樹里ちゃん、喫茶店で働く
俺の名前は杉下左京。
警視庁特別捜査班の班長だ。
本当は雑用係のような事をしているのだが。
先日、あの真面目な亀島が突然休暇願を出した。
「別に俺達には仕事がある訳ではないから、好きなだけ休んで楽しんで来い」
そう言ったのだが、何故か奴の顔色は冴えなかった。
何かあったのだろうか?
確か、経理の連中の話では、女性が尋ねて来て、それから様子がおかしいようだ。
誰だろう?
あいつに彼女はいないはずだが。
俺と違って、内向的でモテないからな。
今度所轄同士の合コンがあるらしいから、誘ってあげよう。
きっとあいつの事だから、振られて落ち込んでいるのだろう。
亀島が休暇でいないと、只でさえ暇な特捜班は更に暇になってしまう。
俺は庁舎を出て、行きつけの喫茶店に向かった。
カランコロン。
喫茶店のドアらしい音がする。
俺はこういう古めかしいところが好きだ。
もう何年も通い詰め、すでにマスターとはすっかり顔なじみだ。
いつもの窓際の席に着く。
外を忙しく歩くビジネスマンの姿を見るにつけ、自分の仕事のあまりの情けなさに悲しみがこみ上げそうになる。
そばにあるラックから新聞を取り、四コママンガに目を向けた時、ウエイトレスが水を持って来た。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
俺はその声に何となく聞き覚えがあったのだが、マンガのオチを見ている最中だったので、顔を上げずに告げた。
「いつもの」
「いつものですか? そのようなものはメニューにございませんが」
ウェイトレスはイラッと来るようなおっとりした声で答えた。
「いつものって言えば、いつものだろ?」
俺は堪りかねてウエイトレスを見た。そして凍りついた。
「やはりそのようなものはこのメニューにはございませんが」
と言って笑顔全開でこちらを見たウエイトレス。何でこいつが?
「あ、あんたはあの時のメイドさんじゃないか!」
俺は場所柄も弁えずに叫んでしまった。
店内の全員が俺を見た。
「お客様、私をご存じなのですか?」
そのウエイトレスは、つい先日、冤罪になりそうなところを我々が助けた御徒町樹里だった。
「忘れたんかい!」
俺は彼女の記憶の片隅にも残っていない事を知り、ムカッとした。
言ってみれば、俺はこの女の命の恩人同然の存在なのだ。
それなのに、覚えていないとは……。
情けない。
「俺だよ、俺。杉下左京。警視庁の特捜班の」
樹里はニコッとして、
「ああ、亀島さんの部下の方ですね」
「違ーう! 亀島が俺の部下なの!」
「そうなんですか」
何で喫茶店でこんなにイラつかなければならないんだ。
面倒臭い事になりそうだ。俺はここでいくら主張してもラチが開かないと思い、
「ブレンド。マスターに杉下左京だと言えば、わかるよ」
「はい」
見た目は可愛い分、あの天然は致命的だ。
世の中には不思議な人間がいるもんだ。
マスターはどうしてあんな女を雇ったのだろう?
この店、潰されるぞ。
………。
しかし、その心配はないようだ。
バカはたくさんいる。
店内は、あの女の容姿に騙されて、たくさんの若い男達がいた。
お前等、一度でいいからあいつとサシで話してみろってんだよ。
思い出すだけでイラつくあの取り調べの日。
「お待たせ致しました」
樹里が戻って来た。
「おう」
俺はカップを受け取り、口に運ぶ。
「あれ?」
コーヒーがいつものと違う。
「何だこれ、缶コーヒーみたいな味がするぞ」
俺は匂いを嗅いだ。やっぱり以前と違う。
「むっ?」
いつもの喫茶店のつもりで入ったので、内装をよく見なかったが、今良く見てみると、怪しさ満点だ。
何だ、この雰囲気は?
喫茶店じゃないぞ。
奥の席は囲われていて、中の様子がわからない。
まさか?
おいおい、いつの間にカップル喫茶になったんだ?
俺は席を立ち、カウンターに近づいた。
「お客様、お帰りですか?」
樹里が笑顔で近づいて来た。
「おい、あんた、悪い事は言わない、この店をやめろ」
「えっ? それはもしかしてプロポーズですか?」
樹里は顔を赤らめて突拍子もない事を言ってのけた。
「そんな訳ないだろ! 怪しいからやめろって言ってるんだよ」
俺は小声で言った。しかし樹里は俺の話を聞いていなかったようで、
「コーヒーとテーブルチャージで五万円になります」
とコンビニのレジのように軽く言った。
「ご、五万円?」
ボッタクリバーならぬボッタクリ喫茶かよ。こんな昼間から、何て事してるんだ?
「おい、ここはボッタクリの店か?」
俺がカウンターの向こうにいる男に尋ねると、
「お客さん、妙な事言わないで下さいよ」
と凄んで来た。
虫の居所の悪い俺の、ストレス解消の標的に丁度いい。
そいつは俺を締め上げようとして近づいて来たが、逆に腕をねじ上げた。
「いてて!」
「警察だ! 静かにしろ!」
その途端、様々な格好をした男女が飛び出して来て、逃亡した。
何なんだ、ここは?
結局、俺は応援を呼び、店を捜索した。
どうやら薬も売っていたらしい。
樹里は大丈夫なのだろうか?
何故か心配している自分に驚いた。
彼女は確かにど天然だが、美人だし、性格は良さそうだ。
心配したくなるのも仕方ないだろう。
薬物検査の結果、彼女は陰性だった。
勤め始めてまだ三日目だそうだ。
もう少し遅ければ、薬漬けにされて売り飛ばされていたかも知れない。
「助けて頂いてありがとうございました」
警視庁のロビーで、俺は樹里に礼を言われた。
「警察官として当然の事をしたまでさ。礼なんていいよ」
「そうなんですか?」
間近で見ると、やっばり可愛い。
度を過ぎた天然でなければ、間違いなく口説いている。
「あの」
樹里は何故かモジモジしながら、小さな紙切れを俺に差し出した。
「今度お電話下さい。これが連絡先です」
「お、おう」
俺は酷くドキドキして、それを受け取った。
「失礼します」
樹里は笑顔で立ち去った。
俺はしばらく彼女の後ろ姿を見ていたが、紙切れの事を思い出して特捜班室に走った。
ロビーなんかで見ていたら、誰に覗かれるかわからないからな。
「さてと」
はやる気持ちを抑えながら、俺は紙切れを見た。
「……」
それはキャバクラの名刺だった。
源氏名はジュリー。写真付きだ。結構可愛く撮れている……。
いや、ダメだ。
もう本当に知らん。あいつがどうなっても関係ない。
俺は呆れ果てた。
………。
しかし、もう一度名刺の住所と電話番号を確認してしまうのは、男のサガであった。