樹里ちゃん、なぎさを保育所に連れてゆく
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドです。
今日は樹里はメイドの仕事をする時間がなくなりました。
親友の松下なぎさが、五反田氏にとんでもない事をお願いしたせいです。
世田谷区民であるなぎさは、文京区の保育所に愛息の海流を通わせる事はできません。
しかし、何を言っても聞かないなぎさは、
「六ちゃん、何とかしてよ!」
時代劇のバカ殿様並みの無理難題を吹っかけました。
なぎさの「お願い」に困り果てた五反田氏はなぎさの夫の栄一郎と相談し、樹里の住所に住民票を移し、樹里の長女の瑠里と次女の冴里が通っている保育所に入所させる事にしました。
「じゃあ、樹里達と一緒に暮らせるんだね!」
大きく勘違いをしたなぎさは、大喜びしました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じましたが、
「そうなんですか」
不甲斐ない夫の杉下左京は引きつり全開で応じました。
なぎさの想像を絶したマイペースぶりを知っているからです。
「あー、いやいや、なぎささん、一時的にそうするだけで、樹里さんと一緒に暮らす訳ではありませんよ」
嫌な汗をしこたま掻いてなぎさに説明する栄一郎です。
言い出したら聞かないなぎさのために、栄一郎は文京区に引っ越す事にしました。
しかし、そう簡単に住める所は見つからないので、緊急避難として、樹里の家の住所を借りる事にしたのです。
「ええ? そうなの? 私は全然かまわないんだけど」
他人に身を遣った事が人生で一度もないなぎさはケロッとした顔で言いました。
「あー、いやいや、なぎささんはかまわなくても、樹里さん達が困るんですよ」
栄一郎は額の汗をハンカチで拭いながら言いました。
「樹里は私達と一緒に暮らすのが迷惑なの?」
なぎさは目を潤ませて尋ねました。
「そんな事はありませんよ」
樹里は笑顔全開で応じました。
「そんな事はありませんよ」
なぎさのウルウル攻撃にキュンとしてしまったスケベ男の左京も笑顔全開で応じました。
「うるせえ!」
深層心理をズバッと見破った地の文に切れる左京です。
「ほら、大丈夫じゃん。もしかして、栄一郎が嫌がられてるの?」
なぎさの何も考えていない一言で栄一郎は心が折れそうです。
「そうなんですか?」
思わず樹里の口癖で尋ねてしまう栄一郎です。
「それもありませんよ。新しいおうちが見つかるまで、私達と一緒に暮らせばいいではないですか?」
樹里が更に笑顔全開で言ったので、栄一郎は立ち直りました。
「むう、栄一郎ったら、樹里にデレデレして!」
妙な所だけ鋭いなぎさが栄一郎に詰め寄りました。
「ご、誤解です、なぎささん!」
また嫌な汗まみれになる栄一郎です。
こうして、一悶着あったなぎさ一家の転居騒動は一件落着し、一時的に樹里の家に引っ越す事になりました。
「わーい、わーい!」
なぎさ達が一緒に住むと知った瑠里と冴里は大喜びで、以前保育所で覚えた喜びのダンスをしました。
それはまるで呪いの儀式のような動きをするので、左京はまた引きつり全開になりました。
そして、数日後、樹里は仕事を休み、なぎさと海流を伴って、保育所に行きました。
保育所には、すでに区長から連絡があり、日本有数の大富豪の五反田氏の親友の息子が入所希望だと聞いているので、内定どころか、本決まりになっていました。
「ようこそおいでくださいました、松下様」
職員総出で出迎えです。区長が来ても、そこまでの対応はしないと思う地の文です。
「書類の方は全てこちらで作成しておきましたので、サインだけお願いします」
所長がなぎさに書類一式を手渡しました。
「どこにサインすればいいの?」
なぎさはボールペンを受け取りながら尋ねました。
「こちらとこちらとこちらですね」
所長は作り笑顔全開で言いました。
「違います!」
事実を伝えただけの地の文に顔を真っ赤にして抗議する所長です。
「いつもは断わるんだけど、海流がお世話になるから、特別ね」
なぎさは奇妙な事を言って、ササッとサインしました。
「ゲッ」
それを見て思わず呻く所長です。なぎさは今でも女優なので、所謂サインをしてしまったのです。
「後でネットで売ったりしないでね。そんな事すると、弁護士さんに言いつけちゃうからね」
ウィンクして告げるなぎさです。
「そうなんですか」
所長は引きつり全開で応じました。
(こんなふざけた署名じゃダメかも知れないけど、何とかなるでしょ)
区役所の担当部署の人達もなぎさと樹里のファンがいるので、その辺で押し切ろうと考える所長です。
「ではですね、申請書をお預かりして、しばらくお時間をいただきまして……」
所長が説明を始めると、すでにそこにはなぎさと樹里はいません。保育士の女性が海流を抱いて立っているだけです。
「あら、松下様はどうされたの?」
少し怯えながら所長は尋ねました。
「よろしくお願いしますとおっしゃって、お帰りになりました。どうすればいいですか?」
顔を引きつらせて尋ねる保育士です。
(まだ何も手続きがすんでないのにィ!)
発狂寸前になる所長です。
これから先が思いやられると思う地の文です。
めでたし、めでたし。