樹里ちゃん、左京の仕事ぶりに安心する
俺は杉下左京。自宅と渡り廊下で繋がっている探偵事務所を経営している私立探偵だ。
とは言え、開業から何年も経つが(調べてみると、およそ八年三ヶ月)、一向に利益が出ない赤字経営だ。
「早く事務所をたたんで、戻って来なさいよ」
元同僚の平井蘭に時々言われてしまう。
「お給料、大丈夫なんでしょうね?」
自分から復帰したくせに、そんな酷い事を言う加藤ありさ。
だが、事務所をたたむ事はできない。それでは、人生の敗北者となってしまうからだ。
「もう十分敗北してるでしょ? 今更意地張ってどうするのよ? 沢田さんじゃないんだからさ」
ありさが追い打ちをかける。
「誰だよ、沢田さんて? G県のN之条町の漬物屋か?」
わざと知らないふりをしてボケをかますと、
「誰にもわからないような事言って誤魔化そうとしてもダメだからね。お給料は必ず、払ってよね。もし払えなかったら、マスミンに言って、逮捕してもらうから」
ありさは鬼の首を獲ったかのようなドヤ顔で言う。
「加藤の事をマスミンて呼ぶのやめろ。気持ち悪さが倍増するから」
俺は我慢し切れなくなって、言い返した。
「うっさいわね! 私が自分のダーリンをなんて呼ぼうと勝手でしょ!」
ありさは口を尖らせて反論した。
加藤の風貌を知っている人間なら、俺の意見に百パーセント賛成するはずだ。凶悪犯も裸足で逃げ出すような恐ろしい顔をしているのだから。しかも、あの顔をダーリンとか言ってしまうありさはおかしい。
某有名女優に顔とスタイルだけは似ているが、性格は最悪だし、金に汚いところもあるので、残念過ぎる女だ。
「もうすぐお昼だけど、全然電話鳴らないね。もったいないから、解約したら?」
ありさは自分の机にベタッともたれかかり、すでに垂れ気味の巨乳を押し潰すようにして言った。
「そんなことしたら、仕事にならねえだろ!」
俺が言い返すと、
「携帯で受ければいいでしょ? 今はそれが当たり前だのクラッカーよ」
不意に身体を起こして胸を張り、またドヤ顔で言い放った。
カビの生えたような古いギャグ言いやがって。G県の霊感少女も今時言わねえぞ。
「お前みたいなザ・昭和な女に言われても、ピンと来ねえよ」
俺は鼻で笑ってやった。するとありさは、
「いやあ、それほどでもないわよお」
照れ臭そうに笑った。だが、その定番のボケを無視し、遂にかかって来た電話に出た。
「お電話ありがとうございます、杉下左京探偵事務所です」
電話に出ようとするありさを押しのけながら、愛想笑いを浮かべて言った。
依頼はいつものように飼い猫の捜索。日当は五千円だが、背に腹は代えられない。
妻の樹里が高給取りなので、いざとなったら樹里に泣きつけば、ありさの給料くらいは何とかなるのだが、それはまさに俺のプライドが許さない。
別に妻が「ジュリ」だからというシャレではない。
「頑張ってねえ、左京。私の冬のボーナスのためにも!」
ありさが玄関まで見送ってくれたので、おかしいと思ったら、そんなくだらない事を言うためだったのだ。
俺はそれを完全に無視して、事務所を出た。
残念な事に(依頼人にとってはいい事なのだが)、猫はすぐに見つかった。
本当は三日くらい見つからない方がいいし、飼い主もそれくらいかかると思っている事が多いのだが、今回は予想に反して出会い頭に見つかってしまったのだ。
いや、「見つかってしまった」は依頼人に失礼かも知れない。
俺は依頼人に猫を届け、五千円をもらって領収証を切ると、事務所へ戻るために歩き出した。
その時、スマホが鳴り出した。
一瞬、長女の瑠里に何かあったのか、それとも次女の冴里と三女の乃里がわがままを言い出したのかと思って、大慌ててでポケットから取り出すと、
「お疲れ」
ありさだった。思わずそのままブツッと切ろうと思ったが、
「また猫の捜索依頼よ。ちょうど町の反対側になるわ」
「何?」
耳を疑った。一日に二件の猫探しは、ここのところ、全くなかったケースだ。しかもありさが真面目に連絡をくれたのも驚いた。
「ああそうか」
通話を切ってから思い出した。ありさが確実に依頼を受けるように、一件五百円の手当をつける事にしたのだ。
五百円は出し過ぎと思ったが、それ未満だと、ありさが連絡をくれずに握り潰す可能性があったのだ。
あの女のためにそこまでするのはどうかと思ったが、それでも仕事につながればと考え直した。
結局、ありさが真面目に仕事をしたのは、最初の二日だけだった。三日坊主も太刀打ちできなかったのだ。
辞めさせようと思ったのだが、
「ダメですよ、左京さん。もう少し頑張ってください」
樹里に真顔で言われたので、仕方なくありさを叩き出すのを思い留まった。
樹里の真顔は、ある意味加藤の凶悪犯顔より怖いのだ。
更に驚いた事に、もう一件、仕事が入った。今度は迷い込んだ猫の飼い主探しだった。
高級そうな首輪を着けた猫で、俺には種類はわからないが、高そうな猫だ。
見当をつけて、高級住宅街を尋ねて回った。これは流石にすぐには見つからず、飼い主に行き当たったのは、日暮れ間近だった。
「左京、上がるね」
ありさから退勤の連絡が入った。
「おう。今日はお疲れ」
「明日もお疲れだといいね」
最後にはいい事を言ってくれた。少しだけありさを見直した。
昼飯を食わずに脚を棒のようにして働いての一万五千円は、時給換算だとどうなのだろう?
俺は急いで家に帰り、瑠里が戻っているのを確認すると、連れ立って保育所に向かった。
冴里と乃里を引き取り、瑠里に冴里を任せ、眠ってしまった乃里を背負うと、家路を急ぐ。
「あ、ママだ!」
瑠里が樹里に気づく。今日は早く帰れたようだ。
と言うか、もう一人のメイドの目黒弥生さんがつわりで休み始めてから、忙しくなると言っていたはずなのに、毎日のように早く帰宅できるというのはどういう事なのだろうか?
「左京さん、お疲れ様です」
樹里が笑顔全開で言ってくれた。もうそれだけで、一日の疲れが吹っ飛ぶ。
「今日はとても忙しかったとありささんからお電話をいただきましたよ」
「そうなんですか」
思わず、樹里の口癖で応じてしまった。ありさの奴、ナイスフォローだ。明日、褒めてあげよう。
「良かったですね、ありささんが戻ってきてくれて」
樹里はどうやら、ありさのおかげで仕事が増えたと思っているようだ。違うかも知れないが、まあ、いいか。
めでたし、めでたし、だ。