樹里ちゃん、麻耶に恋愛相談をされる
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドです。
今日も笑顔全開で出勤します。
「いってらっしゃい、ママ!」
長女の瑠里と次女の冴里は笑顔全開で言いました。
「らしゃい、ママ!」
三女の乃里も二人のお姉ちゃんを真似して、たどたどしい口調で言いました。もちろん、笑顔全開です。
「行ってらっしゃい」
不甲斐なさだったら、東京五輪並みの夫の杉下左京が元気なく言いました。
「どういう意味だよ!」
地の文のエスプリの効いた冗談に間抜けな質問をして切れる左京です。
「大丈夫ですか、左京さん?」
樹里が心配そうな顔で言いました。
「大丈夫だよ、樹里」
左京はそう応じましたが、そのまま息を引き取りました。
「やめろ!」
まだ後二十年は生きたい左京が地の文に切れました。
すでに四十代に入っているにも関わらず、暑いさなか、猫を探して外を歩き回ったせいで、熱中症になったのでした。
救急車を呼ばれそうになりましたが、そばにいた無給で働いてくれている事務員の斎藤真琴が見事な応急処置をしたので、残念ながら事なきを得ました。
「うるせえ!」
実は誰よりも左京の身を案じている地の文に理不尽に切れる左京です。
「水分はこまめに補給してくださいね。喉が渇いていないと思っても、飲んだ方がいいですよ」
樹里は目を潤ませて言いました。
「そうなんですか」
そのあまりの可愛さに熱中症になるくらい体温が上がってしまうエロ左京です。
「余計なお世話だ!」
更に地の文に切れる左京です。
「樹里様と瑠里様と冴里様と乃里様にはご機嫌麗しく」
そこへ猛暑の中、汗一つ掻かずに登場する昭和眼鏡男と愉快な仲間達です。
「おはようございます」
樹里は笑顔全開で応じました。左京は会釈をしただけです。
大人なのに挨拶もできない、人として最低な男です。
「違うよ! 弱ってるんだよ!」
その割には地の文には元気よく切れる左京です。
「おはよう、たいちょう!」
瑠里と冴里が元気よく言いました。
「はよ、たいちょ!」
乃里も笑顔全開で応じました。
「行ってきますね」
樹里は笑顔全開で告げると、眼鏡男達と共にJR水道橋駅へと向かいました。
「じゃあ、行こうか、瑠里、冴里、乃里……」
左京が樹里を見送って振り返ると、三人の娘はいなくなっていました。
「えええ!?」
左京は真っ青になり、辺りを見渡しました。しかし、どこにも姿がありません。
「誘拐された!」
自分に似ていなくて、とても可愛い娘達を同僚だった警視庁の加藤真澄警部のような脱獄囚顔の男が連れ去ってしまった!
左京は非常に狼狽えていました。
「自分に似ていなくては余計だ!」
細かいところに突っ込む左京です。
「俺は脱獄囚顔じゃねえよ!」
どこかで加藤警部が切れました。
「ワンワン!」
するとゴールデンレトリバーのルーサが吠えました。
「え?」
左京はルーサの鳴き声に反応して、家の方を見ました。すると、門扉に貼り紙がしてありました。
『瑠里ちゃんと冴里ちゃんと乃里ちゃんは無事当所までお送り致します 保育所男性職員一同』
最近、登場機会を失っていた保育所の男性職員の皆さんが、左京が熱中症になった情報を入手し、瑠里達を迎えに来たのでした。
それすら気づかない程、朦朧としていた耄碌オヤジです。
「やかましい!」
鋭い指摘をした地の文に切れる左京です。
(大体、父親に声をかけずに娘達を連れて行ってしまうような保育所ってどうなんだ?)
左京は保育所を本気で変えようと思いました。
三人の娘が泣いた時、一緒になって泣いてしまった役に立たない父親だからだと思う地の文です。
「ううう……」
前回の大失態を思い出させた地の文のせいで深く項垂れる左京です。
そして、樹里は何事もなく五反田邸に到着しました。
「樹里さん、おはようございます」
お面夫婦の目黒弥生が挨拶しました。
「お面夫婦って何よ!」
地の文の言う事は全て気にくわない弥生が切れました。
仮面夫婦程ではないおもろい夫婦という事です。
「余計なお世話よ!」
更に切れる弥生ですが、
「はっ!」
我に返ると、いつものように樹里はいなくなっていました。
「樹里さーん、今日は麻耶お嬢様がご相談したい事があるそうなんですう!」
慌てて涙ぐんで駆け出す弥生です。
樹里は着替えをすませてキッチンへ行くと、麻耶のために紅茶を淹れて、彼女の部屋へ行きました。
「どうぞ」
ノックの音に応じる麻耶です。高校二年生になった麻耶は大人びてきました。
「おはようございます、麻耶お嬢様」
樹里はトレイに紅茶が入ったカップを載せて深々とお辞儀をするという高等テクニックを見せました。
「ありがとう、樹里さん」
麻耶は勉強机に向かっていましたが、樹里と話すために二人がけの革張りのソファの一方に腰掛けました。
「失礼致します」
樹里はトレイをガラスのテーブルに置き、麻耶の向かいにあるソファに座りました。
「ご結婚おめでとうございます」
樹里が突然言ったので、
「その麻耶じゃないです、樹里さん」
苦笑いして樹里のボケに応じる麻耶です。
「そうなんですか」
それにも関わらず、樹里は笑顔全開で応じました。
「でも、私もそう遠くない将来、結婚するかも」
意味深長な事を呟く麻耶です。樹里は笑顔全開で、
「ご相談は恋愛ですか?」
いきなり直球の質問をしました。
「え? どうしてわかるの?」
麻耶はわざとらしいとぼけ方をしました。樹里はまた笑顔全開で、
「お嬢様のお顔に書いてあります」
「ええ!?」
今度は本当にびっくりして顔を撫でる麻耶です。恋愛に関してだけは、非常に厳しい父親である五反田氏に見られたら困ると思ったからです。
「私、そんなわかり易い顔してた?」
頬を紅潮させて尋ねる麻耶です。樹里は微笑んで、
「はい」
「やだ……」
麻耶はますます顔を赤らめました。そして、
「父は、相変わらず、頑固なの。はじめ君と付き合うのは認めてくれたんだけど、結婚は別問題だって言っていて……」
悲しそうに樹里を見ました。樹里は笑顔全開になり、
「大丈夫ですよ。旦那様は、誰よりもお嬢様のお幸せを願っていらっしゃるのです。最後にはわかってくださいますよ」
「そうかな?」
麻耶はまだ父親の事を信用し切れていません。男子との事以外は、よその父親より遥かに甘いと思っている麻耶ですが、男子の事だけは、よその父親より理解がないと思っているのです。
「結婚はお付き合いとは違います。お父様のおっしゃる事はごもっともだと思います。お急ぎになる事はありませんよ。お嬢様にはまだ時間がありますから」
樹里の意外な言葉に麻耶は目を見開き、
「それって、はじめ君の他の男の子とも付き合えって事?」
「そうではありませんよ。結婚には責任が伴います。お付き合いとは違うという事です。適齢期という言葉がありますが、それには個人差があります。人によっては、その適齢期が六十代の場合もあるのです。ゆっくりお考えください。間違っても、お父様に反発するために結婚をなさるのはおやめくださいね」
樹里がいつの間にか真顔で話していたので、麻耶はビクッとしました。
(樹里さん、たまに怖い時がある……)
結婚してしまえば、父も諦めると思っていた自分を恥じる麻耶です。
めでたし、めでたし。