樹里ちゃん、新しい心配事が増える
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドです。
今日は五反田氏が早朝会議に出席するので、樹里はいつもより一時間早く出勤しました。
そのために、昭和眼鏡男と愉快な仲間達は出番を失い、不甲斐ない夫の杉下左京は存在意義を失いました。
「存在意義は失ってねえよ!」
どこかで猫を探しながら、地の文に切れる左京です。
「そうなんですか」
それでも樹里は笑顔全開です。
「行ってらっしゃいませ」
樹里は深々と頭を下げ、五反田氏を見送りました。
「悪いわね、樹里さん、無理を言ってしまって」
五反田氏の妻の澄子が言いました。
「大丈夫ですよ、奥様。家の事は、夫が全部こなしてくれていますから」
樹里は笑顔全開で応じました。
「私も今日は早く行かなくちゃだった! 行って来ます!」
五反田氏の愛娘の麻耶が慌てて駆けて行きました。
「麻耶、気をつけてね」
澄子が言いました。麻耶は振り返らず、右手を大きく振って応じました。
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
樹里は深々と頭を下げました。
「奥様、お身体に障りますから、お部屋へ戻りましょう」
住み込み医師の黒川真理沙が声をかけました。
「わかったわ、先生」
澄子は真理沙に微笑みと、邸の中に入りました。
樹里はそのまま、庭掃除を始めました。
樹里がほとんど庭の掃除を終えた時です。
黒髪を腰の辺りまで伸ばした、黒縁の楕円形の眼鏡をかけ、グレーのスカートスーツに身を包んだ樹里と同年代くらいの女性が歩いてきました。
樹里は女性に気づいて掃除の手を止め、足早に近づきました。
「いらっしゃいませ。五反田は只今外出中ですが?」
笑顔全開で樹里が告げると、女性はクイッと右手の人差し指で眼鏡を押し上げて、
「私は貴女に用事があって来ました、杉下樹里さん」
ぎこちなく微笑んで応じました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じました。女性はスーツの内ポケットから名刺入れを取り出して名刺を一枚出すと、
「私、弁護士の坂本龍子と申します」
「五反田には個人でも会社でも顧問の弁護士がおりますが」
樹里が更にボケ的な事を言ったので、坂本龍子はイラッとして、
「違います! 貴女に用があって来たのですよ、杉下樹里さん!」
「そうなんですか」
樹里はそれにも関わらず、笑顔全開で応じました。坂本弁護士は更にイラッとしました。そして、提げていた黒革のバッグから徐ろに書面を一枚取り出して、
「貴女と貴女の夫の杉下左京氏を相手取って、斎藤真琴が慰謝料と損害賠償の請求訴訟を起こしますので、そのご連絡に参りました」
そこまで言って樹里を見ると、すでに樹里はいませんでした。
「杉下樹里さん!」
坂本弁護士は眉間にしわを寄せて、大股で玄関に近づきました。そして、扉を開こうとすると、樹里が中から扉を開いたので、思い切り顔面を強打しました。
「痛っ!」
その拍子に坂本弁護士は尻餅を突いてしまいました。
「申し訳ありません、武田さん」
樹里は早速名前ボケをかましながら、坂本弁護士に手を差し伸べました。
「私は坂本です!」
坂本弁護士は樹里の手を無視して立ち上がると、食ってかかるように詰め寄りました。
「失礼しました」
樹里は笑顔全開で応じました。坂本弁護士は書面を樹里に突き出して渡すと、
「詳しいお話をしたいので、中に入らせていただいてもよろしいですか?」
「はい、どうぞ」
樹里が扉を開いて、坂本弁護士をロビーに入れました。
(何て大きなお邸なの!?)
ロビーの広さに驚愕する坂本弁護士です。
「どうぞ、こちらへ」
樹里は応接間に坂本弁護士を通すと、キッチンへ行こうとしました。
「お気遣いなく。すぐに帰りますので」
坂本弁護士が引き止めたので、一緒に応接間に入りました。
「斎藤真琴は、杉下左京氏の一方的な解雇通告にひどく傷つきました。その精神的なショックと就業中の度重なるセクハラ行為に対して、慰謝料を請求し、尚且つ、勤務時間に応じた相応の給与の支払いを求めます」
坂本弁護士はソファに腰かけると、脚を組んで言いました。
「そうなんですか」
樹里はそれでも笑顔全開で応じました。すると坂本弁護士は、
「請求金額は合わせて五百万円です。訴状はこれから裁判所へ提出します」
バッグから別の書面を取り出して樹里に見せました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じてから、
「今ここでそのお金を払えば、裁判はなしになりますか?」
坂本弁護士は予想の遥か斜め上を行く樹里の発言に目を見開きました。
「今、ここで?」
「はい、そうです」
樹里は笑顔全開で応じました。坂本弁護士はしばらく唖然としていましたが、
「そ、そうですね。今ここで五百万円、お支払いいただけるのでしたら、訴状は提出致しません」
樹里が口から出任せを言っていると思い、ニヤリとして言いました。
「少々お待ちください」
樹里はお辞儀をすると、応接間を出て行きました。
(どこへ行くつもりかしら?)
坂本弁護士は樹里が長い時間戻ってこなかったら、そのまま裁判所へ行こうと思い、書面をバッグに戻して帰る準備をしました。
「お待たせしました」
すると、樹里がワゴンを押して戻って来ました。その上には、五百万円の札束が載せられています。
「げっ!」
また予想の遥か斜め上を行く事をされた坂本弁護士は思わず呻き声をあげました。
「冬のボーナスを二年分持ち帰っていなかったので、ご用意できました」
樹里が笑顔全開で告げたので、
(まあ、いいわ。これで手間が省けるという事で)
坂本弁護士はソファに座り直して、
「では、訴状は裁判所へ提出致しません。預かり証をお書きしますので、お待ちください」
バッグから便箋を取り出して、預かり証を作り、弁護士の印を押して、樹里に渡しました。
「よろしくお願いします」
樹里は深々と頭を下げました。坂本弁護士は、すぐに札束をバッグに詰め込んで、
「では、失礼致します」
応接間を出て行きました。樹里は見送るために後からついて行きました。すると、ドアフォンが鳴りました。
ビクッとする坂本弁護士です。
「いらっしゃいませ」
樹里がドアを開くと、そこには息を切らせた斎藤真琴が立っていました。
「真琴さん、しばらくです」
樹里が笑顔全開で挨拶すると、真琴は、
「樹里さん、ごめんなさい、私の親友がとんでもない事を」
頭を下げて謝罪すると、キッとして坂本弁護士を睨みました。
「龍子、勝手に裁判なんか起こさないでよ! 私は納得して辞めたのよ!」
真琴に詰め寄られ、坂本弁護士は後退りしながら、
「だって、あまりにも左京さんが酷いから……」
「それは貴女の思いこみよ! 自分が左京さんに相手にしてもらえなかった腹いせに訴訟を起こしたかっただけでしょ!」
真琴にビシッと指摘され、涙ぐむ坂本弁護士です。
「ち、違うわよ!」
坂本弁護士は涙を拭って駆け出し、外へ逃げてしまいました。
「ごめんなさい、樹里さん。後でお詫びに伺います」
真琴は坂本弁護士を追いかけて行きました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じました。
「あ」
ロビーには、坂本弁護士のバッグが残されていました。
また波乱の予感がする地の文です。