっけ?
以前にも言った事があるが、俺は人の顔を忘れる名人五段だ。年のせいで、七段くらいに昇格した気もするが。
「私、弁護士の勝美加と申します」
その美人は優雅に名刺を差し出した。
「ああ、坂本先生のお友達の方ですね?」
俺はお愛想のつもりでそう言ったのだが、
「違います! 断じて違います!」
勝先生は顔を真っ赤にして怒り狂った。思わず一歩引いてしまう。
「龍子とは同期というだけで、別に友達でも何でもありません」
勝先生は自分が興奮し過ぎた事に気づいたのか、俯いてしまった。
「ええっと、何かご用ですか?」
ルーサが先を急ごうとしてそわそわし出したので、訊いてみた。すると勝先生は、
「貴女は龍子の事をどう思ってらっしゃるのですか?」
突然、そんな事を切り出された。俺は苦笑いして、
「どうもこうも、お仕事をいただいている方というだけで……」
それ以上言いようがなくて、口籠もっていると、
「酷いです! 貴女は龍子の女心を弄んでいるのですね!?」
また怒り出した。情緒不安定なのか、この人は?
「そんなつもりはありませんよ」
面倒な事になるのはごめんなので、
「失礼します」
ルーサに引きずられるようなふりをして、その場から駆け去った。
「逃げるんですか、杉下先生!」
後ろから勝先生の声が聞こえたが、俺は振り返らずに路地を左折した。追いかけてくる様子はなかったので、ホッとして立ち止まろうとしたが、
「ワンワン!」
ルーサの散歩への執念に火をつけてしまったのか、本当に引きずられるように走り続ける事となった。
それにしても、勝先生の言動はおかしい。坂本先生とは友達ではないと言いながら、龍子と下の名前で呼んでいるし、妙に坂本先生の事を気にかけているふしもある。
本当は坂本先生の事を親友くらいに思っているのかも知れない。だが、プライドが邪魔して、それを認めたくない自分がいるのだろう。
などと、心理学者のような分析をしてみたが、所詮は素人の戯言に過ぎない。
ルーサも散々走り回って満足したのか、自然に自宅へと向かい始めてくれた。
「げ」
ところが、その自宅の前に勝先生が仁王立ちで待っていたのだ。
住所を知っていたのか。だから、追いかけてこなかったんだな。それに散歩のコースに先回りしていたのだから、全部知っていると考えるのが正解だろう。
「お待ちしていました、杉下先生」
弁護士の先生に「先生」呼ばわりされるとむず痒くなる。
「まだ何か?」
俺はまた苦笑いして尋ねた。勝先生は詰め寄ってきて、
「今後、龍子とは会わないでください。あの子は貴方が思っているような強い子ではないのです。繊細でウブで、男に対する免疫がないのです」
どう考えても、親友の発言としか思えない言葉を並べ立てた。
「やっぱり、勝先生は坂本先生とお友達なんですね?」
俺は勝先生を黙らせるために言ってみた。
「違います! 断じて違います! 今度そんな事をおっしゃったら、名誉毀損で訴えさせてもらいますよ!」
勝先生はまたしても顔を真っ赤にして怒り狂った。
そんな事で名誉毀損が成立するのなら、日本はおしまいだと思った。
「私は警告しましたからね!」
勝先生は俺の目を突くんじゃないかというくらい右手の人差し指を突き立てて怒鳴った。唾もたくさん顔にかけられた。
「では、失礼致します」
勝先生はくるりと踵を返すと、歩き去った。俺はどっと疲れが出て、大きな溜息を吐き、ルーサをケージに入れ、家には入らずに庭を通って事務所へ向かった。
「あ、左京が帰ってきたから、電話切るね」
ぐうたら所員の加藤ありさがスマホを片付けるのを目撃した。
「お前、どうやって入ったんだ?」
半目でありさを睨む。するとありさは、
「鍵を失くしたって樹里ちゃんに言ったら、もらえたのよん」
姫路城のキーホルダーに付けられた鍵を見せた。
俺はそれには何も言わずに自分の机に向かった。
ありさは手癖が悪いので、事務所の鍵を取り上げていたのだが、人が好い樹里が合鍵を作ってしまったようだ。
仕方がない。樹里は悪くない。ありさが全部悪いのだ。
「留守番ありがとうな。今日は仕事がないから、帰っていいぞ」
俺はありさの襟首をつかむと、そのまま玄関から外へ放り出し、ドアをロックして、チェーンをかけて入れないようにした。
「ちょっとおお、左京うう! 入れてよ! 入れてったら! お願いだからあ。もう我慢できないのよお」
傍目に聞いていると、実に意味深な事を言いまくるので、世間体を気にした俺は仕方なくありさを入れた。
「お前な、自分で言ってて恥ずかしくないのか!?」
俺は顔が火照るのを感じながら、ありさを窘めた。
「何が? 別に私、変な事言ってないよ」
ニヤリとして言うありさ。この性格の悪さは、高校時代から全然変わらない。
また大騒ぎされると困るので、ありさに引き続き留守番を頼むと、俺はその日の仕事をこなすために事務所を出た。
「左京さん!」
庭を出たところで、今度は坂本先生に声をかけられた。俺は一瞬ビクッとしてしまったが、
「美加が何か言いにきたみたいですね。でも、気にしないでください。あの子、昔から妄想癖があるので」
坂本先生は心なしか目を潤ませている。最初に出会った時に比べると、妙に色っぽくなった気がするが、もしかすると、親友の斎藤真琴さんの影響なのだろうか?
「やっぱりそうですか。一度、心療内科を受診した方がいいと言ってあげてください」
「そこまでではないと思います」
ニコッとして言う坂本先生。一瞬だけ、可愛いと思ってしまった。樹里、ごめん。
事務所にはありさという拡声器がいるので、申し訳なかったのだが、坂本先生にはその場で仕事の依頼書を受け取り、帰ってもらった。ありさだけではなく、勝先生の目も気になったからだ。
そして、一日が終わった。暗くなる前に事務所に戻った俺は、ありさを強制退去させると、帰宅している瑠里の様子を確認してから、冴里と乃里を迎えに行き、夕食の準備に取り掛かった。
しばらくして、樹里が帰ってきた。樹里は瑠里達に部屋に行っているように告げると、俺と二人だけでリヴィングルームに行った。ドキドキしてきた。こういう時は、何かある時だ。まさか、離婚? いや、それはないだろう。
「今日、ありささんからお電話をいただいて、左京さんが綺麗な女性と親しげにお話をしていると言われました。どなたですか?」
いつになく樹里が真顔なので、心臓が止まりそうになった。
でも、これって樹里が嫉妬しているって事? 何だか嬉しい。
「最近、道を尋ねたり、病院に連れて行って欲しいと言って、お金を騙し取る詐欺が横行しているそうです。大丈夫でしたか?」
樹里は全然違う心配をしていた。何だか寂しい俺がいる。
「ああ、大丈夫だよ。それに俺が会った女性は、坂本先生のお友達の勝美加先生だから」
俺は本日三度目の苦笑いをして告げた。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じ、キッチンに向かいながら、
「フルネームで覚えているのですね」
嫌味なのか、只思っただけの事なのか、そう言われ、漏らしそうになった。
あ、でも、やっぱり嫉妬してくれたのかな? 少しだけ嬉しい俺がいた。